2020.06月開催 「変容(トランスフォーメーション)ワークショップ」れもんばーむクラス

タイトルはじまり目印

M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) れもんばーむクラス


タイトル下の線


わたしへ

まずはお疲れさまでした。
慣れないオンラインでの参加で、うまくつながらなくて始めは焦ったけど、無事に終わってホッとしましたね。

初めてのこと、新しいことは本当に緊張するよね。
その上、大体1回目は緊張しすぎて失敗するしで
「もう、いやだ…。なんでいつもこうなるの…」
と半泣きだよね…。

でも、いつも終わった後は
「チャレンジして良かった…。またひとつ、新しいことを経験できた」
って、嬉しくて、自分が誇らしくなる。
半泣きになりながらも懲りずにチャレンジする心、いいと思うよ。
いつもありがとね。


私は本当に本当に小さなことを積み重ねている。
そして、それでいいと思う。
これが私の「したかったこと」なのだと思うから。


文節区切りの線


今回
・人は「快」で生きることが当たり前にベースにあって、そのために行動していること
・「快」が積み重なって人生になること
・ルールやマナーは自分や他人が安心して、楽しく、心地よく生きていくためにあるもの
だと知った。

藤沢さんは「今までも話しているよ」と言っていたけれど、自分では本当に「初めて聞きましたよ」という感覚だった。

私は今回ようやくその言葉を肌感覚として理解したのだと思う。


文節区切りの線


私がルールやマナーを守っていたのは、自分や他人が心地よく過ごすためのものではなく、「自分がただそこにいるため」だけにしていたことだった。

あまりの違いにショックを受けたけれど、自分がかわいそうになったけど、気づいてそれを認めることが出来たことは良かったと思う。
この考え方のクセにはしばらく苦しめられるとのことなので、意識して気づいて、その都度やめていこうと思う。


そして、今回のワークショップの中で「自分が安心する、心地よくなる、『快』のための行動・活動」を書き出すというワークをした。
「自分が興味のある、やってみたいこと。思わず考えると顔がゆるんでしまうこと。」

私は途中から苦戦していた。
やっぱりまだ自分の「ワクワク」「安心」「好き」「楽しい」「心地よい」「顔がゆるむ」ことを見つけることは苦手だ。


文節区切りの線


私は最近「自分のために行動する」ということがだいぶ出来てきたなあ…と思っていた。
そして、今回それは純粋な「快」のための行動ではなかったかもしれないことに気づいた。
その前段階というか。

「快」のための行動といえば行動なのかな。
それは自分が安心して過ごすために境界線を引いたり、自分の意見を言ってみたりと、「自分を守るため」の行動の方だった気がする。

それでもそういう行動をした後はそういう自分がうれしくて顔がゆるむからやっぱりこれも「自分にとっての『快』」なのかも、と今は思う。


文節区切りの線


そして、帰ってきてからワークで書き出した「してみたいこと」は本当に日常にあることばかりだと気づいた。
私は
「日常を体験したい」
「当たり前と思っていたのに実際にはできていないことを体験したい」
のだと知った。

