


2003年6月11日 竹富島の民宿にて
伝統文化の中には、決して言語化することのできない、幾多の知恵が込められているといいます。
前のエッセイにも少し書きましたが、滞在先の民宿にはミンサー織の有名な織手・内盛スミさん(通称おかあさん)がいらっしゃいます。
おかあさんの織るミンサー織の藍の色は、限りなく深い蒼。最近は機械で織ったものも多く出回っているようですが、手織りと機械織の間には、天と地ほどの差がある。同じ濃さの藍色の糸を使っても、仕上がったミンサー帯の藍色は、黒と白ほどの違いになってしまうのです。
なぜかと考えた時に、人が口伝(こうでん)で受け継いだ技術には、決して機械化することのできない様々な要素、そして何より、文化を背景にしたスピリットが宿るからだと重い至ります。
ミンサー織の正確な起源は分かっていないそうです。
でも100年ほど前の明治時代、竹富の女性が、男性に帯を織って贈ったことが、ミンサー織の復活のきっかけだという説もあります。
そして説明を聞くところによれば、ミンサー織には、深い意味が込められているそう。
ミンサー織が盛んに織られた当時は、竹富にも通い婚の風習がありましたから、男性が女性の元に足繁く通ってくれるようにとの思いを込めて、ミンサー帯のミミ(はじっこの部分)は白と黒が交互に織られた模様。ムカデ(百足)の足を表現しています。このミミは、強くて頑丈でなければならない。それだけ二人の愛がしっかりしたものになるように。
また、5つと4つのアヤ(四角を組み合わせた模様)ですが、これには「いつ(5つ)の世(4)までも、二人の愛は続く」という意味が込められているそうです。ただのシンボルマークではない、大切な意味のこもった「しるし」です。
そしてアヤ(模様)は、くっきりと延びる2本の白線に挟まれています。この白線の意味は、二人の愛情は潔白で、どこまでも続くという意味。
最後に、これらすべてのベースになる色、藍(アイ)の色は、愛(アイ)の深さを言い換えたもの。ですから、藍の色はどこまでも深い藍色に仕上がらなければならないのです。
深い藍の色を出すには、縦糸と横糸を絶妙な力加減で締め上げなければならない。糸が切れないギリギリの強さで。しかしおそらくこれが、機械にはできないのでしょう。機械織のミンサー帯は、藍というよりもかすれたインディゴのように仕上がってしまいます。
手織りで、力を込めて織れば、見事な濃紺!
機械には真似のできないこのような技術は、知恵と共に直接受け継がれてゆく、微細な伝統文化です。
幸いながらこの民宿には、次の世代を担う織手の女性が。
「八重山芭蕉布に出会った瞬間、雷に打たれたような気がした」という彼女は今、竹富島で織物に取り組んでいます。美しい伝統文化に惹かれ、美しい布を織り上げるべく、海を渡ってこの島に来る人は、決して少なくないそうです。
彼女の織り上げたミンサー帯も、深い藍が美しい作品に仕上がっています。
![]() 今日も竹富の空はきれい |
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内盛スミさんと 馬場裕子さん ミンサー織の織手 |
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| ↑ミンサー織 馬場さんの作品 上品な色合いの帯 → 伝統的なミンサーの柄 |
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ミンサー織はじめ 八重山の織物は 自然の染料を使って織る 上は藍 下は紅露(クール)といわれる 染料 茶系に使う |
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2003年6月16日
ただいま日本の(有人島)最南端の、波照間島に来ています。
石垣島から船で1時間と少し。
「果てのうるま(珊瑚礁)の島」という意味のこの場所、さぞかし美しい場所なのでしょう...晴れていたら。
私が到着した時は、見事に台風接近の直前。船が港に近づくにつれ、波のうねりが大きくなり、海が鼓動しているのが感じられます。人間の生活を中心に考えると、台風はとかく害になるものと思われがちですが、日本の降雨量の多くは、台風によってもたらされると聞きます。
また台風は、その強力な圧力の変化によって、海の中をかき回し、さまざまな生物の元に栄養を送ってくれます。
さとうきび畑と風力発電の風車を見学に行き、びしょぬれになってしまいましたが、身体に叩きつけられる生あたたかい雨つぶの中に、地球の大きなエネルギーを感じました。
| 波照間島の人口は600人弱 いちめんにさとうきび畑が広がる |
