2012.12月開催 「TAT セッション」えりだぬすクラス(2回目:Special PAY FORWARD)

PAY FORWARD:ONSA TAT セッション
2012.12月開催 「TAT セッション」えりだぬすクラス(2回目:Special PAY FORWARD)


「ONSA TAT セッション」の PAY FORWARD(ご参加者のご感想)です。
Special PAY FORWARD は、9項目の質問に答える形式となっております。
なお、PAY FORWARD の本文中には、ポット(pot)という専門用語が登場する場合がございます。その旨どうぞご了承ください。

●コースの内容 
- 「ONSA TAT セッション」
●もっと読む
- PAY FORWARD(ご参加者のご感想) もくじ

 PAY FORWARD(ペイ・フォーワード)とは「次の人につなぐ」という意味。すでに ONSA WORKSHOP にご参加されて、ひと足先に変化を歩き出した方々から贈られるメッセージです。
タイトルはじまり目印

S. O. さん(30代/山形県よりご参加) えりだぬすクラス


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(* ご本人のメッセージも、一緒にお届けします)

藤沢さん、えりだぬすのみなさん、お元気でしょうか?
WebEX の際には、画像がひとりうつらずあせりましたが、みなさんのサポートがあったおかげで無事セッションを終えられてよかったです。
大変お世話になりありがとうございました。



1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



私の問題は職場の嫌がらせ(セクハラ)から始まりました。
最初は思いがけない出来事に、現実が受け入れられなかったし、どうしてこんなことになってしまったのかと思うと途方にくれました。
自分に悪いところがあったのでは……? と、とことん自分を責めていたし、自分のことが本当に嫌いになりました。

しばらくすると加害者に恐怖を感じるようになっていましたが、時間が経つにつれて怒りがこみ上げてきて自分でもどうしようもなくなりました。
加害者を殺してやりたいくらい許せなくて、いつも頭の中がそのことでいっぱいでした。それと同時に人間不信に陥り、家族や他人にも心が開けなくなっていました。
どうして私がこんな目に会わなきゃいけないのかと思うと悔しくて、悔しくて本当に怒り狂っていました。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




職場では男性でも嫌がる仕事をこなしたりしていて、自分なりに頑張っていたつもりでしたが、4年ほど前から言動によるセクハラを受けるようになりました。
セクハラの内容は私の体つきのことから夫婦仲のこともあり、家庭内や夫婦仲にも影響が出てギクシャクした生活を送っていました。最終的には、実家や親戚にまで迷惑や心配をかけてしまいどんどん悪い方へとことが進んでいきました。

セクハラを受けたことで、家庭が不和となり、夫婦間では離婚を前提とした話し合いがしばらく続きました。
そうこうしているうちに、私は体調を崩し1年間の休職を余儀なくされました。
今では、離婚の危機は乗り越えたものの、以前のようには夫と接することができなくなっている自分に気づき、家庭内でも自分の居場所がないと思うようになっていました。
自分の居場所を失ったこと、職場復帰の目途がたたないことなど、今後の展望が全く開けないことを悲観し、自殺を図りました。幸い命は取り留めたものの両腕にはその傷跡がたくさん残っていて夏には半そでがきれないほどです。

私がこうむった被害を改めて考え、職場に相談しましたが、最初は相手にされませんでした。そして思い切って懲罰審査会の申請をしました。
結果、加害者には懲罰がくだりましたが、慰謝料請求の事もありさらに調停を申請しました。
不本意ながらも形式上、和解したのは数か月前のことです。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


4年間という時間を無駄にしたと思っています。
もっとよい解決策が今では考えられるような気がします。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




心を開くということが第一だと思います。
私はどこか心を開ききっていないところがあり、心や体で感じるのではなく頭でグルグル考えてばかりいました。
ですが、私の場合、「身体のワークショップ」を受けたことで心を開くヒントをもらったような気がしました。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



心が開けないまま TAT セッションを受けても時間とお金の無駄だと思います。
ONSA WORKSHOP を受けると必ず気づきがあります。
私の場合はとても根底的な重大な問題に気づくことができました。
もしワークショップを受けていなかったら一番重大な問題までたどりつくことができないまま TAT を受ける羽目になっていたと思います。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



私の生い立ちに問題があることに気がつきました。
実は、祖母と母、父と母と私、弟と私が不仲であることやいじめの経験を引きずっていたこと、忘れていた過去の出来事やそのときは意識もしていなかった重大な問題を浮き彫りにしてくれました。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




時間の無駄だった……の一言に尽きます。
私にとっては人生が大きく変わってしまうほどの重大な出来事に遭遇してしまいました。
それに完全にトラウマが消えてなくなった訳でもありません。
でも、そのことに捕らわれて生きていくことをやめました。そして、一人、心閉ざして生きてきた時間がとてももったいないと思うようになりました。

TAT を受ける前は、表面上の問題は解決できたけど、そのあとに残った傷が痛くてしょうがなくてつらい日々でした。TAT を受けた今ではその傷の痛みも和らいできているし、日に日に薄らいでいく気がします。
でも実は TAT を受けてみて、正直、自分に何が起こったかのかがよくわかりません。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



数年前の私は、人生の終わりが来たと思い何度も手首を切りました。そのときの私にはそうするしか選択肢がありませんでした。
でも今は違います。
私自身、ワークショップを何度も経験し訓練を重ねていって気づいたことで、(決してきれいごとを言うつもりはありませんが)今は、新しく幸せな時間を過ごすことを選択しようと思っています。
私の場合はここまでたどり着くにはかなり遠い道のりでした。やはりワークショップで訓練して気づき、TAT を自身で体験してみないとわからないことだと思います。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




ONSA WORKSHOP や TAT に参加していなかったら私はどうなっていただろう? 
今言えることは生きてて本当によかった。
一度は人生をあきらめたけど、今ならそんな選択はしなかったと思う。
たった4年間、されど4年間。
もう何十年も生きてきたみたいに疲れ果ててしまっていたけど、これからは違うね。

TAT を受けてよかった。
正直、自分になにが起こったのはわからないけれど、もう他人に捕らわれて生きることはやめようと思う。
自分の人生は自分でないと楽しめない。これから先、まだまだやりたいこといっぱいある。

TAT を受けてからは時間の進み方が気持ちいいくらいだよね。今までほんとうに何をやっていたんだろう? 
『夢かな手帳』に出会ったころのようにもう一度ここから再始動しよう。



タイトルはじまり目印

M. K. さん(30代/東京都よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



夫の言動に振り回されることが多く、育児にも疲れ果て、自分の時間を取ることもままならないまま、時間だけが過ぎて行くのが辛かったです。
夫とうまく行かないので、今までお付き合いをして来たなかでいちばん相性の良かった相手と結婚しなかったことを、とても後悔していました。
また、その相手との間にできた子どもをおろしてしまったことへの後悔、罪悪感にさいなまれていました。
今の育児が辛く大変なのは、子どもをおろしてしまったことへの罰なのだと思い込んでいました。

3年前に卒業した大学の文芸学科の友人たちが、次々と文学賞で最終選考に残るようになって、とても焦ってもいました。
書くモチベーションをあげるために、
「産んであげられなかった子どもの分まで、私は頑張らなくては行けない」
「文学賞を取って、自分の作品が元カレの目に留まったらうれしいかも」
などと思い込み、どうにか小説を書き続けようとしていました。

しかし、家事、0歳児の育児と自分の時間の確保を両立させることができず、悶々としていました。
夫が不規則な勤務で夜もいないことが多く、平日フレックス勤務だった元カレと一緒になっていたら、こんな苦労はしないで済むのに、とさえ思っていたのです。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




幼い頃、物語を書くことが好きでした。
しかし、視力の低下を理由に、友達と共同で書いていた途中の物語を続けることを、母から禁止されました。
ずっと、「小説を書きたい。作家になりたい」という気持ちを持ち続けて来ました。
大学進学時も、文芸学科のある大学へ行きたかったのです。

しかし、経済的な理由で「家から通える大学で、できれば、国公立大学で教職課程があるところ」と両親から制限され、その夢はかないませんでした。
それで、物語を書く前から憧れていた図書館司書を目指しました。
その仕事に就くのも簡単なことではなかったのですが、ようやく、非常勤ながらも定年制で長く働ける職場に採用が決まった頃、妊娠が発覚しました。

物心ついたときから、私のやることなすこと言うことのほとんどすべて、父の機嫌を悪くして来ました。
思ったことをそのまま言ったりやったりすることがどうしてだめなのか。
反発もあって、私は自分の感情を押し殺したり、我慢したりは一切しませんでした。

私が原因で父の機嫌が悪くなり、雰囲気が悪くなるので、母や妹は私を責めました。
「大学を卒業したら家を出よう」と、図書館でアルバイトをしながらずっと夢見て来ました。
だから、子どもを産むことはできませんでした。

幼い頃、祖母に「死んだら何もかもなくなる」と教わりました。
とても怖く、しばらくは夜、布団の中でその言葉を思い出しては、なかなか寝付けませんでした。
やりたいことをちっともやれていないのに死ぬのは嫌。
死んで自分が誰からも忘れ去られるのは嫌。
どうしたら、死んでも忘れられない人になれるのかな?
そんな思いも、作家を目指す理由のひとつになっていた気がします。

あんなに怖かったのに、私は自分の意思で子どもを死なせてしまいました。

念願の仕事に就いてから1年後、私は家を出て、結婚を前提に元カレと暮らし始めました。
元カレとは大学時代からの付き合いでした。
家でも学生時代にしていたアルバイトでも、いつも誰かに否定され続けていた私を「そのままの自分でいい」と受け入れてくれた初めての人でした。
家族と折り合いが悪く、ことあるごとに「死にたい」と泣いていた私のそばにいて、ただ「生きよう」と言い続けてくれた人でした。

経済的な理由もありましたが、自分の夢と子どもを天秤にかけて、産む選択をしなかったこと。
死への恐怖があるのに、子どもを殺してしまったこと。
どんなときも私のことを「そのままでいい」と肯定し続けてくれた唯一の存在だった元カレと結婚しなかったことで、最終的にこのような主訴を持つようになったと思います。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


元カレへの執着はなくなりました。
元カレと結婚して子どもを産んで家庭を持っていたとしても、やはりやりたいことをできずに、悶々としていたのではないかと思います。
子どもを産まなかったことに罪悪感を全く感じなくはありませんが、罰せられているとは思わなくなりました。

ずっと、「産んであげられなかった子どもの分まで、2人分の後悔のない充実した人生を送らなくてはいけない」と、思って来ましたが、それもなくなりました。
私はひとりの人間なので、2人分は無理。
当たり前すぎることに気づけました。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




今に集中しきれること。
とにかくセルフトークを始めない、始めても即座にどかすこと、どかし続けることができること。

ひたすら自分に集中できること(他の人の話を聞いていても、自分の似た痛みとリンクさせやすいため)。
自分の痛みの原因を充分に掘り下げることができること(たくさん pot に入れることができます)。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



しばらくはすがすがしい気持ちでいられるかもしれません。
でも、他者と接することで幾度となく傷ついて、やはり逃げ場を探すことになると思います。
自分で自分を守る方法を知っているのと知らないのとでは、TAT を受けた後の生活がまるでちがうものになってしまうような気がします。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



心の痛みの出所がトラウマになっていた出来事そのものだけでなく、育って来た家庭環境にもあったことに気づけたのは大きかったと思います。
言葉には出せなくても、つながっていそうなところで気づいたことはすべて、pot に入れることができました。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




これまで、夫にきつい言動をされたとき、父に言われたときと同じような態度で反発したり、無視したりして来ました。
今はただ「私はこういう風に言われるのは悲しい/不快だ」と、自分の気持ちだけを伝えることができるようになりました。