あまりに日常ですぐに体験できることが多かったのでびっくりした。

自分では「行動出来ている」と思っていたけれど、実際にはささいなことほど行動できていなかったことに気づいた。

「いつでも出かけられる」
「やろうと思えばいつでもできる」
そう思っていながら、実際には動けずにいた。


文節区切りの線


気づいたことは、
「いつでもできるから動かなかっただけ」
ではなく
「動けなくなっていた」
のだということ。

ワークで
「してみたいことができなかった、しなかったのはどうして?」
という問いがあった。

私は
「こわい」
「めんどうくさい」
「年だから」
「恥ずかしい」
「着る服がない」
と言う答えが出た。

これらは自分の中からは消えることはないとのこと。

確かにそうかも…と思った。
だから、そんな理由で自分を足止めしていたらもう一生動けない。


文節区切りの線


藤沢さんから
「頭で考えず、とにかく行動して体験してみたら?」
とアドバイスをもらった。

私は自分で
「体験したい」
「自分の肌で感じたい」
と強く思っているのに、自分でそれを止めてしまっている。
自分で体験しない限りはそれは想像でしかない。

だからいつまでも「自分にとっての快」がわからない。
そんな当たり前のことに改めて気づかされた気がする。


文節区切りの線


少しずつでいいから、自分を抑えず、「自分の快」のために行動していこうと思う。
そして、それにはますます時間管理が重要だと思いました。

ありがとうございました。





タイトルはじまり目印

Y. W. さん(30代/愛知県よりご参加) れもんばーむクラス


タイトル下の線


今回も、大ボリュームのワークショップでした。

私が今まで「これが世界だ」と思って生きてきた世界。
それが、普通のものとこんなにもかけ離れているのかと、改めてレクチャーを受け、正直げんなりした。


文節区切りの線


「これでもか!」と隙がないほどに、悪質にねじれている。

これを正常に洗い流すだけでも一生の仕事になっちゃうんじゃないの? という気すらしてため息が出る。
そのぐらい、私にとって背負った負債は、重い。


なんで私は、大の大人の下敷きに、代行役にされてしまったんだろうか。
ワークショップの解説でその理由と仕組みは理解できたけど、気持ちとしてはまだまだ「なんでだよ!」と叫びたい。

されたことの重みが実感されるほどに、泣けてくる。
私の人生を、返してほしい。


文節区切りの線


そんな悲しみを感じることになっても、「知る」ことはとても大きいと、今回も思った。

だってこれを知る機会もなかったら、
私はこのねじれた世界観のまま、出口もなく、懸命に頑張り続けて、でもその成果は、全部他人のもとにいってしまう…
そんな不毛な人生から、それこそ一生出られなかっただろう。


ワークショップに定期的に参加してても、いつのまにか、私はつい自己流になってしまっている。
参加してなかったらどうなってたんだろうと思うと、私はぞっとする。

そのぐらい、痛みを負った人生の立て直し、回復は本気でやらないと、どうにもならないことなんだと感じた。


文節区切りの線


今回、このワークショップで私が学んだことはまだまだ、咀嚼と実践に、時間がかかりそうです。
一気に全部はむずかしくて、一方でしたい気持ちは山々なのでもどかしいけれど「一歩ずつ、確実に」を大事にしたい。

そのためには、とにかく体をゆるめる。
体とつながる。

「今、ここ」に戻る。
「私はわたし」を感じる。

私の素直な声。ニーズ。
子どもの頃したくて、できなかったこと。
今、やってみたいこと。

心地よさや快を感じるもの。
チェアワーク。


アタマであれこれ考えるのをできるだけやめて、体に何度ももどって、感じて、進む。
そのやり方に切り替えていこうと思います。


文節区切りの線


今まで、私は問題に対し「乗り越えなくちゃ」と頑張ってきました。
でも、そうじゃなくて、ただ「当たり前」に目覚めていけばいい。

私には、こういう権利があった。
私には、こういう世界で生きる資格も、あった。
私は、自分の願う幸せを、望んでいいし、叶えていい。


今まで、私の親をはじめ、私の周りにいる人の多くは自分の欲やニーズのために、私に「ダメだ、ダメだ」と禁止や呪いをかけまくって、私を「曲げる」「利用する」「代行させる」洗脳の達人ばかりだった。

その人達の言い分や主張、非難を聞いてても、もうどうにもならない。
だから私は、私に戻る。そして健康な世界の方に身をおく。


「これ、当たり前なんですけど」の方に、戻る。
私のために、堂々と選ぶ。
私はそっちの道を選び、あの人達は、今のまま、とどまる。
それでいいのだ。


文節区切りの線


人生で、同じ「頑張る」をするならガマンを頑張るのではなく、私の夢や幸せのために、私は頑張りたい。
私はそのために生まれてきたんだから。


優月さん、スタッフの皆さん、お仲間さん
ありがとうございました!





タイトルはじまり目印

Y. S. さん(40代以上/長野県よりご参加) れもんばーむクラス


タイトル下の線


ワークショップ・クラスに参加して、気持ちの悪い一週間を過ごした。
うまく着地できないというか、自分が自分でないような感じがした。しかも自分の内面だけでなく、住まいの問題なども生じ、体調面でもしんどかった。

見えてきたこと、気づいたことは沢山ある。
そして私が感じていたこと、感じていたけれど感じないようにしてきたこと。


文節区切りの線


私は原家族を、モンスターだと感じていた。
人の皮を被った得体の知れない怪物。
それが私が彼らに抱いていた正直なイメージだ。

話が通じない。彼らの言動や行動が理解できない。そして私に危害を加える。
私は彼らから人として扱われていないと思っていたが、私も彼らを人だと思っていなかったようだ。