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![]() ![]() 「おーりとーり」とは「いらっしゃいませ」の意味 石垣島のフェリーのチケットコーナーで(上) 波照間島にあるパナヌファ(上左)は 日本最南端のカフェ 今日は台風で閉まっていた カフェ好きとしては、近日チャレンジ |
![]() ↑波照間島の風力発電塔 台風接近中なので、ぐるぐる回転中 |
2003年6月16日 波照間島の体験記
よりにもよって台風銀座・沖縄の波照間島で、台風を体験してしまいました。
波照間島へは、石垣島から船で約一時間。
行きの航海は、台風が迫ってきているとは思えないほど穏やかなものでした。しかし日本の最南端へ近づき、台風に近づくにつれ、波は高くなり、上空からはスコールのような雨が打ち付けてきます。
徐々に揺れはじめた船で着いた日本最南端の島は、さとうきび畑が広がる島。
しかし台風の影響で、空も海もグレー一色です。泊まった宿の窓のサッシには、カギが1セットではなく2セット。別にドロボウよけというわけではなく「台風で窓が飛ばされないように」だそうです。サッシにカギは1セットだけの場所で育ってきたため、ちょっとした驚きでした。
台風のエネルギーは、巨大で神秘的。有無をいわさぬ大きなものです。
降っては止む雨、横殴りの風に、自然のちからをまざまざと見せつけられる感じがします。本当は恐いはずなのに、不思議と感動すら覚えるぐらい。地球という生命体のエネルギーを肌で感じます。そしてその中に包まれていると、私も一生命体に過ぎないのだと、リアルに感じることができるのです。
八重山の人たちは、台風に逆らわず、台風と共に暮らしていることがよく分かります。塀は高く、屋敷は低い。2階建ての家はめったにありません。家の周りには潅木を植え、家屋を風が直撃しないように工夫されています。
東京では台風が来ると、「襲来」とか「被害状況」などの表現が、テレビ画面に踊ります。台風中継が繰り出し、まるで厄介物のように扱われ、みんながちょっとしたヒステリー状態になったかのように、仰々しく報道されがちです。
しかしここでは、台風はごく当たり前のもののよう。(なにせ「銀座」ですものねえ。)粛々とした台風の一夜に、波照間に住む人たちの、自然づきあいの歴史の深さを感じました。
そして台風一過の海は、信じられないぐらい青い!!
さとうきび製糖工場の、黒い煙突が映えた青い空と青い海は、台風とつきあってこその美しい風景です。
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台風一過の波照間島には 美しい青空が戻ってきた 製糖工場の煙突も映える 思わず猫も午睡 |
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2003年6月26日 沖縄のとある海運会社の下取材
八重山の足は「船」。
もちろん電車などなく(最近沖縄本島にモノレールができたらしいと伝え聞く)、人々は本当に気軽に船を利用します。
離島には食料や生活必需品が船で運ばれます。出勤に船を利用する人もいます。青い海を走る無数の船が、人々の生活を支えているようなのです。
そんな船のスタッフは、たとえるなら人生の運び屋さん。
旅人にとっては心強い海の案内人ですし、地元の人にはなじんだ顔といった感じ。ちょっとぐらい海がしけていても、確実に人々を運んでくれる。的確に波を読み、船ができる限り揺れないように、航路を取る。傍らには最新のGPSが積んでありますが、熟練したパイロットが当てにするのは、彼らの頭の中に入った南緯北緯の数字と、昔ながらの羅針盤だといいます。島影などの目印がない外洋でも、航路通りにぴたりと船を進める仕事ぶりはまさに職人中の職人、脱帽です。
彼らによって届けられるたくさんの荷物の先には、それを待っている人がいる。
八重山の海上交通と、港に荷物を取りに来た地元の人との間に、しっかりした信頼関係が結ばれているのが分かり、嬉しくなりました。
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←八重山では、船は重要な足 ↓港には、受け取りを待つ 荷物が |
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波照間港の ターミナル 波照間までは 一日3便の船が 運行されている |
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2003年6月26日 竹富島を離れる夜、島の桟橋で夕日を見て
八重山の人たちは、本当に話し好きです。
ちょっとカフェに入っただけでも、2度目に訪ねてゆくと顔を覚えてくれている。(もしかして相対的に人が少ないから?)