子どもに対しても、夫に言うのと同じように「こんな危ないことをしたら悲しいな」と、自分が辛いと感じていることを伝えるようにしています。
子どもも成長したのか、こちらのいうことの多くをわかりつつあるようなので、以前のように、わけもわからず泣き続けることはなくなりました。

夫にダメだしされるのが嫌で家事もきちんとやろうともがいていましたが、今はできることを最低限しかやらないので、自分の時間も少しだけなら、取ろうと思えば取れるようになりました。

「夫とさえ結婚しなければ」という気持ちがなくなったので、元カレに対する執着も復活しようがないです。

あんなに後悔と罪悪感でいっぱいだった毎日はなんだったのだろう。
どうして毎日書くことにこだわっていたのだろう。

今の生活が普通で、TAT を受ける以前の生活は本当に幻のように感じています。
事実は変わらないけれど、その事実に対する見方は変えられたように思います。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



心が痛いのは、あたりまえのことなんかじゃない。

TAT を受けた今、私は強くそう思います。

私は機能不全家族に産まれ育ち、常によそのおうちをうらやんできました。
TAT を受ける以前は、私が望んでいる人生を生きている他の人がうらやましくて、どんな手を使っても、理想の人生を手に入れたいとさえ、私は思っていました。

TAT で過去のトラウマにまつわる人々(家族、元カレ、祖母……他にもいろいろ)のことを pot に入れ続けていたら、自然と私は彼らを許せていました。
人のせいにして、外側にばかり求め続けて来た私自身も含めて。

そして今、私は穏やかな気持ちで前を向いています。
大切なのは「誰か」ではなくて「自分」がどう感じるか。
そのことに私は気づけて、とても幸せです。

私ひとりでは過去のトラウマに対する見方を変えることはできませんでした。
見方を変えることができれば楽になる、うすうすは気づいていたのですけど。
もし何かを抱えていて、心を痛めているのならば、私は TAT にトライしてみてもいいと思っています。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




何だか長い間、悪い夢を見ていたようだったね。
小さい頃から積み重なった心の痛みが繰り返されて、どんどん大きくなってしまっていたね。
これからは堂々と大きく息を吸って生きて行ける。よかったよね。

ねえ、覚えてる?
少し前に短い間だったけれど、「もう書くことを止めてもいいや」って、自分に許せていた時期があったよね。
ずっと元カレに私を見つけてほしくて作家を目指していたのに、そんなことはもうどうでもいいって、あのとき、確かに感じていたよね。
TAT が終わったときの心が本当に温かく落ち着いていられる状態、書くとか作家になるとか、どうでもいいと思ったときのあの状態と、一緒だったよね。
TAT の後は、「まさか」って、自分で否定しちゃっていたけれど、もうごまかしちゃダメだよ。

実家にいた頃は行動はダメだしされ、考えは否定されて、さんざんだったよね。
すっかり忘れてしまっていたけれど、あの頃の私は生きていていい理由を探していた。
誰かに必要とされたい。そうずっと願って来たよね。

今、ふと、気づけば。
自分の居場所はちゃんとあるし、私のことを必要としてくれる人がいて、普通に会話が成立する相手もいる。
これって、充分幸せなことだよね。

書くことよりも大切なものを、私はちゃんと見つけていたのに、どこかでそれを見誤ってしまった。
ごめんなさい。

ひどいことをしたのに今でも、ただ見守ってくれている人がいるということ。
私が書きたいと思うことを、作家になりたいということを、否定しないでいてくれる人がいること。
私はもっともっと感謝しなくてはいけないよね。
ありがとう。

「ありがとう」と「ごめんなさい」をきちんと言い合って、今日からまたひとつひとつ丁寧に暮らして行こうね。

それが今、私が考えるいちばんの幸せだよね。



タイトルはじまり目印

M. T. さん(20代/広島県よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



・福祉の範囲に入りにくい程度の発達障害を抱えたまま、この先を生きていかなくてはならない事の不安と苦痛
・好きなことと思っていた「お話作り」が、それを読む知り合いの増えるうちにどんどん歪み重荷になっていくこと
・今の環境・会社は「お話作り」を趣味として続けるために選んだため、それらが苦しくなってきたこと
・10年以上追い続けた夢を、自分の中で「なれない」と信じ決めてしまったことのショック
・発達に偏りのある私のままでいては他人に迷惑をかけるから社会の中にいるために自分を潰せ、というメッセージと、私そのものを生かさなければ他人や社会の中に居場所を作ることなどとてもできない、というメッセージの矛盾

そういったものが見えないまま、気づかないまま、ただ流れ去っていく時間の中で用事をこなせないことに悩み、仕事術・ライフハック・タスク管理などの自己啓発本や記事を読んでいました。
『夢かな手帳』は2003年からずっと使っていますが、毎年ほぼ真っ白で終わっていました。
自分のことを書きつらねるノートは、高校時代から、とぎれとぎれに続けていました。


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私は発達障害という概念を知るまで、自分の身体感覚や認知、想像力などに多くの欠けがあることがわかりませんでした。
知能の一部が著しく能力が高く、また他の知能もある程度同年代より高かったため、頭で全てを補っていたらしいことが、診断のための検査でわかりました。
その時私は、それまで読んできた本の知識から、「私には人の心がわからないんだ」と思い込みました。
人の心がわからないのに、人間を、人間の動きの塊である物語というものを、書くことができるわけがない。
プロの作家になってお話を書き続けるという夢をあきらめたのはその前のことでしたが、こうして私は完全に夢も「好き」も失ってしまいました。
いえ、自分から、振り捨ててしまったのです。

そこから、どう生きればいいかわかりませんでした。
実家暮らしなのをいいことに派遣や在宅バイトをしながら、私はひたすら生き抜くための知識を探しました。
けれども当時、成人の発達障害を扱う書籍は少なく、私のように知能でもろもろをカバーして、一見普通に生きているように見える人のための情報は、皆無のように思われました。
私はよく言われる ADHD やアスペルガー症候群ではなく(後者は否定された)、ただ高機能の発達障害だと診断されたことも、情報を集めにくくさせていました。
なにより、そういった本の例として、人を不快にしているシーン、迷惑をかけているのにまるで気づいていない当事者=私を示す展開が多く、それらが砕けたガラスのように降り注いでくるのがつらかった。
それは、罪悪感というものでした。


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同じ頃、私はボーカロイドというものにはまり、人と交流を持ちました。
そこで娯楽小説を書くための知識と技術を使って、相手が人だと思っているものをひとらしく見せることはできると知りました。
それでいい、と言ってくれる人が私の周りに集まりました。
たくさんの人を集めれば、細々とでも書くことで収入を得られるようになるかもしれない。
実際、そういったことで副業や転職・起業を成功させている人を、私は複数知っていました。
私は語り、書き、アクセスを上げ、友人たちと本を出し――祭の狂乱の果てに、長い微熱と不定愁訴を抱えました。
私は、何もできない私に戻ってしまいました。

私がいつか定職につくだろうと考えていた母親も、私のふらふらぶりにとうとうキレました。
もともと公務員試験を受けるという名目で在宅バイトに変わったのですから、その上で滑り止めさえ不合格だったのに娘が不安になったのでしょう。
父の借金問題や、3番目の転職を果たしたばかりだったのもあったのかもしれません。
売り言葉に買い言葉で、私は職業訓練を受け、今の会社に就職を決めました。

自分で稼げるようになったことで、私はまた創作を始めようとし、そのたびに心身の調子を崩していきました。
実家から通っていたので10時間以上会社のために使うことになっており、私は創作の時間を作るために、仕事術やタスク管理の情報を求めるようになりました。
私の中で、時間の流れが体感と実際で異なりすぎ、詐欺にあったような気分に毎度襲われていたこともその理由でした。
それらは実際、知らないよりは知っていた方がいい知識でしたし、少しばかり役にも立ちました。
けれど、根本的なところで、それを使う人達と私とは違うように感じました。
発達の偏りのためだと、その時は思っていました。


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3.11後の私は、自分が創作をすることで使われる資源に罪悪感を抱き、そのことで潰されかかっていました。
恒星のように雄々しく輝くとある作品と、その周辺で大きく盛り上がる人々のエネルギーで、生きながらえていました。
その頃には習慣やライフハックの知識や自分の観察のお陰で少し賢くなり、ブレーキとアクセルでぶかっこうに調整しながらも、創作活動をしていました。
何度も苦痛や重荷やずれを感じながら、書く、という技能を、私はどうしても手放せなかった。
それはもはや私の一部であり、私の周囲の人達から見れば当然の属性であり、そして誰にでもとって代わられるスキルでした。
私は習慣のようにアクセスを集め、親近感をしかけ、交流を持ち――やがて、重くなりました。
その繰り返しが、発達障害の本が与えてくる罪悪感と関わっていることに、私は気づかなかったのです。

『夢かな手帳2012』の発行が遅くなったのをきっかけに、私は ONSA のサイトに通うようになり、『夢をかなえる人の手帳術』を読んだ時から気になっていた「時間のためのちいさなワークショップ」がまだあることを知って申し込みました。
やることは多少不安だったものの、セミナーや情報商材が2万3万するのだから、とお金に関しては躊躇しませんでした。
これに関してもまた苦い思い出というか、学生時代に「好き」のために別口で稼ごうとして、さんざん引っかけられたり報酬を得る直前で倒れたり都合が悪くなったりして、結局ゆうに20万は使い込んだと思います。
それで躊躇しなかったんですから、人生ってよくできてますよね。

「時間のためのちいさなワークショップ」で、口にしたことを思い出すと何度も涙ぐみます。
「わからないことがわかるように」
当時の私はただ、9年間よくわからなかった手帳の使い方や、『未来日記』の「正しい」付け方を知りたかっただけでした。
まさか、ONSA のほぼ全てのワークショップを受けるようになるだなんて、おまけに「何なんだろうこれ?」と思っていた TAT まですることになるなんて、まったく予想外の展開だったのです。
家族問題があるのでケアをおすすめします、と藤沢さんに断言された瞬間こそ、私の人生最大の”青天の霹靂”でした。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




時間のワークショップで、私は血まみれの幼い子供と直面し、今の自分が望むほど自分にはできないのだ、と訴えられました。
感情のワークショップで、私は燃えたぎるほどの悔しさを思い出し、自分の中に感情と心があることを知りました。
境界線のワークショップで、私は両親が経済的に共生関係にあると感じ、私自身に境界線という感覚がないこと、そのために自分自身よりはるかに膨張したラインで、過敏にストレスを感じることなどを知りました。
トランスフォーメーションのワークショップで、私はそれまでの知識や達成や使命感ばかり追いかけてしまう間違いを知り、世界と自分自身に対して強い不信と不安を抱いていることに気づきました。
身体のワークショップで、私は生まれて初めて私-身体のつながりを明確に悟り、胸に刻みました。
また、言葉ということばが全て止まり、話すことも形にすることも難しくなる、という状態がしばらく続きました。
インナーチャイルド・ワークショップ(後期)で、私は幼い自分が母=審判する被害者の「正しさ」と、父=依存する支配者の「甘さ」に、それぞれ支配されていることに気づきました。

精製されていった問題の核は、これまでの全てにつながって、影響を起こしていました。
「私は生まれることを望まれていない」
「世界は私を拒む、在ることを許さない」
それが、私の奥にあるトラウマでした。
そして、すべての考え方の基礎であり前提でした。

なぜ、そのようなトラウマが刻まれたのかはわかりません。
私は生まれる前に流産しかかっていて、母は医者に「覚悟をしておいてください」と言われていたほどでした。
また、1歳の時には親のミスで、お風呂で溺死しかかったこともありますし、2歳頃には喘息でしばしば入院していました。
そういったことが、私に身体感覚や感情を殺させ、離人感や非現実感とともに20数年過ごさせたのだと今は思っています。