私は人だ。だから私は、人と一緒に生きていく。
モンスターとは一緒に生きていけないのだ。


文節区切りの線


なんだかとても悲しかった。
そして悲しみを感じた後、ものすごく気持ち悪くなった。

この気持ち悪さは、彼らと一緒に生きていかなければいけない時期には感じられなかっただろう。

こんなものを感じていたら、生きていけない。
だから感じないようにしていたのだろう。

そうやって私を守っていたのだろう。
そして、今、感じられるようになってきたということは、彼らと距離を保てて、しっかりと線引きができてきたからではないか、と思った。

一緒に生きていけないのだということは、よくわかった。


文節区切りの線


そして、私が自分に許さなかった事をやってもいいのだ、ということもよくわかってきた。

私は怪物のような彼らを見て、私も同じような事をしてしまうのではないかと私自身を恐れていたところがある。
今思えば、ひどい話だけれど、実際に原家族からそう言われていたし、私自身もそう思い込んでいた。

それは違う、ということが、実感を伴ってわかってきた。

正しく学ぶということは本当に大切だ。
私は彼らとは違う。私は彼らと同じようなことはしないのだ。
それが本当の私なのだ。

私が思い込んでいた私が、本当の私じゃなかった。
心からほっとしている。
私はもう、悪い事をしてしまわないようにと私を縛る必要はないのだ。
ああ、自由だ。


文節区切りの線


そして、私の自由を制限し、私らしく生きないことが、彼らと一緒にいるために必要だと私は思っていたようだ。

こうやって書いてみると、なんて奇妙な関係だ、と思う。
しかしそれが、私と彼らをつなぐ絆だったように感じている。

私は、何かしらの集団に所属していたかった。
だから家族と一緒にいようとしたこと自体は、とても自然なことだったと思う。

ただ、私の原家族は相当に病んでいた。だから彼らとは一緒にいられないのだ。
私も病んでしまうから。その絆はいらない。


私は、彼らの言動や行動をおかしいと感じている。
そして、おかしいと思う人達と一緒にはいないことにする。

私は、一緒にいて楽しい人、心地良く感じる人と一緒にいることにする。
何か問題が生じたら、双方向のやり取りで解決していける関係がいい。

失敗してもやり直せるような関係がいい。
些細な失敗で私の存在まで脅かされるような関係は、御免だ。


文節区切りの線


私は、異常な家族から間違った生き方を学んでいた。
その生き方では私は決して幸せにはなれない。

今も私の頭の中には、彼らから学んだ残骸が残っているけれど、私には強力なガイドがいるのだ。
私のからだ。
ワークショップでも、チェアワークのあとはすっきりとして、やりたいことが沢山出てきた。
そして今は、具体的にどう行動するかを計画中だ。

美味しいこと、楽しいこと、嬉しいこと。からだはとても正直だ。
私が心地良く感じることを、はっきりと示してくれる。
このからだがあれば、私は生きていける、と思った。


私は自然が好きだ。特に森が好き。
トレッキングのツアーに早速申し込んだ。初心者向けのコースだ。

私は、去年の「時間のためのちいさなワークショップ」で「自然の中で生きる」というキーワードが出てきて、その後時間を取って(手帳使いました)、やりたい事をピックアップしておいたのだ。
コロナの影響でなかなか実現できずにいたが、今はなんとかやれそうだ。
思いっきり遊ぼうと思う。


文節区切りの線


私を「快」で満たしていいのだな。からだの感じに正直になっていいのだな。
やっとそれが思いっきりできるのだな。
泣けてきた。

本当に苦しかったよ。私は私に正直でいい。そして私は悪い人間ではない。
原家族からはそう言われてきたが、違っていた。
私には罪はない。

私は失敗もするが、間違いはただ修正すればいい。
失敗は罪ではない。だから罰を受けなくていい。

私は、私を罪人のように扱っていた。悪い人間だから、罰しなくてはならないと。
それはウソだった。


文節区切りの線


私は私を「快」で満たそう。
好きな事を思いっきりやろう。試行錯誤を自分に許そう。
子供の頃に過ごせなかった自由な時間を、思いっきり過ごそう。

私は、変わる。そして私は変われる。


ワークショップに参加してよかった。
沢山の収穫があった。

皆様、本当にありがとうございました。お仲間さんの、自分の問題に挑んでいく姿に、勇気をもらいました。
ご縁に感謝です。





タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) れもんばーむクラス


タイトル下の線


「わたしも歓迎されて生まれてきた」んだっていうことを、わたしはまだ信じることができないでいる。
それを信じるのが、まだ怖いから。そして自分が本当に怖いままで生きてきたんだなっていうことを改めて深く気づかされた。


