ケアーにつながる[5]- 「ふつう」になろうとしない。「ふつう」とは、一人一人の「私」のこと

ONSA WORKSHOP にご参加判断をされる前に
ケアーにつながる[5]- 「ふつう」になろうとしない。「ふつう」とは、一人一人の「私」のこと


1 | 「おかしい」「ふつうじゃない」という言葉に、とりわけ敏感かもしれない


前回まで、発達障害を自覚していなかった方が経験するであろう、さまざまな大変さについて、見てみました。

ひと一倍、一生懸命なのに……。
なぜか、何かが「ずれる」。
これでは、ご本人は苦しいはずですよね。



ONSA WORKSHOP にたどり着いてくださるのも、こんな発達障害の方々です。
いっしょうけんめいで、ひたむきな方が多いです。

しかも、いっけん「ふつう」なので、まさか自分が、発達障害であるということに気づけない。
だから、一生懸命「ふつう」になろうとして、疲弊してしまいます。


具体的には、「ふつう」と言われているらしき行動を、試行錯誤でふるまったり。
似たような言葉を使ったり、かっこうをしたり、真似たり。

でも、ふとしたことで、
「おかしい」
「ふつうじゃない」

と言われてしまう。

ONSA WORKSHOP に流れ着く、発達障害の方々と接していて。
彼女たちは「おかしい」「ふつうじゃない」という2単語に、とても敏感だと感じます。
そうして、一生懸命「ふつう」なるものの枠に当てはまろうと、身を削っていることに気づかされます。



ところで、「おかしい」とか「ふつうじゃない」って、いわゆる定型発達の中でも、よく使いますよね。
もちろん、正面向かって言われると、それはハラスメントになる。

でも、まるで冗談みたいに、
「それっておかしいよ〜(アッハッハ!)(← もちろん冗談です)」
「なんか、ふつうじゃない感じ。もう、バカじゃないの?(← もちろん冗談)」
なんていう用法で、親しい人の間では、よく使いますよね。

ところが。
私の出会った発達障害の方々に関してですが、この「おかしい」「ふつうじゃない」の2語に対する衝撃は、破壊級。

たとえるなら、ある人がいつも通り、親しみをこめて、ちょっとからかっただけなのに。
その場の空気が突然、「食うか、それとも食われるか(笑)」みたいなレベルの話に豹変するほど。
まるでハンマーで殴られたように感じたり、いきなり泣き出したりするほどの、敏感ぶりです。


もし「あれっ?」と感じたら、これもキーワード。


で……。
ここで、あらためて、私は問うてみたいです。

発達障害の方を悩ませ、時に定型発達をも悩ませる、「ふつう」。
そもそも、「ふつう」って、なに?


定型発達・文筆業(言葉商売)の私の言葉で、あらためて「ふつう」という概念を、分かりやすい言語に直してみます。


2 | 「ふつう」とは、空気の中に書いてある「常識範囲」のことじゃない?


定型発達の世界に、究極のところ、定義できる「ふつう」は「ない」と思っています。

「いやいや。それって『普通』でしょ」
などと、私たちはよく、口にしますよね。

それは、言葉を換えれば「常識範囲」ということをさすように、私は思います。
その「常識範囲」はといえば、どこにあるかというと、空気の中に、文字として書いてある。


「常識範囲」とは、法文化された「ルール」とは、(重なる部分もあるが)厳密にはコンセプトが違うと理解しています。
それはたとえるなら、こんなもの。

たとえば、口に出してわざわざ言わなくとも、10人いてケーキが9個しかなかったら、10人で分けて食べる。
たとえ、そのうち1人が、
「いいよ、私甘いもの嫌いだから」
と言い出したとしても。

その言葉を真に受けて
「じゃあ、失礼!」
と言って、ばくばく食べたりはしない。

多分、残り1人のお皿の上に、9人からそれぞれ
「食べて!」
「これも、味見してよ」
と、どさどさケーキの破片(しかも、けっこういい破片!)が乗せられるであろうことは、想像できますね。

それがおそらく、日本の中では「常識範囲」のふるまい。
私は甘いものが嫌いですけれど、そうやってケーキを乗せてもらったら、たぶん食べます(笑)。
なぜならそれが、日本という社会の「常識範囲」での中の、適切なふるまいだから。