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私は、世界に望まれていないのに間違いで生まれ、有用そうなら社会の歯車として組み込むために育てられているのだと、その前提で全てを考えていたのでした。
そうした前提のもとでは、「夢」をかなえようとすることは諸刃の刃になりえます。
なぜなら、社会という大きな「外側」が、夢をかなえる成功者であれと常に裁き続けるから。
誰かの役に立たなければ、社会の立つことを証明し続けなければ、「夢」がかなったことにはならないからです。


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私にとって、社会の正しさ=母の「絶対的な正しさ」でした。
私の母は教師の家庭に生まれたためか、自分が正しいと信じることや基準に厳しく、しかもその厳しさを自覚せず人を裁くところがあります。
さらに私が長女だったこともあって、お金に関わることや人の邪魔をするわがままなど、後から裏で容赦なく叱られていました。
しかし私からすれば、母が周りに見られないところで言いたいという考えがわかりませんから、その時に言ってくれという思いで傷つき、泣いては「また泣くことに逃げる! 泣いてないで言いたいことあるなら言いなさい!」と重ねられるのでした。

また、母は教育熱心で、今思えば私にとっては、少々過保護のきらいがありました。
プレゼントを贈るとき。
仮装の衣装を作るとき。
小学校でのお祭りの企画。
夏休みの工作や自由研究。
担任の意図から参加していた読書感想文コンクール。
ゼロから何かを作っていく、そのすべての経験において、幼い頃の私は達成感を得たことがありません。
母が8~9割計画して、私には何の説明も解説もなく、自分の手でほとんど仕上げていた。
私の課題なのに、私がお手伝いをしているような状態でした。
スイミングも、習字も、そろばんも、いつの間にかやるように誘導され、私はただ続けるかどうかの選択が渡されただけでした。

他にも幼い私には、母がなぜそう言うのか、振る舞うのか、怒られるのか、わからないことがたくさんありました。
私にとって時間はつながらない断片であり、人間は意思なき一個のチューリング・マシンであり、全ての背景情報はその時だけにつくもので、相手が前やったことを今も覚えているという発想自体がありませんでした。
相手には相手の意志があり、都合があり、時間の使い方があるのだと、そんな発想は全くなかった。
目に見えて、音が交わされ、同じ場所にいる、それが全てだったのです。
そんな世界観で、母=審判者=見限られたら自分が死ぬ存在、に逆らうことなど、私には自殺行為としか思えませんでした。


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それでも、一度、母に裏切られたと感じたことがあります。
私は小学校高学年の時、よく遊んでいた女子グループから吊し上げにあいました。
それは一応話し合いの場となっていたのですが、実際には私にとって理由もなく弾劾されたようなものでした。
とはいえ、彼女たちの言い分も今は理解できるのです。
当時の私は、読書中や考え事をしている時に過集中の傾向があり、呼ばれても話しかけられても何も聞こえないことが当たり前になっていました。
また、前述のように私にとって周囲はチューリング・マシンであり、私は彼らのいる空間に所属しているらしいと感じていましたから、彼女たちからすれば突飛で理解できない言動も多かったのでしょう。
私は「何を考えているのか」と複数の女子に責められました。
その8年後に同じことが起こるとは知らず、私はただ怯え、いじめられたと思って母に泣きつきました。
その前に私の知らないところで私へのいじめが起こっており、そういうことがあったら言うようにと言われていたのもありました。
けれども、私の話を聞いた母は、彼女たちのかたを持ち、私に悪い点があったのを指摘してくれた良い友だちじゃないかと言いました。
――私は、自分にとっての自然な振る舞いが、自覚もなしに起こっていることが、人を傷つけるのだとショックを受けました。
今思うと、それからずっと、緊張して生きていたのかもしれません。
私は必要のない限り、母に内面を話さなくなっていきました。


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中学に上がる前くらいから、母からの干渉は減っていきました。
妹が食物アレルギーだったことや、彼女を預けて再就職したこともあります。
私は世界を広げました。
ただしそれは、書割りの範囲が広がり、さらにわからないチューリング・マシンが増えた、ということだったのでしたが、それでも付属場所が家でなくなったことは、当時救いだったように思います。

私の居場所は、美術室や、演劇部の部室や、マンガの世界になっていきました。
作品さえ知っていればいくらでも話題が続く。
絵を描くこと、お話を作ること、作品の感想や日常の話を紙に書いては配り合うこと、それらができればもっと続く。
その分、他の話題をする必要がなくなるのは、私にとってとても楽でした。
相手の進学先も、家のことも、恋愛相手も、私にはまったく興味がなかった。
それでも、私がその場に合わないことを言ったりするとそれとなく注意してくれましたし、私が自分の考えを外に出せるようになったのも彼女たちのおかげでした。
卒業後、優しかった彼女たちが今どこにいるのか、私はまったく知りません。

その頃、小学校時代によく遊んでいた同級生が急死しました。
環境が変わるたびにそれまでの遊び相手を忘れていった私は、その後の彼女をまったく知りませんでしたが、それでも死ぬこと、もう見えないし同じ場所にもいないということが、生々しく刻まれた体験になりました。
私はその頃から、人生の使命感を求めはじめていたように今は思います。
当時はまだ、やりたいことをやれるうちにやらなきゃもったいない、と思う程度でしたが、その頃から心理学や自己啓発の本に傾倒していくようになりました。
そのおかげで愉快な思い出を作ったり、自分で選んだ高校に進学することもできましたが、同時に「夢を諦めたら不幸になる、敗北する」という考えも刷り込まれていきました。


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ところで、私は立体的に見ることや詳細を注視することが苦手で、光の加減でまるで違うもののように風景が見えることもあって、絵を描くことが苦手でした。
言われた通りそのままを描こうとするほど、ちょっとした角度や見え方や光の加減で、顔を上げるたびに見えるものが異なってしまい、途方に暮れていたのです。
当時私は、見えるものの最大公約数をうまくごまかして紙に描くことを、思いつきもしなかったしやっていいとも思っていませんでした。
端から描いていくうちに少しずつ見えるものと描いたものとが異なって、私からすれば全然違うものになってしまう、そのことで自分は下手なのだと責めました。
まるで精密な写真のように、ただひとつの正しい形をそのまま写すことが、写生なのだと思っていたのです。

そのように私には、唯一の正解を追い求める癖がありました。
国語の要約文、数学の証明、理科の実験結果のグラフ、社会の記述問題。
ポイントさえ押さえれば他は多少の幅がある、そういった課題に緊張していました。
中学に上がったばかりの時、初めての宿題を持ってくるのを忘れた日、退学になったらどうしようと深刻に怯えていたくらいに、私にはあいまいさの幅がわかりませんでした。
ひとつひとつ「やってしまった!」体験を重ね、幅を確認していくのが普通になっていました。
それは、いつ何をしたらエラー音をかき鳴らすかわからない、しかもその直し方も不明なマシンたちに、ずらりと囲まれているようなものでした。


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体育の時間が一番苦痛で、暗唱の時間が一番得意でした。
周りをチューリング・マシンと思っている私は、見られる自分を意識して萎縮するということがなく、むしろ舞台に立つことでクラスメイト達の塊から離れ、身ひとつでいられることや、役に立っている感じが気に入っていました。
私は話芸に青春をかけていた両親のおかげで、(必要ともしていないのに)お前は朗読がうまくなければならない、と厳しく仕込まれていたので、周囲より上手いと自負していたのもあります。
逆に体育は、個別での技術試験が行われるようになったこともあって、いたたまれない時間がたくさんありました。
特に球技や器械体操がつらかった。
その頃は知りませんでしたが、私は意識を内側に向けないと全身を動かすことが難しいのです。
具体的には、走るとき。私は無意識に上半身でバランスをとりつつ腕と膝をふり、足を着地させては素早く離すことはできます。
けれども、すねから先を動かし、足の先で地面を蹴るためには、私は周囲へ注意を払うのをやめ、意識を足の先へ回し、避けるという可能性を捨てなくてはならないのです。
おまけに私には、加速することで動体視力が追いきれなくなると全ての制御をなげうち、足や体が地面につくまで、あるいは周囲は見える速度になるまで、そうさせる以外の動きができないという条件反射がありました。
成長するにつれ多少マシにはなっていきましたが、今でも鉄棒には近寄りたくありません。

いくつかの肯定的な体験を経て、私は小説家を志す高校生になっていました。
学区外への通学だったので、宵っ張りの早起きが日常になりました。
それは同時に、中学時代に起こした起立性低血圧以来、漠然と続いている離人感が程度を増していることに気づけない事態も招きました。
自転車通学になったこともあり、大小様々な自損事故で怪我をしては病院に通っていましたが、あの頃はどこか現実味が薄かったように思います。


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とはいえ、この頃は3年間なんでも話す友人ができたり、図書室の常連になったり、学校に保護者のふりをして電話しサボるというずるさを身につけたりしたおかげで、比較的平穏に生活が進んでいきました。
私は不思議と周囲の人間には恵まれていたようで、ストーカー被害に合っていた時には常連のメンバーがかばって動いてくれましたし、教師にも可愛がられていました。
これは最近気づいたことですが、どうも私は周囲の「大人」たちに、何らかの期待を込められやすいようで、しょっちゅうたくさんの言葉を与えられていました。
何も思い出せないのが申し訳ないくらいに。

高校生活が折り返す頃、母が手術をするほどの大病を起こし入院しました。
行って何が変わるわけでもないのに、と私は思っていましたが、父に言われた通り見舞いにしばしば行きました。
無駄な時間だ、と感じながら母のわきに座って、残りの病院食をつついたりして。
会いに行く事が回復の励みになるのだ、と聞かされていたら、もう少し熱心だったかもしれません。
5年以内に寿命かもしれない、という話は、私を恐れさせるのに十分でしたから。


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私の言った学校は進学校で、生徒に学校生活を楽しませつつ、行きたい大学に入れることを最重視している校風でした。
日々与えられる課題や試験をこなしていれば、自然にある程度のレベルまで上がれるようになっていたのです。
思春期らしい憂いを除けば、とても楽な高校3年間。
その裏で、私の現実感の薄さは、どんどん進行していきました。

関東の大学に入り、ひとり暮らしを初めて半年後。
私は激しい倦怠感とめまいを感じ、学内の医療施設へ向かいました。
そこで、「講義の詰めすぎなんじゃない?」と言われた途端、私の大学生活は180度ひっくり返ってしまったのです。
私は講義を減らし、その分を他人との付き合いや、終わらない用事への調整として使うようになっていきました。
それでも時間が足りず、必修の講義をサボるので余計に追いつけなくなるということも起きました。
『夢かな』に出会ったのもこの頃でした。


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その頃は学祭の準備に追われていましたし、私はサークルをかけもっていたので慌ただしく過ごしていました。
当時は交通の便が悪く、全国からやってきた学生が周囲に住んでいるのが当たり前な学生街でした。
自然、食事会や飲み会で昼夜を問わないような生活でしたし、もちろん講義やレポートにも追われていました。
周囲は当たり前にそれをこなしているように私には見えました。
おまけに、私はそれまで、家庭科以上の家事労働をしたことがなかったのです。
18歳の私は、全自動洗濯機の使い方も知らない子どもでした。

これはそれまで、母がすべての家事を引き受けていたというのもあります。
もちろん合意の上ではなく、気づいた時には母が全てを支配していた、せざるをえなかった状態でした。
何分、自分の正しさが絶対だと思っていた母でしたから、衣服のたたみ方や食器の片づけ方などが自分の想定と違うと怒るのです。
彼女としては、見ればわかるものをなぜきちんと目にとめようとしないのか、と腹がたって仕方がなかったようですが、こちらとしてはそもそも「見えない」のが常態であり普通なのでした。
風呂掃除や靴を洗うことなど、自分の身の回りを整えることは教育されていましたが、もっと大きな、生活を回すための家事労働というものを私はまったく知りませんでした。
そもそも、「周り」や「流れ」という概念自体、理解しかけてきたのはここ数か月のことです。