わたしは社会のシステムから、つまりセーフティーネットからとりこぼされた場所で生きてきた。
それは、幼いながらにもうっすらと気づいていてその怖さといったら半端じゃなかったんだと思う。

引越しを重ねてどんどん人里離れた場所に移り、祖父母から、親戚から遠く離れ、ご近所さんもほぼいないような場所でわたしは大きくなった。
わたしの家が周りのスタンダードとはかけ離れた価値観を持っているなんてことはまるで知るよしもなかった。


文節区切りの線


わたしに欠け落ちてしまった価値観は色々あるが、一番大きなのは「誰でも自分のことは自分でします。」というもの。
我が家では「自分のことは誰かがやってくれる。」がスタンダードだった。

父も母もいつも「誰か」に依存していた。
それはわたしでもあった。
そしてわたしはそういう「誰か」が自分にもいつか現れるのだろうと、半ば自然に信じ込んで大きくなった。


わたしはその父と母にとっての「誰か」の役目を無償でさせられた。
だから報酬、というものがピンとこない。

このことがものすごく大きな弊害になっている。
報酬というのは喜びであり、快がわかるからこそあるもの。
そしてわたしにはそれが欠落してしまっている。

心地よさの欠落。感覚としてわからないというよりも、それを自分のものとして感じる習慣を奪われて育ったのだということ。
人としてのベースが損なわれているのだということ。
そしてこれがわからなければ、今の社会のルールはわたしにとっては全く習ったことのない外国語とおんなじで何の手がかりもなく、理解不能になってしまうのだと思った。


文節区切りの線


社会から孤立させられて「誰か」を求め続ける不毛なサイクルの中に生きさせられてしまったら、行き詰まるのは当然だった。
なぜもっと早くに気づけなかったのか。
それはわたしが「問題を放置する」という習慣も受け継いでいるからなのだった。

問題に突き当たると、思考停止状態になり先に進めなくなる。
言い訳をしたり我慢したり見て見ぬ振りをして無かったことにする。そういう態度。習慣。

それはまさに蟻地獄的な習慣な訳で、わたしがホラー映画の最中にいるような恐ろしさを感じながら生きていたのは、とても自然で、むしろわたしのセンサーは正常に機能していたんだと思う。
そこは本当に恐ろしい場所だと思う。


文節区切りの線


去年「変容ワークショップ」に行って受けた衝撃を上回る衝撃をまた、受けた。
でももっともっと冷静になれていると思った。

人間が成長、変化してゆく階段をボロボロにされてしまっていたということ。
そして、最初から完成形を、一番上を体現することを強く要求されていたのだ、ということ。

それは目指せ、というのではなくって、最初から一番上の段階を文字通りにできなければならなかった。
右も左もわからないのに、何も見ずにリハーサルもなしにいきなり本番で完成形になれと。

毎日がそういう恐怖の中にあってわたしはそういう空気の中で育ったのだということ。
だから今もその一番上のステージを最初からできないとダメなのだと思ってしまうんだ。
その恐怖はいかばかりか、と思う。
ひとりぼっち身寄りなくさまよっていてサーカスに拾われて、拾われたその日から空中ブランコを成功させることを強要されるようなこと。


文節区切りの線


自分で掴まないといけない。他人からもらったものは脆くて頼りない。
自分で掴んだものは決して自分を離れない。だから、頑張る。


わたしの家ではそもそものルールがおかしかった。
真逆だった。
社会の中で幸せに豊かに生きて行けるようなルールではなかった。

おかしなルールだった。
本当に恐ろしい場所だった。怖かった。怖くて仕方なかった。


わたしはあんな怖い場所にもういたくない。戻りたくない。
わたしは嫌だ。
父や母とそっくりな自分でいるのも、もう嫌だ。
もう絶対に嫌だ。そんなのごめんだ。


文節区切りの線


社会のセーフティネットから取り残されて、閉じ込められて、隔離された閉鎖的な環境で生きるしかなかった。
それは子どもだったから仕方なかった。


だけど今はもう違う。
大人になって自由になった。

わたしは決して一人ではない。
社会のネットからとりこぼされてるわけでもない。

たくさんの先人の知恵が守ってくれる。
自分で探さなければならないけれど、望んで動けばサポートが受けられる。

わたしは一人ではどうすることもできないけれど、助けてもらえば何とかできる問題を持っているだけ。


文節区切りの線


今もまだものすごく怖いけれど、今までみたいなおどろおどろしさはなくなってきた。
何だかわからない怖さ。
何だかわからないものに追いかけられてるような、恐怖の正体がつかめないままのあの緊張感が今までずっとずっと続いてた。
怖すぎた。