美容室で髪を切るにしても、本当にゆっくり話しながら。
取材をお願いしている「仕事人」の人たちも、ずっと作業し続けることはありません。集中したら手を止め、休む。周りの人たちと軽口をたたきあいながら、ゆっくり確実に仕事をすすめます。職場が笑いにあふれているのに、こちらも嬉しくなるぐらいです。
振り返れば、我が家がある東京は確かになんでもあって、歩みを止めることのない場所です。電車も時刻通りに来るし、ブロードバンド回線、巨大な書店、濫立するビル、無数の飲食店があります。何をするのにも便利で、事欠くことがありません。
しかし東京で私はいつも、人のいない孤独を感じます。
確かに人間がたくさんいるし、友だちはいるし、付き合いもあります。でも、それを「する」時間がないのです。立ち止まって冗談を言い、付き合いに没頭して我を忘れ、仕事の手を止めて空を見上げる時間がないのです。そして、忙しく仕事に追い立てられて一日が終わると、楽しいことをしたり笑いあったりする気力が残っていない。情けなくも悲しい気持ちを感じます。
ここ竹富では、一日が終わると、桟橋に夕日を見に行くのが習慣になりました。
夕日の沈むのが7時過ぎだから、6時からごはんを食べて、それからのんびり散歩。ところどころで知り合いとすれ違い、その度にあいさつをしたり、ちょっと立ち話をしたりして、ゆっくりと歩く。桟橋に着くと誰か見知った顔がいて、今日の出来事や、島のニュースを交換したり、本当に下らないおしゃべりをしたり、夕日を見ながら静かな時を過ごします。
「人間関係にはコミュニケーションが欠かせない」などと綴られますが、コミュニケーションは無理にするものじゃない。時間があって、気持ちにゆとりがあれば、自然に成り立つものなのですね。
そして自然なコミュニケーションは、リアルライフの中にこそあることを学んでいます。
2003年6月26日 約一ヶ月滞在した竹富島を離れる日に
このHPでも繰り返しご紹介してきた通り、竹富島の風景は本当に美しいものです。まるで映画のセットに紛れ込んだかのような錯角を抱く魅力的な場所。観光客にはたまりません。
同時にこの風景は、住んでいる人々にとっても幸福なもの。
私は一ヶ月という短い間しか居ませんでしたが、美しい風景は何度見ても見飽きないものです。青空に映える赤瓦、白い砂とピンクのブーゲンビリア。朝は早くからほうきの「サッサッ」という音が、通りに響きます。島民たちが愛し、欠かさず手入れをしているこの風景を、いつしか私もとっても愛するようになっていました。
ところで、竹富島には「竹富島憲章」なるものがあります。
竹富の人々は、この考え方をとても大切にしています。あまりにすばらしいものですので、許可を取った上で、この場に紹介させて頂くことにしました。
竹富島憲章
私達は、祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り『かしくさやううつぐみどぅまさる』の心で島を生かし、活力あるものとして後世へ引き継いでいくためにこの憲章を定めます。
保全優先の基本理念
一、『売らない』
島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、『汚さない』
海辺や浜辺、集落等島全体を汚さない。
三、『乱さない』
集落内、道路、海岸等の美観、島の風紀を乱さない。
四、『壊さない』
由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。
五、『生かす』
伝統的祭事、行事を精神的な支柱として民族芸能、地場産業を生かす。
私たちは、古琉球の様式を踏襲した集落景観の維持保全につとめます。
私たちは、静けさ、秩序ある落ち着き、善良な風俗を守ります。
私たちは、島の歴史、文化を理解し教養を高め、資質向上をはかります。
私たちは、伝統的な祭りを思んじ、。地場産業を生かし、島の心を伝えます。
私たちは、島の特性を生かし、島民自身の手で発展向上をはかります。