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私のトラウマワードのひとつに、「周りを見なさい」というセリフがあります。
親に、教師に、バイト先の店長に、およそ体を動かして働く場でくり返されるそのセリフの意味が、私にはまったくわかりませんでした。
まず、「周り」が何を指しているのかわからない。
周囲を見渡せば、背景である室内やグランドや店内があり、クラスメイトやお客やバイト先の同僚がいるのが目に入ります。
あまりにもたくさん見えるので、その中の何を「見ろ」と言われているのかがまた私にはわからない。
そうこうするうちに戸惑う私は呆れられ、見下すような目で見られ、わからないのならいいと放置されるのです。
――何が目的なのかを理解し、目的へ至るあらゆる手順を把握し、今なされている彼ら全員の動作を見て、その意図を察し、それを起こす状況を推測して、手順のどの位置に今あるのかを認識し、その中で人手の有無を確認し、同時並行するいくつもの手順の中から自分のやることを選択し、行動に移れ――
これだけの内容がその一言には詰められているらしい、と気づいたのは本当に最近で、たったこれだけの指示でそれを悟れって、何て無茶を言うんだろう! と個人的には思います。

ともかくそういう、具体的でないものが「見えない」のが当時の私の普通だったので、私は自分が長年「頑張りすぎている」ことを知らなかったのでした。
レポートを出すためには、資料を集めたり読み込んでまとめたりする時間や、自分の考えをまとめる時間、書き出すための時間が必要です。
発表をするためには題材を決めて調査を行ったり、出された文献を読み込んでレジュメを切る時間が必要です。
そして、精力的に大学生活を過ごすためには、食材を買ってきて調理して食べ、洗濯や掃除を周期的に行なって清潔にし、疲れを取るために入浴や睡眠を行う時間が必要なのです。
そういった思考が、私には全くなかった。
楽しみのため、バイトのため、付き合いのため、サークル活動のため、湯水のように時間を他人に使ってきたツケが、一気に私を襲ったのです。


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私は睡眠障害を起こし、大学に通うどころか、まともな生活も危うくなりました。
いつ眠ってしまうかわからない。眠れば何時間寝るかわからない。3時間か27時間かもわからない。
気がついたら空腹で立てない。でも食事を作る余力はない。作れても食べる体力がない。
離人感は著しく、触らなければ現実にあると思えないほどになり、私はしばしば壁や石垣を撫でていました。
全身がしびれたようになり、部屋を出なくてはならないのに床に貼りついたように立てなかったことも何度もあります。
バイトのある日は朝から起きていてもその時間まで動けず、大学に行けたのに行けなかったという後悔にかられました。
希死念慮が常にまとわりつき、1秒後に生きてるか死んでるかも保証できない精神状態でありながら、血液嫌いと高所恐怖症、そして小説を書くという快楽のために私は生き延びていました。

その頃私を苛んでいたのは、やはり母がいなければ私は生きられないのだ、という諦念でした。
母が家族の生活部分を管理していたおかげで、私はその分の時間を自由に消費していたのですから、間違ってはいません。
けれども成長してさえ、私にとって母の支配と恐れは絶対的なものでした。
裏切られた、という傷も癒されていなかった。
異変を察した母に問い詰められ、「死にたくてたまらない」と言い出した時、私は恐れに泣いていました。
母はこんなぼろぼろの私を見捨てるだろう、と思っていたのに、私は電話越しに労られ、初めて「愛されているのかもしれない」「愛されていいのかもしれない」と思いました。
卒業後、「あの頃は『死にたい』なんて馬鹿なこと言って」と言われていなければ、あるいはワークショップを続けることもなかったかもしれません。
「馬鹿なこと」という単語には、その時の私を裁くものが滲んでいました。


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その頃家では父の借金が発覚し、膨れ上がり、父本人はアルコール依存の傾向を見せ、おまけに職を失っていました。
私が留年したり、書類が間に合わず学費を軽減できなかったこともあり、「あの頃を思えばどんな経済状態もマシだ」と妹がこぼすほど大変なことになっていたようです。
あなたが書類をきちんと出していれば学費が免除に近くなるはずなのにと、結果が届くたび母にちくちく言われました。
私に学費を使いすぎたせいで、妹を進学させる余力が落ちたことは、私に負い目を持たせました。

大学生活のほとんどは精神的な苦闘に費やされていましたが、それでもそこで人と関わったことや学んだことは私の糧になりましたし、結構楽しかった思い出もできました。
何より、自閉症や発達障害という概念を知り、詳しく調べることはあの環境だったからできたとも思っています。
そこで得た知識のおかげで、私は自分の状態を観察できるようになり、少しずつ回復していきました。
洗濯や食器洗いという小さな家事が、小さなサイクルを持ち、生活という大きな巡りにつながっていることを自力で悟ったときは、跳びはねたくなるほど嬉しかった。
多少無茶をして大学も卒業し、就職をする余力などなかったので母に言われるまま実家に戻りました。

高校時代から小説家を目指していた私にとって、健康を害しての帰郷は、敗北感を与えました。
新人賞に出すには基本的に本1冊分くらいの分量を書く必要があるのですが、私はそれに2年かかってしまい1度しか投稿できませんでした。
サークルで短いものは書いていましたし、それはそれで楽しかったのですが、上には上がいるということも見せつけられていました。
私にとって書くことは、その時その時に脳裏をよぎったものを言葉に落とすことでした。
サークルメンバーにもまれ、別方面ではエンターテイメントの書き方を学ぶことで、技術は上がっていきましたが、根本のところで情熱や筆の速度や努力量が違った。
小説家という職業の経済的不安定さも、私を不安にさせました。
それを補うためにアフィリエイトや情報商材に手を出しましたが、誰かからお金を騙し取っているという意識に潰され、いつもお金になる前に投げ出していました。


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体と自分のつながりが昔から断ち切られていた私は、睡眠障害や過集中のこともあって、時間経過や空腹を感じることが非常に難しくなっていました。
時計を目にした時の時刻がそのまま頭に残ってしまうので、見ない間に時計の針が動いていても記憶した時間のままだと思い、再び時計を見上げて針がが別の場所を指していることで、詐欺にあったような気分になるのです。
倦怠感のためと、頭がすぐに疲れてしまうので眠気はわかったのですが、空腹であるという感覚は気づきにくく、外で身動きがとれなくなる、ということがしばしば起こりました。

体力の無さは、プロの世界では明らかに不利。
それでも、諦める気はなかったのです。
私の心が「もう書けない」と言うまでは。
フィクションは現実と地続きの”違う世界”なのではなく、作者の意図をのせるための絵空事、からくり小屋を建ててそこをのぞかせているに過ぎない、と気づくまでは。
私にとって、書くことは見えないけれど私の目に視えるものを文字に落とすことでした。
そして、その瞬間まで、私に虚構と現実の区別はなかった。
幼い子どものように、物語と現実は地続きだった。
けれど、気づいてしまったら、書くことがなくなってしまったのです。
道路を歩きながら、大泣きに泣きました。

自分を自分で生かすことかできない、という劣等感の上にそれらが2重3重に重なり、私はプロになることを諦めました。
そうして、実家へと帰る道の中で願ったのです。
どうか、どうか、私の心が死ねますように。
自分の物語を社会に差し出し、読むことで苦しむ人を1時間でも生き延びさせたいと、そうできるだけの魅力がある物語を書く職業作家になりたいと、無邪気に願った頃の自分が、どうかどうか消えてなくなって社会で無事働けるようになりますようにと。
小説家になれなかった私は、就職して会社と社会に組み込まれ、時間とお金を交換する「歯車」になる以外に、何も浮かばなかったのです。


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でも、死ねなかった。
私は書きたいことの出てこないまま、ただ技能を落とさないために頭を過るものを書き散らしていました。
その頃にはもう、書くことよりも、書いたもので受ける賞賛が私を夢中にさせていたのです。
その間だけは、私は体を飛び越えて世界とつながる錯覚に浸れたから。
そして一方で、社会の役に立つ存在であることを「好き」のために証明し続けなくてはならないと、思いつめてもがいてたのでした。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




もがきが減り、地に足をつけてこの先を考えるようになりました。
現実の中で一歩を踏み出すことは、こんなにも恐れに襲われるのかと、震えながら少しずつ手探っています。
それでも、去年までよりもずっと穏やかな心地です。


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家族問題の実感がまるでなかったので、ワークショップの始めの頃は、家なのに嵐の中にいるみたいでした。
ちょうどその頃、経済的なことで母は父への火種を抱えており、年始早々怒り狂ったり暴言を吐いたりしている中にいました。
帰宅中に突然「父さんは死ぬまで働いてもまだ償えないんだから」と言い出したりしていたのです。
言動全てに文句をつけるくせに、父が職場で暴力を振るわれそのまま解雇されるとしれっと味方のような口をきく、母の行動原理が私にはよくわかりません。

ともあれ、そういった事も重なり、私には家族の問題がくっきり感じられるようになりました。
父は借金もありましたが、父方の祖母が昔から金を無心しており、母が貯金を作るたびにそれが起こるので恨みが重なっていたのです。
また、父方の祖母はアルコール依存症でもあり、片付けが大の苦手で、再婚のお陰で複雑になった相続問題なども長いこと曖昧にしていました。
そのために揉め事があり、相続税の都合など私にもよくわからないことが種々あって、今は父方とは絶縁状態になっています。


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一方、母方も問題なしとは言い切れないことに、ワークショップや本を読む中で私は気づきました。
母方の叔父が結婚のたびに好き勝手する上に、その婚家が財産をむしりとっていこうとする。
少なくとも母の話ではその様子なのです。
そして祖母からの報告があるたびに母はいきり立ち、相手方を「常識がないにも程がある」と裁きつづけるのでした。

家の中は、「父さえいなければ平和なのに」という雰囲気に染まっていました。
実際父が出張に行っている間、母は穏やかなのです。
ワークショップを受ける前の私は、時折ふっと父の殺害計画を妄想することがありました。
夜中に台所で包丁を取り、隔離されたようにひとり寝ている父の腹に刺せばいい。
私が刑務所に入るだけで母と妹が平和になるなら、それもいいと考えているところがあったのです。
犯罪者の家族の扱いに考えがいってからは、じゃあ全員寝てるうちに殺して死ねばいいね、なんて妄想していました。
それがかなり危険な状態だったのだと、知ったのはワークショップの中ででした。

心理学の本を読んでいた頃、アルコホリックや共依存、虐待の記録などをしばしば目にしました。
けれども、そこに上げられている例はグロテスクで生々しく、流血や殴打より凄惨なことが当たり前に繰り広げられていました。
とても自分と結びつかないと思っていた。
精神的な虐待、肉体的な痛みをもたらさない虐待というものがあると、ワークショップまで私は知らなかったのです。


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子供の頃を思い返すうちに、私は自分に刻まれた傷の多さに、深さに、震えました。

そのいくつかは、発達障害であるために刻まれたものでした。
「周りを見なさい」のように、表層の意味しか拾えない私にとって、コミュニケーションは混乱のもとでした。
その時々で言うことがころころ変わる、いつどのような状態で何を言われるのか予測不可能。
それは虐待されているに等しいストレス状態なのだと、私は初めて知りました。

さらに両親は、私に自分たちと同じような話芸やお笑いへのセンスを求めました。
漫才やコントを日常的に見ていたことは、私に常識とされているものとそうでないものを比較する機会を与えましたが、同時に「いつ笑えばいいのかわからない」ことに苦痛を感じていたことにも気づきました。
両親が許すポイントでなければ、笑った途端に軽蔑される危険を思い込んでいたのです。
自覚無自覚はさておいて、両親は数日で意見を翻すことも多く、そのたびに「正しい」情報として記録してしまう私は、常に裏面交流にさらされているようなものでした。