今は、見た。
すごく怖い形相をしているけれど、何が怖かったのかをちゃんと見た。
そして、あんなの嫌だ! って強く思ったんだ。

わたしは嫌だ! あんなの嫌だ! 
あれはわたしじゃない。わたしの好きなものでもない。
いや。要らない。必要ない。


怖かった。本当に怖かった。本当にすごく怖かったと思う。
しかも当時は子どもだった。
まだ人生が始まったばかりの右も左も分からない子どもだった。

そしてその頃のままのわたしも、まだわたしの中にいる。
わたしはもう一度ゼロから教えてもらいたい。
この世界のルールをもう一度学び直したい。

自分が歓迎されているんだ、ということも感じたい。
心から感じたい。体感したい。


文節区切りの線


優しく温かく世界を分け合うために、見えないルールを守りながら人は生きている。
それは楽しく仲良く暮らしてゆくため。

そしてわたしが生まれてきたのは、楽しく生きるため。生きる喜びを味わうため。
素朴で小さな喜びをみんなと分かち合うため。

奉仕して、自分の持つ力をお金に変えて、そしてわたしに還元して。
そんなシンプルなサイクルが、わたしには抜け落ちてしまってきていた。
そんな基礎をこれから少しずつ重ねて自分をいたわる人生を毎日重ねてゆくんだ。
その中心にはわたしがいるね。

もうこれ以上怖い場所に止まらなくていい。
わたしはもっと幸せになってもいい。怖いところから抜け出していい。
そこは怖いから、優しくないから。


文節区切りの線


「怖いから、動けない」っていうのもまた、引き継がざるを得なかった、役に立たない習慣なんだ。
だって、問題はあってもいい。解決できるものだから。

何かがおかしい。
じゃあどこがどんなふうにおかしい? 

確かめたら、変えたらいい。
それが素直で健康な役にたつ習慣だよね。


困ったことになるとスタックしてしまう。
はまり込んで抜けれなくなって、脳が固まって止まってしまう。
それの真似っこをしないといけないと、今もまだそう思い込んでいる。怖いから。

ただでさえ怖いのにさらに動くと怒られたから。試させてもらえなかったから。
実験のフィールドなしに本番のフィールドを与えられて、そこですぐに立派でなくてはならなかったから。

それでもやっぱり、たとえどんなに長い時間そこに縛られていたとしても、いつからでも、そうでなくなってもいいんだ。
それを続けることなんかないんだ。
わたしは動き出してもいい。自分から動き出してもいいんだよね。


文節区切りの線


今まで通りの自分なんてもう嫌だ。親からコントロールされたままの自分なんてもう嫌だ。

怖かったけど、今も怖いけど、もう嫌だ。
もうこれ以上このままでいるのはもう嫌だ。

変わりたいし、変えたい。
ちゃんと自分で決めて、自分の痛みなら引き受けるけど、他人の痛みなんか引きずって歩くのはもう嫌だ。

縛られたままでいたくない。
自分で決めて、自分で進みたい。


文節区切りの線


間違いを指差して笑われたからって、もうそれがなんだというのだ。
ひどい親だったというだけだ。悔しいけど、それだけだ。

なじられて、脅されて、囲われて、縛られて生きるのはもう嫌だ。
もう絶対に嫌だ。
怖いけど、もう負けない。もう絶対負けない。
大人になったわたしが味方だから、もう負けない。


今も怖くて仕方ない。でも今は一人じゃない。
本当に一人じゃない。

それにしがみついて頑張るというよりも、ふんばりたいです。
ゆっくりでいいから、確実に自分の味方になってゆきたいです。


文節区切りの線


一緒にワークしてくださった皆さん。ありがとうございました。

優月さん、スタッフの皆様
いつも温かく見守ってくださり、ありがとうございます。
まだまだ、これからです!


そしてもしも、これからこの道を歩き始める方がいらっしゃるなら
エールを送りたい。
一人じゃないですよ! って。

わたしもずっと一人だって思ってたけど、本当に一人じゃないですよ! って。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
その体験から、実際に回復(リカバー)した者が主催となりますため、実践的な内容となっております。

あなたの、その状況も気持ちも多分、"体験して" "知っている"。
安心してお越しいただけましたら、嬉しく思っております。

詳しい来歴等は、「私たちの想い | 運営者情報」からもお読みいただけます。