もしこれがアメリカにいる最中なら、私の経験の中からいうと、おそらく誰も、ケーキを勧めてこない。
個人主義の国ですから、「甘いもの嫌いなら、どうぞ、好きなように」「強要しませんよ」となります。
これがおそらく、個人主義の国の中での、適切な「常識範囲」。


3 | 常識は、大事。なぜなら常識は、社会の中での「安全サイン」の共有だから


常識範囲の中での適切なふるまいは、個人的に、とても大事だと感じています。
なぜならそれは、
「私は、あなたの敵ではありませんよ」
「共に、やってゆけます」
という、言語・非言語を使ったメッセージだから。


欧米に、握手という習慣がありますね?
これは古来は、
「私は、武器を持っていません。あなたを刺しません。安全ですよ」
という意思表示だったといわれています。


その場その場での、「常識」。
それは、このような見えない経験蓄積が、習慣として積み重なったもの。


この「常識」を、互いに共有することで、人は
「私は敵ではありませんよ」
「共に、やってゆけます」
「危険人物ではありません」
「仲間です」
と、意思表示をし合っています。

この「常識範囲」はもちろん、国や文化、一緒にいる人たち、相手、集団の種類、状況などによって、刻々と変わります。

不変ではないし、硬直してもいない。
やわらかくて、変化して、柔軟です。



いわゆる「常識範囲」は、その場その場で、微妙に変わる。
ですから、その場の「空気を読む」ことは、定型発達の人にも、時に難しいことがあります。

19世紀ヴィクトリア女王が晩餐会にて、来賓の方が誤ってフィンガーボウルの水を飲んでしまったとき、自分もお飲みになったというエピソードを聞いたことがあります。
この逸話には諸説あるようですが、言いたいことは、これは作法としての「常識」からすれば、お相手の間違い。
でも、「相手に恥をかかせない」という晩餐会の「常識」からすれば、なんと機転の利いた行いかと思います。

「常識」は、硬直していません。

つまり、「これがふつう」「これが常識」という、硬直した行動や様式は、ない。
そうではなくて、その場その時にいちばん適切な「常識範囲」での、「私」の選択があるだけ。



4 | 「定型発達のようになる!」ことをを目指さない。それは、意味のないこと


すると、こんなことが言えます。
これは、ONSA WORKSHOP に来てくださる発達障害の方に、お書きして説明する図になるのですが……。



左の図のような方向を目指すことは、意味のないことです。
それでは、盛大に方向を誤っている。

幸せになるために、「ふつう」になろうとすることは、意味のないこと。
つまり、一応は行動のスタンダードとされている、「定型発達みたいになろう!」とするのは、意味のないこと。

第一、脳の特性が違うのですから、脳特性を変えることができない。


その上、定型発達の人にとっても、いわゆる「ふつう」はない。
「ふつう」は、その場その場の「常識範囲」によって、姿を変えます。その時の「わたし」の選択によって、「ふつう」は姿を変えます。

ころころ変わって、一定の形がない「ふつう」を目指しても、意味がないですよね。



5 | 目指す方向は、「私の幸せ」。これは、誰でも同じ


そうではなく、目指す方向は、「私の幸せ」です
これは、定型発達、発達障害、そしてこれから説明をするパーソナリティ障害……誰にとっても、重要な目標です。

「何か、自分以外のもの」になろうとしても、けっきょくムダ。
そうではなく、目指す方向は、それぞれ「自分の幸せ」です。



ONSA WORKSHOP にご縁をいただく、発達障害ならびに、発達障害疑いの皆さま。いっしょうけんめい「ふつう」になろうとする行為が、いかにムダか、次第に分かってきましたね。

だいいち、「ふつう」なんて、ない。
ないものには、なれない。
不可能なことに、延々と時間をついやすなんて、それこそ壮大な人生の時間のムダ。

そうではなく、くるっと、方向を変えよう。
目指すのは、「あなたの幸せ」の方向です。

そして、「あなたの幸せ」に至る道や方法・スキル・回復のしかたは、定型発達者と、発達障害者では、違う。


どんなふうに?
次の記事でそれをお伝えして、「ケアーにつながる」の「発達障害」の回を締めます。





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