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ワークショップを続ける中で自分の傷に気づき、嘆き続けていることで、それらが起こしている現実へのつながりも少しずつ見えてきました。
また一応成人してそれなりの月日がたち、家族の中から脱出してひとり暮らしを始めたことで、現実への対処に日々ヒーコラ言っていました。
過去のトラウマと現在のやるべきこと、その両方が全身に載っかって、さらにインナーチャイルドの「子育て」もあって、私は日々くたびれていったのです。
過去と「子育て」だけで終わりたくない。ていうかぶっちゃっけ、もう疲れた。
それが TAT を受けた動機でした。

「好きなことをしよう」「夢を叶えよう、そのためにおとなになるのだから」と人生の早い時期でささやかれながら、私の人生は「世界に存在を赦されていない」という認識のために思い切りねじれていました。
おまけにワークショップをいくつも重ねて TAT を受けるまで、そのトラウマはまるで自覚されていなかったのです。
初めは、自閉傾向のために流産の危機で混乱し、世界や体とつながりが弱かったのでそう思い込んだのかと考えていました。
けれど今は、逆に過敏にすぎて、共生関係である父母から弾かれたと感じたのではないか、また精神的近親相姦を感じたり、そもそも他者が存在するという事自体が激しい刺激で、全てを閉ざしてしまったのではないか、と思っています。
真相はわかりませんし、あまり益もないでしょう。
そう思うようになったことも、変化のひとつです。


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ワークショップで体と私をつなぎ直し、TAT で私と体を世界とつなぎ直したことで、ようやく現実がまともに流れ込んできました。
私は生まれて初めて、自分の輪郭を知りました。
見えるもの全て、輪郭がくっきり明瞭になって、世界と体が、細胞の外と中がきちんとやり取りしているみたい。
それと同時に境界線のすかすかぶりも肌で感じ、生きることそのものに怯えました。
私からすれば、ようやくこの世に生まれたら30前だった、というびっくり展開だったのですから。

ちなみに、TAT の1度目では「世界に許されていない」トラウマと、生理を含む流血の恐怖を扱いました。
その上で2回目では、大人として力を持ち生きていくことへの恐れと、物語を書くことが自分の中に再来している怖さを扱いました。

それまで私は「大人」の生き方として、二通りしか知りませんでした。
母のように現実に対処できる力をつけ、その力に依存する夫に全てを吸い取られていくか。
父のように現実への対処をを誰かに任せ、管理されることで妻に依存し支配するか。
ジェンダー教育を受けていたことで、私は男から支配されることを嫌悪していました。
そのため父のように振る舞えば、私は力を持てないために母の「正しさ」に振り回され、おまけに父を責める台詞がそのまま私にもふりかかってくる……。
かといって母の不幸を目の当たりにしていては、力を持つ必要を理性ではわかっていても、心が必死に拒むのでした。


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物語を書くことは、私にとって力の一部でもあります。
書くことに執着するあまり、賞賛以外は全て蔑みだと自覚なく思い込んでいた私は、書くことを示威行為として周囲に見せているところがありました。
私にとって書くことは呼吸と同じくらい当たり前であり、一時はプロを目指していたほど技量もあるのだと、周囲にも自分にもそう思われていました。
けれども、ワークショップを続けていく中で、私は身体とつながることと引き換えに書くことへの執着を手放し、以来つぶやき程度のことしか言葉にできなくなりました。
そもそも頭の中で言葉がまとまらず、心の声は感じても文字に起こせないので、未来日記にも苦労するほどでした。
まして小説の続きを書こうとすると、頭痛や吐き気がせり上がってくるのです。
そんな状態だったので、私はもう書けないのだと思っていましたし、示威に気づいてからは書く気すら失っていました。
それが、TAT を受けたことで、じわりじわりとよみがえってきたのです。
今までのことを考えると、手放しでは喜べず、むしろ受け入れていいのか私には不安で、その感覚を怖れていました。

他にも細かなものをたくさんポットに入れましたし、今も入れています。
トラウマやそれにつながる身体感覚が切り離されても、答えがすぐ見えるわけではないようです。
藤沢さんは「傷口が自然に塞がるようにいずれわかってくる」とおっしゃっていたので、今はそのままにして好きや望みを探っています。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?


ONSA の「4つの約束」を守ること。
約束が守られることを信じること。
できないことを「できていない」とだけ考え、認めることが前進だと信じられること。
TAT の考え方は、解説されてさえオカルトや魔法に見えなくもないので(苦笑)藤沢さんを信頼して任せられること。
そして、具体的な痛みを語る勇気。

感情と境界線に衝撃が走るので、できれば両方のワークショップを事前に受けておくことを私はおすすめします。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



漠然と「なんかダルい」とだけは感じていたので、そのダルさだけがとれただろうと思います。
その前に藤沢さんを警戒して、ひいていたかもしれません。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



まずは、境界線の知識を学んでいたことで、TAT 直後の危険を察知できたこと。
本当、なーんにもなかったんです、境界線が。
びっくりして思わず「境界線ワークショップ受け直さなきゃ!」って言っちゃったくらい。
今もひしひしと感じています。

それから、クレンジング・リアクションを複数回経験していたこと。
TAT 1回目の後は、それまで経験した全ての好転反応が押し寄せて、訓練無意味だったの? と思うくらい激しい1週間でした。
言葉が出ないのとか、初めてだったら相当ショックだったと思います。
最初の時は1月半くらい、心の声を言葉にできなかったので。

これまで言葉にできなかったことや、人前では言い難いことも、思い切って話ができたこと。
外に出すことが恐ろしい想い、聞き手に聞かれることが怖い話、そういうものこそ語ることが必要でした。
鼻セレブを大量消費しながらの話を、聞いて下さったパートナーの皆さんに感謝しています。

それと、明日館に何度も通っていたおかげで、リラックスして臨むことができました。
2、3回は通わないとその場所に馴染めないので、これも結構重要だったと思います。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




過去に引きずられない、という言葉の実感を得られました。
トラウマがあったこと、傷ついてきた事実は変わらない。
これまでの時間で築いてきたものも、その重さは変わらないし、むしろ輪郭が鮮明になる分ずっしりとのしかかってくる感触すら覚えます。
親の支配を警戒し、境界線を築き直していくことも、必要な再訓練を続けていくことも変わりません。
唐突に「やっちゃった」過去を思い出して、うわあああああって頭抱えるのも変わってないです。責めたてることは減りましたけど。

ただ、私にとっての最大の重石、「世界に生まれることを許されていない」という刷り込みを脱したことで、ずっとねじれの位置で「夢」を求めていた私は、ようやくまともな地平に立つことができました。
もう、びっくりするほど歩きやすい(笑)。
それで調子に乗ってがんがん進むと、また微妙にねじれていってしまい修正する時間が必要なのですが(苦笑)。

過去をそれはそれとして置いておき、対処するものが現実だけになったことで、確実に疲労度は減りました。
足元が荒地だったら、いくらバタ足をしても水泳はできない。
その言葉の意味が、今の私にはよくわかります。

それとともに、望むことにそって生きること、それを手にするリスクを取ること、が実体を持ち、恐ろしく感じられるようになりました。
心からの「好き」に従うのは怖い。
夢をかなえることは怖い。
知らないことに挑戦することはいつだって怖い。
けれども、その怖さの質が違う、と今の私には感じられます。
ぶつからないようにすれすれで避けるときの怖さと、ぶつかること前提で突き進めさせられる怖さが違うように。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



私は、過去を振り返るのが苦手でした。
スキルや実績に関してはまあまあやれるのだけれど、心や家族関係や周囲の環境に対して、ひとりで振り返ることはとても難しかった。
『未来日記』でも、振り返りがうまくいかず結論ページはほぼ真っ白。
記録を取ることやそれらを振り返ることの重要性は折りにふれ耳にしていましたが、昔の日記や手帳を開くことすら気が重い程。
「今、ここ」にあることと刹那主義を混同して、昨日も明日も今日に連続せず、1分前と1分後がいまと切り離されている、奇妙な時間感覚の中にいました。

睡眠障害との苦闘と発達障害の診断を経て、成人してからの自信は皆無。
実家に戻ったことで無力感に打ちひしがれ、寄す処だった小説書きも無理だと思い込み、それでも生きている時間は薄墨を重ねたように暗いものでした。
人への興味をもつことや共感が難しく、自分の無自覚の行動が何を起こすか、印象づけるか、自覚ができない障害なのもあって、常に緊張状態で生きていて。
それなのに職業訓練で好成績だっただけで、研修ではできない自分を嘆いても「今まで自信たっぷりだったんだろうから、少々凹まされた方がいい」なんて、心ない言葉を浴びせられる始末。
勝手に載せられる期待が、苦しかったです。

物語を書くことは、私にとって好きなことだったのだろうと思います。
2歳からお話を作っていた痕跡も残っていますから、自分なりの神話を作ることが好きで、当たり前になっていたのかもしれません。
ただ、私は物心つく前から足元が歪んでいた。
世界や自分を無邪気に信じる前に、社会で役立たなければならないと使命感を刷り込んでいた。
昔書いたお話を読み返していると、必死に自己肯定や愛情や居場所を求めていたのがわかります。
私のままで生きていられる、という物語が評価されることで、それらが信じられるものなのだと支持されたかったのかもしれません。

回復の途上、私は傷を癒すことで何も書けなくなるのではないかと恐れ怯えました。
表面上の恐れや傷を基礎にして、物語を書いている自覚はありましたから、それらを癒すことは作品を待つ友人知人を裏切る行為に思えたのです。
ただでさえ自信を失い無力感に襲われている中で、人生の半分以上を費やした、拠り所を失うのは怖かった。
書けなければ居場所を失う、自分が何者なのかわからなくなる、その恐怖にかられていました。
実際、今の私は、自分がひどく空っぽで心もとない気持ちでもいます。
けれども、「好き」と痛みが複雑に絡み合うその執着を、思い切って手放すことで、私は自分のトラウマの核に迫ることができたのです。
その重苦しさから解放された今を思えば、あの時手放してよかったと感じます。

過去やトラウマに向き合っていく事は怖いです。
とてもとても、とても、怖い。
何を見るかわからないし、死んでいた痛みも蘇ってくるし、突然未知の事実を突きつけられたりするし、それでも現実と同時並走しなくてはならないし。
怖いし、しんどいし、振り回されてもう嫌だ! と叫びたくなる時もあります。
TAT を越えたら超えたで、自覚できなかった問題がさらに噴出してきますしね。

それでも ―― この道を歩かなければ、嘆かなければ、痛みや怒りを認めなければ、私は今へ至れなかった。
ねじれの位置で、体力と気力を消耗させながら、それが当たり前なんだと思って生きていくところだった。
発達障害という、他人と共有しにくい感覚と、それゆえに受容されにくい現実の中で、生きざるを得ない苦しみなんだと思い込んで、もがき続けるところでした。
しんどい荷物を、そのしんどさにさえ気づかずに抱え続けて、生きる必要なんてなかったのに。
私が私のままで生きていいのだと、心から信じることができないままになるところだったのです。

ショックな話ですが、「私は発達障害のサバイバーだから自分を大事にできないの」とさらっと言って、自己流の対処で生きている人も世の中にはいます。
親と子の思考回路が異なりすぎるために、決め付けで傷を負ったり虐待やいじめを受けた当事者も多くいます。
障害の受容以外でケアを受ける、という発想そのものが全くない私のような人は、さらに大勢いるのではないかと思います。

荷物は軽くていい。
私たちはちょっと極端に鋭かったり鈍かったりするだけなのだから。
気づきにくくても、こころも、痛みも、感情も、周りの人が持つように持っている。
それを癒すことに、ためらう必要なんてない。
私たちは、自分で自分を肯定しながら生きていいのだから。