経済効率を最優先にしてきた結果、古いもの、美しいものがどんどん打ち捨てられて、日本中どこに行っても景色が同じになりました。大好きだった代官山駅裏も変わってしまったし、原宿の同潤会アパートももうすぐなくなります。いろいろ事情はあるかもしれないけれど、私にはそれが幸せなことだとは思えません。
海外に行くより、ディズニーランドに行くより、まず自分の住んでいる街が「最高に美しい!」と思えるようになれば、きっと日本は大きく変わるのにと、いつも思います。
竹富島憲章をここに転載するに際して、公民館長(自治体の責任者)の許可をいただきました。
この憲章は、竹富島の島民が大切にしているスピリット。無断引用、転載は固く固くお断り申し上げます。文章を転用するのではなく、この素敵な精神を心の中にそっと刻んでおいて下さいね。
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| ブーゲンビリアが咲き誇る 竹富の風景 |
犬も午睡でまどろむ 人間はその横でお喋り↓ |
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↑ 島の道は白砂が敷かれている 家々にはフルーツの木が 実に気軽に植えてある |
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2003年6月27日 長かった沖縄の、最後の夜に思う
今回の旅で知り合ったレゲエミュージシャンの人に「バビロンシティ」という言葉を教わりました。
(レゲエ用語だそうです。もちろん私は知る由もなかったです。)
東京やニューヨークなどの大都市は、お金の価値が至上だったり、経済効率だけが優先になる傾向がある。その結果、自然や古く美しい街並が失われたり、ひいては、人間のハートにもヒビが入ってしまったりします。このような状態は、バビロンシティの特徴だそう。
「バビンシティ」という言葉を聞いた時、私が日頃うすうすと感じている「生きづらさ」に言葉が与えられた気がしました。
秋田で18年、東京で12年を暮らしましたが、東京でのライフスタイルは、どこか大地とのつながり...生命のコードが切れてしまった感覚をおぼえていました。人生にパワーを持たせ、がんばるためには、自分にむりやりエンジンをかけて、どこかハイにならないと、もたない。私にとって東京で暮らすのは、例えるならば、非常用のエンジンを常時フル回転にしても、エネルギーの大半が漏れ出して前に進めないような感覚に似ています。
生命というリアルな手ごたえや大地とのつながりをを失った人間が生きてゆくことは、とても難しい。
だから、バビロンシティは魔物なのでしょう。
自然とのつながりが失われているので、果てしない膨張・加速度のかかったスピードを止めるものが何もないのです。その結果、巨大化した都市自体がひとつのパワーとなって、さまざまな尺度を狂わせてゆくのかもしれません。
満天の星空や美しい夕焼けは、私がこの地上に存在することを快く肯定してくれるような気がします。生命の神秘を、美しい、時には不思議な光景に投影して、シェアしてくれるような気がするのです。
大好きな文章を一生書き続けるために。私が一生見つめつづけたいものは何なのか、なにをして死んでゆきたいのか。自然を通じて、偉大な存在から問い続けられている気がした1ヶ月でした。
そしてもうすぐ、バビロンシティに帰ります。
2003年6月28日 島帰りの次の日、ふと思う
沖縄にいる時に「勝ち組、負け組」という話になったことがあります。一緒に話したのは、同じく東京で職業を持つ友人。八重山のゆったりした空気の中で話すと、普段は口に出せないことも、不思議と素直に表現できるのです。「胸の扉が開く」とはこういうことでしょうか。
沖縄のことを知らないで、東京から沖縄を見ると、「職がない」とか「基地に依存して生きている」とか「観光収入しかない」「東京よりも人々はレイジー(怠け者である)」といったイメージがありました。
しかし、行ってみるととんでもない!