私たちは、私たちそれぞれ、自分自身であることを許されている。
それに気づくための道を、知らない怖さの中を、歩き通してよかったと、私は思っています。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




いやあ、ここまでお疲れ様。
もう、過去の話が書いても書いてもまだあふれて追加して終わらなくて正直泣くかと思った!(笑) 
12時間かかってるし夜が明けたし。
TAT を終えてようやく書けるようになったけれど、悲惨じゃない記憶も思い出もあるのに、こうして並べると凄まじい世界で生きてたよね。
本当、お疲れ様。

母への怒りも父への呆れも、とけてはいないけれど手放せていっている。
なかなかに戸惑うけれど、これはゆっくり付き合っていくしかないみたい。
母なんて、ひとり暮らし始めてからやたら食べ物で娘釣ろうとするものねぇ。
それでも夫婦二人のあの家に、戻るつもりは当分ない。
そのことに罪悪感を持たないでいい、と許せることがまず幸せだよ。
感情が現れるたびに、押し込めるのではなく手放せばいい、とわかっていることが。

私と体と世界がつながっている、という感覚に今でもびっくりする。
多分ほとんどの人は当たり前に手にしているのだろうけれど、大学で武道を習うまで、自分の体の動かし方さえわからなかった私にとっては、奇跡みたいな感じだよ。
パイプが全てつながって、鮮やかに流れこんでくる感じ。
ま、おかげでタバコや排気ガスや部屋の汚れや職場のちょっと嫌なところまでばっちりわかってきちゃったのはつらいところだけれど、仕方ないね。

初めてのワークショップ、チェアワークの2回目で、突然滂沱の涙が流れたあの日から、たった1年だなんて今気づいて正直信じがたい。
こんなに進んじゃっていいの? ってちょっと思う(笑)。

冷静に振り返れば、ただただ自分の状態を知りたくて、知識を求めて、ボーナス全額はたいてワークショップを受け続けてきたから今があるのだとわかるけれど、それでも去年のつぶやきログなんかを読み返していると、変わり様にびっくりしてしまう。
あ、でも、今年初めのはまだ読む勇気でないな、嵐の只中すぎて。

話したことのない痛みや、自覚もしていなかった傷跡。
昨日までそうだと思っていたことが、今日になって変わって見える。
軌道修正の繰り返しが苦痛でならなかったこと。
忘れ去っていた、幼い頃のいろんな理不尽と、抑えこまれていた怒り。
がんばったよね。
がんばったよ。

現実は重くなって、結構大変。
肌をずっとおおっていた、もやのような感覚がなくなって、風と肌の境がすっとわかる。
歪みを起こしていた大きな思い込みをどけたら、細かい問題が山のようにいっぱい!
その重さと感触がわかるから、腕に鉛詰まっちゃったみたいにげんなりすることもある。
それでも、もう、戻らないよ。

私は、父も母も歩かなかった道を知らない。
自分がどこへ向かうのかも、今はまだわからない。
モネの絵が見たいな! って思うことと、ご飯を作る余裕がほしいくらい。
あとは、お金の勉強をしたいかな。適切に。
この点に関しては問題が集中してるから、ちょっと怖い。

明日館で、安全に私自身で要られた時間を、ありがたいことだと思う。
今年新登場だったワークショップをはじめ、集中的に学ぶ機会が得られたことを感謝してる。
……感謝だよねこれ。うん多分あってる。
胸の中が穏やかに暖かい感じ。

発達の偏りは目に見えない。
受け入れるまで、5年10年はざらにかかるって話もあるという。
「障害」という言葉の響きに、何をやっても無駄なんだという匂いを感じて、絶望する人も多いだろう。
私もそうだったし。

でも、人は変わる。
成長する。
音を拾いすぎて聞こえにくかった私の耳は、音楽にハマることで振り分けがうまくなった。
見えるもの全てに注意の蛍光ペンを塗りたくるせいで、逆に何がなんだかわからなかった私の視界は、輪郭が見えるようになったことで買い物中に酔わなくなった。
鋭すぎて断ち切られた精神と体と世界のつながりは、今は当たり前につながり存在している。
知らなかった昔と比べたら、本当に奇跡のようなこと。
でも、変わる。
それを私は知っている。

殺した心は蘇り、離れた体は収め直し、世界は生まれ落ちた命を受け入れた。
それは、私にとって真実であり奇跡。

おめでとう!
祝福して、そしてまた私は、一歩前へ踏み出すのだ!



タイトルはじまり目印

A. M. さん(30代/大阪府よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



日常生活、対人関係で自分の本心を優先できず、過呼吸や嘔吐等、身体的な症状が発生する。
周囲の人の感情を過剰に感じ、尊重し過ぎて自分は我慢ばかりしており、人生全般に窮屈さを感じている。

行動する基準が、自分ではなく他人の価値観になっているが、自覚がない。
なぜか依存的な人間と関わってしまい、べったり頼られては精神的に傷付くことを繰り返している。

自分の感覚や感情を信頼出来ず、不快感を表現できないため、居心地の悪い人間関係を続けてしまう。
病気の人や心身の不自由な人を見ると罪悪感を感じ、自分が元気でいてはいけないような気がする。

などの問題がありました。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




家族の病気、暴力、過度に教育熱心な父、教員の母、父の出稼ぎによる不在、母方の家の跡継ぎ問題(祖父が婿養子)、事業の失敗による伯父の自死、親族間の金銭トラブル、母と祖母の嫁・姑間の不和、などの様々な問題を抱える家庭で育ちました。

大学進学と共に家を離れ、社会人になった後に対人関係や仕事で行き詰まるようになりました。
カウンセリングやワークショップに通い、生きづらさの原因を把握するも、なかなか現実生活の好転に結び付けられず、またワークショップ内での人間関係で共依存に陥ったり、社会人生活と家族問題に向き合うことの両立に苦労したり、四苦八苦する生活が続きました。

思い切って「家族問題が原因でカウンセリングに通っている。昔の出来事だと分かっているが、今も苦しい。当時はこんな気持ちだった」と家族や日常生活での友人に話しましたが、理解を得られずかえって苦しい思いをすることもありました。

カウンセリングを受け続け何かしら精神状態の好転は感じられるものの、スピードが非常に遅く
「このまま体当たりして生きていけば、きっと色んなことを学んで経験を積み、自分なりに生き易くはなるかも知れない。でもそれっていつ??? 一体いつになったら楽に生きられるの??? 」
と途方に暮れていました。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


長年抱えてきた生き辛さは、どこか自分に原因があるのではないかと思い込んでいましたが、WORKSHOP の課題で何度も手書きで文章化することにより、自分自身に直接の原因があるわけではないこと、完璧主義や我慢グセは周りの人間による影響が大きかったこと、家族問題は幼少時の自分自身の力では手に負えない出来事だったことなどを認識できました。

また、その当時感じていた素直な感情を ONSA WORKSHOP や TAT セッションに取り組み感じることで、抑えていた感情が何かを理解し、問題の大きさを直視することができました。
過去の出来事や痛みがゼロになったわけではありませんが、心理的・肉体的な圧迫感がとても薄くなり、心身共に身軽になりました。
ぐるぐる思考を止めることや、本心にそった前向きな考え方にシフトすることは可能だと体感し、未来に希望が持てるようになりました。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




「4つの約束」が守れること。
ワークショップそのものや優月さん、周りの仲間達、何より自分を信頼できること。
変化してもいいと、心を決められること。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



ワークショップでは、自分の問題を客観的に捉え、対処の方法を地道に訓練します。
それがなければ、TAT セッションで大元の問題に対する感覚が切り離されたとしても、そのうち、過去の習慣に基づいた新しい問題を抱えてしまい、それを繰り返すことになると思います。

また、クレンジングリアクションへ自分なりに対処することが出来ず、日常生活でバランスを取りづらくなると思います。
安全に感情を解放する方法を、事前に知っておくことが大切だと思います。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



自分の人生を客観的に振り返り、問題や自己のパターンの把握が出来たため、変化に対する心の準備ができました。
また、5)で書いたような流れをワークショップで一通り経験していたことが、実際に役立ちました。
クレンジングリアクションへの対応が慣れていると、事前にある程度生活ペースの調整をして、セッションに望めると思います。

それから ONSA HP 掲載の「お薦めの本リスト」が役に立ちました。
自分の思考や行動が現実にどのように反映されてきたのかということと、実際にワークショップで行っていることが結びつき、腑に落ちる点がいくつもあって問題を把握することができました。
これから現実生活を進めるうえでも、助けになると思います。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




現実的に問題が無くなったわけではありませんが、問題そのものと心の距離が取れるようになりました。
また、自分の決まりきった行動・言動等の反応パターンを理解したことで、対策を立てて現実を良い方へ動かすような行動が取れるようになりました。

大変な状況を自力で生きてきたことを事実として受け入れ、自分に対して賞賛や感謝の気持ちが持てるようになりました。
自分の好き嫌いを大事にして自分の人生に集中したい、そして自分はそのような人生を送ることに値する人間だと思えるようになりました。
今まで頭でしか分かっていなかった「自分を大事にする」ことが、実際に体感できたことが大きな喜びです。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



私は、家庭環境を起因とする心の問題に向き合い始めてから、述べ6年程経ちます。
他の機関のワークショップやカウンセリングを受け続けていましたが、心理的なアプローチに対し自分が依存していることに気付き、いったんは離れました。
が、結局は精神的に苦しくなってカウンセリングを再開。しかし日常生活はさほど好転せず、途方に暮れる日々でした。

ONSA のワークショップに出会った時は、既に5年の月日が経過していました。
ワークショップを初めて受講した時の、
「ここのワークショップは自分に合っている気がする」
という自分の感覚が決め手となり、TAT セッションを受けるために ONSA のワークショップを受け続けました。
今はその時の感覚を信じて良かったと思っています。

ワークショップの料金は決して安い金額ではないので、お金を使うことに対するためらいもありましたが、これまでの道のりを振り返ると、時間はお金に変えられないし、自分の抱えている問題は、腰を据えて向き合うだけの価値があると思い、課題に取り組みながら日々過ごしました。
また自分の心の問題に向き合い出してから、周囲の人の理解を得られない時もあって、落胆しあきらめそうになることもありましたが、
「自分のやっていることは、自分の人生の為になるんだ。少しでも良くなる日がくるんだ」
と信じてしがみついていました。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




よく、がんばったね。おめでとう。長い道のりだったね。
本当に、ずっとずっと苦しかったね。自分が悪いんだ、ってずっと思っていたね。
でも違った。自分が悪いんじゃなかったんだよ。
本当に、ごめんね。辛かったでしょう。もう、悩まなくていいんだよ。
自分に何の責任もないことで、悩まなくていいんだよ。

外で身体を使って遊んだり、手で何かを作ったりすることが、好きだったね。
いつも外を駆け回ってた、子供の頃のような自分に戻っていいからね。
ずっとキツかったね。でもキツいことが分からなかったね。
「あの頃に比べたら」
って、いつもいつも自分が苦しかった子供の頃と今を比べて、我慢して頑張っていたね。

もういいよ。手を離そう。自分に合わない人、会社、出来事からは、離れていいんだよ。
頑張って、我慢して我慢して、寄り添わなくていいんだ。
自分の好きを、大事にしていいんだ。
無理やり、波風立てないために目立たないように振る舞ったりとか、大人しいふりをしたりとか、もうしなくていいよ。

ずっと目立ったらダメだって、自分を戒めてきたね。
そんなこと、気にしなくていいよ。
ウダウダ言ってくる人たちは、もう放っておこう。いい、いい、そんな人達のことは気にしないで。
あなたには力があるんだ。
たくさんたくさん、力があるんだ。

これからは選べるし、今まで出していなかった力を出すことができるよ。
小さいあなたに会ったとき、すごく元気でビックリした。
認めたくない位、元気いっぱいだったね。
そして、とっても勇敢だったよ。
そんな私、ずっと眠っていたんだね。
ごめんね、ほったらかして。
ずっと待っててくれたの? そんなこと、気にしていないかな。

どうして我慢したの? って聞いたら
「あんたを守った。それしか知らない。あんたのことが、好きだから」
って言ってくれたね。
あなたなりに、一生懸命、頑張ったんだね。
ありがとう。
生きることを選択してくれて、ありがとう。

昔、自分には選択肢がないって思っていたね。
だけど、違ったよ。
ちゃんと、生きることを投げ出さないでいてくれた。
あなたのことを、とても勇気があって、優しい女の子だと思ってるよ。

これからも、よろしくね。
ずっと一緒に、歩いていこう。



タイトルはじまり目印

S. T. さん(40代以上/岡山県よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



幼少期に両親や祖母の何気ない言動から、自分は生きている価値はない・いらない子なのだと思うようになっていました。
妹の死に際や祖母が倒れた際に何もできなかった自分、その直前に自分の態度が悪かったことを責める気持ちがありました。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




妹が生まれて保育園に入園。その後、妹が発作から一時心肺が停止し、奇跡的に命をとりとめたものの重度の障害をもつことになりました。
妹はその後もたびたび発作を起こし、その度に親戚の家に預けられていました。いつも何も告げらないまま、荷物とともに車に乗せられ、気付けば親の姿が消えていました。
また、妹の発作時には自分以外の大人は慌ただしく対処していて、いつも何もできず足手まといになる自分の身の置き場に困り、途方に暮れていました。

親に自分の気持ちや要求を表現すると、妹に比べて健康なのだから元気な体があることに感謝して妹の分まで頑張るよう叱責されていました。
いつしか、家族の役に立たないと・何でもできる人にならないとダメだ、両親や祖母を喜ばせないとこの家にいられない、それができない自分には生きている価値はないと思うようになっていました。

大好きな妹が天国へ旅立つ1年前、父親に反発していた私は、父親がかわいがる妹のそばに寄り付かないようになっていました。
食事中、発作を起こした妹の急変に気付かず、私を呼ぶ祖母からの電話の音にも答えず、気付いた時には妹は瀕死の状態でした。駆け付けた母から「何をしていた!」と怒鳴られ、病院についていきましたが、賢明な医師の処置を受けても息を吹き返さない妹を見るしかありませんでした。祖母の電話にすぐ答えていれば、父親に反発していた罰かもしれない、私のせいだと自分を責めるようになりました。

いつも私の素のままの感情をぶつけていた祖母が、ちょうど喧嘩をした翌日、倒れて意識を失いました。
私は、第一発見者でした。
救急車で病院へ運ばれ、処置を受けても意識は戻らず、寝たきりとなりました。喧嘩の仲直りもしないまま、また、倒れてすぐに発見できなかった自分を責めるようになりました。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


遠い過去のこと。私の身に起こったこと。実際にあったこと。
そして、それらは子どもの私にはどうしようもなかったし、どうにもできないことだった。
仕方のないことだった。

そして、私が自分を責めていたのは、家族を責めることもできず、だれを責めることもできず、悲しさや悔しさや辛い気持ちのもって行き場がなかったからだとわかった。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




自分の課題を自分で自覚していること。
人から言われたからではなく、自分で自分の過去を習慣を何とかしたいと本気で思って行動できること。

ONSA WORKSHOP での「4つの約束」が実践できること。
特に、「心をひらく」は大切だと思います。

以上のことを考えると、ONSA WORKSHOP を受けることが望ましいと私は思います。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



現実の生活で対処できなかったと思います。
TAT でやきつきがとれたとしても、その後の生活の中で今までと同じような人間関係を繰り返したり、同じような反応をしてしまったりして、新たな問題を抱えることになっていたと思います。
そもそも過去のやきつきが何なのかわからないままで、さほど何も変わらないと思います。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



現在の自分に生じる人間関係上の問題や負の連鎖に、過去の経験や成育歴が多大な影響を与えているということに自分で気付くことができました。
その上で、正しい知識を得て、どう対処していけばよいかを学び、練習することで現実の生活の中で少しずつ練習することができました。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




日常生活の中で起こる出来事によって、いつも過去の問題が響いて、その度に自分を責めていました。
TAT セッションを受けた後、目の前の出来事を自分に引き寄せて、自分を責めるということがなくなりました。
そして、事実を冷静に受け止めることができるようになりました。
その結果、自分のこととして抱え込むことが少なくなり、以前より自分という存在がしっかりと大切に感じられるようになっています。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



私は、1年前の今頃 ONSA の HP を訪れ、WORKSHOP のお知らせやPAY FOWARD を読みました。
「気になるなあ~」「受けてみたいなあ~」と思うのに、同時に「東京だし、遠いし、仕事も家事もあるし……」という思いがわき、「やっぱり無理」とやらない選択をしていました。

年が明けて、HP を訪れてお知らせや体験した方の言葉を読むたびに、「あきらめたくない」という気持ちが強くなりました。
今年の6月に1回だけと思い切って WORKSHOP を受け、そこからは自分の気持ちに正直に気になる WORKSHOP を受講し、ついに年内に TAT セッションをうけることができました。

「やるぞ!」と決めてからは、あれよあれよとここまで来ていました。
今、振り返ってみると、1年前の自分が滑稽に思えます。
とにかく「えいやっ!」とやってみれば、思った以上に自分はやれるもんなんだなあ~と思っています。
そして、自分の内側から生じる気持ちは、自分を望む方向へいざなってくれるんだということも今ならわかります。
「なんとなく」「気になる」という気持ちを信じることが、私は大切だと学びました。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




「TAT を受けたいなあ~」と思っていた昨年の今頃。
それは、はるか遠い夢のようだったね。
「私には無理」と思うようにして、行動しなかったね。
それは、挑戦して失敗したらいやだとか、恥ずかしい思いをして傷つくことが怖いからだったんだね。
自分をガチガチに守っていたね。

私の中から湧きあがってきた「変わりたい」「このままじゃいやだ」という気持ちを大切に、一歩踏み出したね。
そのあとも、自分の気持ちに正直に、夢中でやってきていたら、TAT までたどり着いたね。
動き出してから半年で実現したんだよ。
すごいね!

1年前の私に今の私を見せたら、びっくりするよ。
勇気をもって動き出したら、物事は自然と自分にとって良い方向へ進んでいくんだね。
何より、このことを自分で実感できたことが私はうれしい!
自分の身体を通して、体験したことが今の私の言葉を作っているよ。

世界は思ったほど怖くない。
失敗しても大丈夫。
そう思えるようになった私、万歳!!



タイトルはじまり目印

M. K. さん(20代/東京都よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



いつからかわからないくらい、生きていることがずっとつらかったです。今思えば、自分の人生を自分が生きている感覚がなく、でもどうしてこのようなつらい状況に自分がいるのか理由がわかりませんでした。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




両親が私のありのままを尊重することをせず、自分達がよいと思うことをおしつけて私を育ててきた結果、自分を大切にして生きるということが具体的にどういうことなのか全く理解できていませんでした。
他人の顔色を見て、意向に添うふるまいをしないと自分の存在は許されないと思い込んで生きてきたことが、自分を生きづらくさせていた原因でした。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


自分と向き合うことができるようになり、現実の問題に自分で行動し対処できるようになりました。つまずきながらもその繰り返しを行う過程で自分への信頼や自己肯定感が高まり、自分に自信がもてるようになりました。

私はワークショップを受け始めた頃は、ワークをうまくできない自分や自分の問題を解決するためにワークショップに来ているのにやりたくないと思っている気持ちや、失敗するんじゃないかとかこわいといった不安の気持ちなど、自分にとってマイナスだと思えるような気持ちを自分が抱くことを、認められない状態からスタートしました。
「常にできる自分であれ。それ以外は認められない」と思っていて、だから、できない自分やできないことを人に指摘されることが非常につらく、屈辱的と思うところがありました。

ワークショップを受け始めた頃に、できない自分を認められないということ、そのルーツが両親の私へのふるまい、態度そのものであったと気づき、大きなショックでした。また、この頃には親はきっとわたしにこうしてほしくて、こういうことはしてほしくないんだろうと自分が勝手に想像して、その基準から外れないように生きることを自分の生き方にしていました。

なので、私に望んでいるだろうことを親が実際に望んでいたわけでは必ずしもなかったことがわかり、自分のために生きなかった時間のことを思うと、悔しくて怒りがとてつもなくわいてくるという強烈なクレンジングリアクションを経験しました。それでも時間が経つにつれ、自分のために生きなかったことを受け入れられるようになって、今目の前にある問題に取り組めるようになりました。


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その時の問題は、私は大学を卒業してから就職することができずにいたことです。
仕事はしなくちゃいけないとわかっていましたが、就職活動がとても嫌でした。今思うと自分のことを認められない、受け入れられないから嫌だったのだと思います。

現実的に自分がこれまで学んできたこと、経験してきたことから自ずと選択できる仕事は決まってくるし、提出書類には自分のことを書き、面接で自分のことを話さなくてはいけないし、それに対して相手からレスポンスがあって、受け入れてもらえないことも就職活動をするなかではたくさんあります。だけどそうした現実を認められなかったから、就職活動が嫌で前に進めなかったのだと思います。

ワークショップを通じて、できない自分がいることを認められるようになって、こうしたらできるようになるのか? と自然と考えられるようになりました。それまではできない自分は自分のなかで許されなかったので、できなかったらそれでおしまい、行き止まり、そこから先を建設的に考えることができませんでした。
ほんの少しでも、じゃあ次はどうしようか? と考えるようになって、ちょっとずつ前に進めるようになって、たくさん周りの人の助けも借りながら(完璧主義だったので人の助けを借りるなんて情けなくてできないと思っていたのに、それもできるようになりました)自分の納得のいく就職をすることができました。


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TAT では、ワークショップのワークをすすめていくなかで浮かび上がってきた、同級生から受けた暴力への恐怖と、自分の言動がもとでそれが起こったことへの罪悪感をもち続けていることをテーマに取り組みました。
ワークショップで自分が抱えているものを何もかも認められるようになったら、私はこの問題をずっと引きずっていることをはっきり自覚しました。

ワークショップで自分を受け入れられるようになっていなかったら、ずっと見てみぬふりをし続けていたと思います。
だけど、自分を大切にすることを現実でできるようになったからいっそう、見てみぬふりをすることがどんなに自分につらいことかがわかっていました。だから、書くことも話すことも本当はしたくないと思っていた経験を TAT で取り組むことが必要だと思い参加する決意ができました。TAT を受けた後は、起こった事実は認めつつも、経験に埋め込まれていた恐怖と罪悪感を手放せています。
過去の恐怖が今襲いかかることがなくなり、よりいっそう、今自分がいる現実を生きることができるようになっています。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




どんな自分も受け入れることが必要だと思います。
TAT は参加者が互いに自分の抱える問題を話すので、自分に起こっている問題は、人からどう見えようとも自分にとっては重大であること、それは他の参加者の方が抱えている問題も同様だと理解できていることが大切です。

でないと、人と自分の問題を比較して自分の問題は大したことないと思って思い切り話さなかったり、他の参加者の方の問題をそれは大したことじゃないと判断して話を聞いたりすると、セッションの雰囲気が悪くなり、信頼感をもてないまま不完全燃焼で終わると思います。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



TAT が終わった後のクレンジングリアクションに対応できず混乱していたことと思います。
自分の状況を自分で把握できず、さらなる問題を生み出すような行動をとってしまったかもしれません。
また、セッションで他の人にどう思われるかを気にするあまり、自分の問題を素直に話すことができなかったと思います。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