人々はゆっくりではあるけれどもよく働くし、面白い職業がたくさんあります。(ホント!) そして皆、自分の生き様を楽しんでいる様子がうかがえます。人々はゆっくり話をしたり、無駄口をたたいたりしながら、自分の仕事をエンジョイする。たかだか旅人の私でも、「おかげで仕事の手が止まった!」と無視されたりうっとおしがられたりした覚えがほとんどありません。
(石垣島程度であれば)人口は極端に少ないわけではないけれど、顔がわからないほどではないため、程よい距離感がある。人とコミュニケーションを楽しむ時間の余裕もある。人生の醍醐味は、まさにこれです。
したがって、沖縄に魅力を感じて移住を決心する人も、少なくないそう。内地(本土)の人を沖縄では「ナイチャー(内地の人)」と言いますが、ナイチャーは年々増えるばかりで、一説によると、過疎が進むこのご時世、沖縄県だけはなぜか人口が増えているそう。年間2万人もの人が、住民票を沖縄に移すという話を聞いたことがあります。
正直に告白すれば、東京にいた時の私は、そんな人々のことを心のどこかで「負け組」と感じていた節があります。何より私自身が地方出身者なので、東京の過酷なライフスタイルの中で生き残れず、地方に戻ってゆく人のことを、正直心のどこかでちょっと見下していたような気がします。
今考えると、何より私自身が東京で強く生きてゆかなければならなかったから、夢を叶えるのには、この場所で戦ってゆかなければならなかったからかもしれません。東京のクレイジーな暮らしの中、最後まで その位置をキープし続けることで、人生の「勝ち組」に残れると誤解していたのです。
東京で暮らしてみると、この街は何でもあります。また、大地に根を張った生き方をしなくてもいいのが、大きな魅力でもあります。つまり、顔の見えない生き方、どこで何をしようが責任のない生き方をできるのも、この街ならでは。
一方で、地方に行けば行くほど、選択を迫られます。
例えば私の育った秋田は、匿名で暮らしづらいところ。誰がどこで何をしているか、すぐ分かってしまうので、責任のないことができないのです。(これはどこの田舎でも同じだと思います。) また田舎には、モノが手に入りにくかったり、サービスが整っていなかったりという、インフラの不自由さもあります。
しかし、人間関係の密度は圧倒的に違います。人と知り合う時間がある。親切にする時間、一緒に楽しむ時間がある。自然との関係も深い。
人生で何が重要かの基準は人によって違うと思います。でも、同じ人生を生きるなら、一人で孤独に生命を繋ぐより、共に歩む仲間がいることが何よりの幸せのような気がします。
八重山でちょっとだけ暮らしてみた今、考えが少しずつ変わってきています。
前にも書きましたが、「せっかく生まれてきた人生の中で、何を経験して死んでゆきたいか」を、深く考えるようになったのです。
一度しかない人生、何を選ぶのか。
「人生に勝ったか負けたかの基準は、自分の心のなかにあればいい。たとえ周りがどう思おうとも、自分が心から納得していれば、満足があれば、それでいい。」
今はまだ迷っている私にとって、八重山に移住した「ナイチャー」たちは、先を行く仲間に見えました。
離島生活から戻って1日目。そんなことを感じています。
2003年6月30日 沖縄から帰ってきて3日目、電車に乗って驚く
今日、島から帰ってから(ほぼ)はじめて、電車に乗りました。
東京で当たり前に電車に乗っていた頃は気づかなかったけれど、高速移動をして、窓を流れる景色をながめていると、あまりに速くて、周りの景色がどんどんカットされていくように感じます。つまり、景色がどんどん加速し、そのうちすべてが流れ、なにも見えなくなってしまうのです。車窓の向こうを漫然と眺めていると、そのうち「高速であることが当たり前」だと説得されているような気になってくるから不思議。
この速さに慣れると、脳もじきにせかせかと動き出し、そのうち速さに慣れ、何にも感じなくなってしまうから不思議です。
しかしこの速さは、生命のゆっくりしたリズムを越えて加速する時間。人間の呼吸、心拍数、生体のリズムを遥かに越えて、人間にムリすることを強いる、不自然なリズムなはずです。そして、そのようなリズムを強要され、それによって生じるストレスに身体が鈍感になってしまったら、私の身体と心は一体どうなってしまうのでしょう。
まいにち移動に1〜2時間を費やすということは、島時間の尺度から言えば、まいにち石垣島と波照間島を往復しているのと同じこと。
すごい距離、大旅行です。
2003年7月17日 ドキドキの東京・東銀座
いつも取材する側の私ですが、ひょんなことから取材を受けることになりました。
内容は『夢をかなえる人の手帳術』に関して、あれやこれや。依頼先は...まだ照れるので秘密にしておきますね。インタビューの内容が記事になってから、改めてご報告申し上げられればと思っています。
インタビュアーの方がとてもお上手で、乗せていただいているうちに楽しく取材が終わったのですが、いつも人様に突撃な取材を繰り広げている私としては、「因果応報」という言葉の重さをしみじみと感じました。
勉強になりました。