自分で自分をケアすることをワークショップで身につけていたおかげで、自分の急激な変化に対処することができました。
自分の中からわいてくる感情を素直に認められたので、クレンジングリアクションは大変ではあるけれども、一方で冷静に受け入れることができました。

身体の疲れも察知して、心ではすごく色々なことをやりたいと思ってるけど、体が全然元気ないから今は休もうって、無謀なことをしなくなりました。
クレンジングリアクションが終わると、自分のなかで次はこれが問題になっているらしいということが見えてきますが、それを解決するのに何が必要なのか、どうしたらいいのか自分で考えて行動できる力が備わっていると、現実を安全に生きていけるので安心感があります。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




TAT だけでなく、ワークショップの過程も含めて、自分の人生を自分が生きているという感覚をもつことができるようになりました。
過去は変わらないし、なくならないし、自分の人生は順風満帆だという認識にがらっと変わったわけじゃありません。
あーあと自分の人生に起こったことを残念に思う気持ちもあります。

だけど、絶望しなくなりました。
自分の人生はもうどうにもならないんだって思わなくなりました。
今の現実でつらいこともそれなりにありますが、自分で現実を変えていく力を自分がもっていると感じることができています。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



最初は自分の抱えている問題が謎だらけで、問題の正体が自分で何にもわかりませんでした。
唯一よくわかっていたのは、この状況じゃ嫌だということでした。
どうしてこうなのかわからないけど、これじゃ嫌だってことだけはよくわかっていました。

飛び込んでみたら何が起こるのかわからなくてとても最初はこわかったです。
でもそれで大丈夫です。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




あきらめないでここまで歩いてきて本当によかったね。
私は何にもできない、無力なんだって思ってたけど、そんなこと全然なかった。

勇敢に逃げずに向き合ったからここまで来れたんだ。
これからも自分の力を信じてやっていくから、どんどん人生を楽しもうね。



タイトルはじまり目印

R. I. さん(20代/埼玉県よりご参加) えりだぬすクラス


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1)あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?



家族問題で苦しんでいました。
私は7月に25歳を迎え、今は2012年の12月15日。
家族問題で苦しかったのだとはっきり気づいたのは、忘れもしない今年の11月11日でした。

朝起きて思っていることを『未来日記』に書いたら9ページにも及ぶ殴り書きになりました。
自分が異常だと、苦しいんだとわかりました。
今まで ONSA WORKSHOP に出ていたけれど、根本的な癒しが必要だと気づきました。すぐに TAT に申込み、幸いにも参加できました。

私は20年近く苦しみながら生きてきたのです。それも苦しいとも気づかずに。衝撃でした。
楽しくない、苦しいとは思っていたけれど、それが人生だと思っていました。

父親の言動がなんでも恐く、することなすことプレッシャーに感じていました。それが嫌だった。
人の期待に応えることをしてしまう。生きていて楽しくない。でもそれもなんか変だから楽しいふりをしている。自分に無理をしている。

人が怖い。電車が怖い。電車の人がみんな自分を責めているように感じる。両親が怖い。
これが私がまず苦しんでいたでした。



2)どんな環境、どんな過去を持っていますか?
どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
過去を振り返ってみましょう。
あなたは、どのような体験をしたのでしょうか。




小さいころ、怖い思いで生きていました。
小学生のころから父親が怖くて、いつもピリピリしていたことにビクビクしていました。父親は不機嫌で、それを見ているのが恐かった。

「子供のくせに」、「(いらいらしている自分を)見るな」というメッセージを受けてきました。
悪いだけの父親ではないし、暴力をふるうわけでもないし、普通の子育ても愛情もかけてもらっていたと思いますが、子供心に怖かった。そして外面は穏やかなパパでした。それも家族中で困っていました。
家の中ではそうじゃないのに。そう思っていました。

家では両親が同じことで喧嘩していました。
心を開かず殻に閉じこもる父親に困り果てて傷つく母親。いつもこの関係をどうにかしたいでもできないという内容のケンカを繰り返していました。
夫婦の問題は夫婦でちゃんと解決してほしい。夫婦で解決できるということを、その力があることを子供には見せてほしい。そうでないと私が解決しないといけないと思う。私は長女で妹にも頼れない(と思った)。


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私は間に入って何とかしようと両親の橋渡しをしていました。やりたくてやっていることではないのに、やらされ、ついに「R は潤滑油で助かる(みたいなこと)」を言われたりもしました。
意味が分からなかった。
「違う。こんなことやりたいんじゃない。親としてなんとも思わないのか。言われてうれしいことか?」と思っていました。

母親とけんかしているときの父親は妙に子供にやさしくて、仲間に付けようとしてそれも嫌だった。そんなケンカを何度も繰り返し見るのも嫌だった。
父親の機嫌を取ることが家族の、私の最優先事項でした。

だから家が安全で安心できなかった。だから外の世界には自分をよく見せなきゃと思って生きてきました。
本音を言ってはいけない、危険なもの。人に心を開いてはいけないと思い、心を開けなくなりました。
人の顔を伺って生きるようになりました。大きな声の人、態度のでかい人、怖い顔・疲れた顔の人が怖かった。
私がどう思うか普通の自由が許されなかった。いつも向上しなきゃと思って、責められているように感じていました。

プレッシャーにとても弱かった。自分であることが許されない環境でした。
自覚して苦しんでいた部分と、苦しんでいることに気づいてすらなかったこととがありました。



3)ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?


まず、TAT 対面セッションで、父親の存在自体・言動すべてが怖いこと、電車の人混みが怖くて責められているように感じることを pot に入れました。

父親の言動が気にならなくなりました。びくびくしなくなった。家に居やすくなった。
接するたびに自分を責めていたけど、それもなくなりました。

お父さんの笑顔も怖くなくなった。今過去のことを思い出していると少し苦しく感じます。自分のされたこと、それによって失ったことの大きさにすこし怒ります。
しかし、「今はそれでよかったのだ」と、妙に乗り越えた感じで、この瞬間は穏やかです。
自分の時間だと思うし、父親との妙な一体感(共依存だったということだと思う)がなくなり、いい意味で他人で、私とは切り離された別の人間だと思います。

電車も人が多くて近いは嫌だけど、責められている感覚はほぼなくなりました。すこし出勤しやすくなった。
移動したい人がおんなじ場所に一時的にいて、それぞれ行きたい場所に向かってるだけという当たり前なことに気づきました。
一回目のセッションで思うように集中できなくて悔しくて、二回目のセッションで一緒に思い切ってやってみたのがよかったみたいです。

WebEx セッションでは「自分はいてはいけない、感じてはいけない、心を開くふりをする想い」を pot に入れました。
WebEx セッション一週間たって、そんなわけないと思うようになりました。
「自分がいてすいません」と本気で思っていたことが、少し堂々とする自分になりました。自分の人生は自分のもの、自分が幸せだと感じる自分でいていいと思います。

ですがこれが本当に自分に根付くのはあと一週間くらい後な気がします。
TAT セッションはその瞬間ふっと手放せますが、自分に定着するのは3週間経ってって感じします。
TAT 対面セッションでは直後より、3週間経った今完全なものになったと思いしました。



4)TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?

ここで言う条件とは、人的条件やお金といった条件ではありません。
たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」 こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること………など、体験した人だから分かることがあると思います。
ONSA WORKSHOP と TAT セッションをご自身で体験してみて、TAT セッションにはどのような前提条件が必要だと思うか、受けてみて感じたことを、ご自身の言葉で教えてください。




たとえば、集中を切らさないで人の話を聞けること、自分の痛みのルーツが分かっていること。「裁かない」こと、自分にウソをつかないこと、時間に間に合うように来ること、ルールを守れること、協調性が養われていること……など、体験した人だから分かることがあると思います。

ONSA WORKSHOP を知らないと、安心していい場所だと思えないと思う。何を解決したいのか、なぜ今苦しいのか、どうなりたいのか、知ってないと問題にフォーカスできないから癒せないかな。
それを知るのが ONSA WORKSHOP のプレワーク、当日のワーク、アフターワーク、ペイフォワードだと思います。

また、裁かない・心を開いて聞く話すの練習が ONSA WORKSHOP でしたことがないと、TAT セッションの効果が薄いと思う。
自分に正直にならないと受ける意味がない。その準備が必要だと思います。
また、クレンジングリアクションの経験もないと怖いです。



5)もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを受けていたら、どんな風であったか、想像して、教えてください。



痛みが分かってそれから逃れたくても、それがなくなった後の現実が生きるのが本当に大変だと思う。
境界線について、夢について、感情について、変化について混乱に巻き込まれると思う。

私は ONSA WORKSHOP で訓練しても混乱しました。クレンジングリアクションにも困惑しました。しかも働きながらの人も多いと思うから、大変だと思う。

今までの自分が変わってそれまでじゃない新しい自分になるわけだから、見えるものも感じるものも違う。それに着いてけなくなってしまうかも。
変わりたくて TAT セッションを受けたのに、変わって困ってしまう、というおかしなことが大きく起こるかも。
そして変化のありがたみにも気づけないかも。

あと、TAT セッションは本当にパワフルだから丁寧にやるのが大切。
爆破力がほかの ONSA WORKSHOP と違うから(笑、私の場合だけど)丁寧に。ステップは難しいものじゃないよ。



6)ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?



TAT セッションが終わって、現実に戻り会社に行くと、現実に戸惑います。
人間関係、自分の感情、変化そのもの。それを乗り切るために、ONSA WORKSHOP の「じかんのきろく」を見返しました。
受けておいてよかった。
このためにこの WORKSHOP に出たんだとわかりました。TAT セッションで何をどうしたいのかも気づけました。



7)TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。




実はよくわかりません。
感じ方や変化は3)に細かく書きました。
自分の今後のための記録として細かく書いてみましたが、なくなったというかあったことすら忘れてたというか、丸ごと消えた、という感じです。

セッション後は必死でしたが、現実は変わるのだとわかりました。
人生は変わるのだとわかりました。

セッションでは自分の希望に出会えた感じです。本来の自分に出会えた感じです。
心が軽くて気持ち良くて光で満ちているような感覚がしました。

不思議で神秘的で素敵で幸福な出来事でした。同じクラスの皆さんとの絆を感じたのも不思議でした。
ありたい自分に出会えました。
自分の深い部分に入っていく感覚や不思議面白体験でした。

この経験、私は大好きです。
奇跡や希望に出会った感じです。



8)これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方にメッセージをお願いします。また、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方に、あなたにしか送れないメッセージをお願いします。



まだ大丈夫。まだあきらめなくていい。まだできることはある。
私は自分にそう言ってあげたいです。

人生は不思議みたいです。
どうにもできないと思うとどうにかできるものがやってきた。私にとってそれが ONSA WORKSHOP や TAT セッションでした。
こうなりたいはこうできるとイコールなようです。私は今それをやってる途中です。

私もくじけそうになる。
でも、私は生きていけるから生まれてきたのだと思いたい。私もあなたもみんなそうなんだと思う。
大丈夫、自分を信じて大丈夫。
人生や生まれてきたことを信じて大丈夫だよ。と自分に言いたい。



9)最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
誰かに遠慮する必要はありません! 思い切ってどうぞ!
感じていることを、素直に書いてみてください。




長かった。早かった。変化大きかった。がんばった。楽しかった。苦しかった。
凝縮してる。まだまだ消化途中で変化はまだまだ続くっぽいね。わあ。

ほんとに変化が大きかったからすごかったね。
ほんとに褒めてあげよう。本当にいたわって大切にする。

よく生きてきたね、えらいよ。私。
よく生きてきたね。苦しかったね。もう大丈夫だよ。
過去は乗り越えられた。拍手だ。

これからは現実の中で幸せを掴んでいきたいね。なんだか現実というのがテーマになってきたね。
自分で決めて、自分で選んで、自分で乗り越えて、人と感動を共有して楽しみたいね。
とりあえず、わたし、お疲れ様!




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