2015.07-09月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.1(前期日程)」びゃくれんクラス

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タイトルはじまり目印

A. Y. さん(30代/東京都よりご参加) びゃくれんクラス





今回のワークショップは、梅雨から始まり、夏のど真ん中を駆け抜け、いまはもうすっかり秋。
季節の移り変わりがあると、より時間が進んでいるのを感じます。
「3ヶ月」というと、短くて何もできないように感じるけど、実際にその時間を精一杯生きると、かなりの距離を走って成長しているることに、ウェブ・ワークショップを通していつも驚かされます。

そしてこの成長を感じれるのは、ウェブ・ワークショップの書き込みのおかげだと思います。
自分の気づきを書き込む。
このことが、とても大切なことだと思いました。
この記録は自分自身にしかできないことで、他の誰もがわたしの気づきの記録を書くことはできません。
共依存によって、他人任せの癖を持つわたしにはとても大切な習慣です。
ウェブ・ワークショップというサポートをもらいながら、自分で自分のことをケアする練習をさせてもらえていると思いました。


『未来日記』を読み返していると、二つの大きな気づきがありました。
一つは、自分がいかにして周りに振り回されているか、それが『未来日記』から見えてきました。
客観的な視点を持てるようになってきたと思います。

今まで、自分の『未来日記』を読み返しても、読み返すわたしも渦中の人といった目線で、
「そうそう、あの時は頭にきたよね。」
「なんであの人って、あぁなんだろうね。」
といったことを思いながら読み返してました。
でも、今回は「うわ〜この人、巻き込まれてるな〜…って、わたしじゃん!」と、はたと気づいたのです。
回復の道を歩いて数年経ったので、今更という感じですが、今回、自分自身が共依存だということを自分で認められた気がしました。

『未来日記』を読んでいると自分が明らかに共依存者の行動をしているんです。
「あ〜、わたし、共依存だわ〜」と、自覚しました。


自分が共依存であるというのは、「今更」の気づきでしたが、その気づきが次のより進んだ視界に立たせてくれたようにも感じます。より、自分の状態がわかったんだと思います。
「こりゃ、まずい! 自分を助けなきゃ! 自分が困っている!」と本気で思いました。
これから自分が何をしたらいいのか、どうゆう時間を過ごしたらいいのか、真剣に考えるようになりました。
今までは、慣れないながら自分が自分の味方になり、時にケンカをしながら二人三脚でなんとか道を歩く状態でしたが、今は味方の役割に加え、ケアやサポートする立場も備わり、少し大人になった自分が自分と二人三脚をしている気がします。


二つ目は、自分の原家族の悲惨さです。
自分の家庭が「こんなにも、酷い状態だった」ことは、全くもって予想していなかったです。
自分の気持ちを頼りに辿っていったらずいぶん深いところまでやってきました。

わたしがこれまで見てきた「わたしの家族」とは、まるで別世界の様子です。
でも、自分の目で見、自分の気持ちで感じていたこの「家族」が本当の姿なんだと確信しつつあります。
なぜなら、どんなに酷い世界で認めたくないとしても、自分の心がしっくりくるからです。「(ピタッ)これだ! これこれ!」と感じたからです。


今回のワークショップを通して「狭く深く」ということを学びました。
自分を見つめること、原家族を見つめること。
いろいろやっているように思えて、実はとてもシンプルで深いのかもしれないと思いました。
そして、深く掘れば掘るほど、自分が自分らしさを取り戻す種がでてくるんだと思いました。だんだん掘るのが楽しくなってきました。

3ヶ月間ご一緒させていただいた皆様、お疲れさまでした!
ありがとうございます。




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Y. H. さん(30代/神奈川県よりご参加) びゃくれんクラス





わたしへ

三ヶ月間ほんとうにおつかれさま。

始まったころはセミの大合唱が聞こえる暑い夏だったはずが、いつの間にかそれも遠ざかり、
秋が日々深まってきました。
寒いですね。昔から寒いのが苦手ですね。
あたたかくして生きていこうね。素敵な冬服買いなね。


この三ヶ月は本当に激動でしたね。後半戦は特に、精神的にも揺れすぎて、しんどかったですね。
10月は自分の全過去・全未来を一気に責めて否定して、
ほとんど鬱状態に近いほどガタガタに落ち込んでしまいましたが、今日は持ち直しているようでよかったです。
○○ちゃんと夫と公園で一緒にランチして、遊んで、すごく楽しかったね。

今日の明け方、すごく冷静な、理知的な声で
「まずは1ヶ月間、過去の自分を丁寧に棚卸してみよう。
外界の時間の流れは放っといていい。焦らなくていいから、まずは自分自身を知る期間にあてよう。
過去の出来事は、もう、責めなくていいよ。
すべて、ここまで生き延びてくるために必要な選択だった。
だから、責めずによく見て、ちゃんと自分を知ってね」

「今、ここ、は奪われていないから、大丈夫だよ。
ただし、このまま見ないふりしてずるずる進むことは、
崖に向かって半歩ずつ足を進めるようなものだと思ってね」

「理想の “家” と、現状を比べて叩きのめしてない? 今の家でも、十分、魅力的だよ。」

って言ってくれたのは、「私」だね。
ありがとう。

「ははぁー」ってすごく素直に感じて受けとめて、まずは早速棚卸ノートを作ってみたよ。
頭は「何いまっさら言ってんだよ!!!! そんなことは10年前にやっとけよ!!!! 時間の無駄なんだよ!!!!」
って大騒ぎしたけど、そっちはいつもよりずっと遠くから聞こえたように思ったよ。
そんなこと言ったって10年前に戻れるわけでもないしね。
「私」の声のほうが、ずっと説得力があったよ。
思い出せる限り、拾っていくね。


考えてみれば、いや感じてみれば、
「家庭」は、今、大丈夫なんだよ。
夫は頼もしくてどっしりした、子供大好きな父親で私も好きな夫だし、
子供はめちゃめちゃ子供らしい子供で、知的好奇心旺盛で自己主張もたくさんできるし。
私が、いっぱいいっぱいになって泣きごと言ってるだけで、
毎晩、心から「○○ちゃんだいじだいじよ!!!」って言ってるし。
もちろん、今後持ち家をどうするかとか、二人目をどうするかとか、課題はあるけど、
それは、「今すぐ」じゃなくていい。

今(ずっと)、私がいちばん優先度上げて取り組まなきゃいけない大問題は、
「今の仕事と私の不一致」なんだよ。
そしてそれも、「会社が悪いわけじゃない」んだよ。
(「私が悪いわけでもない」んだよ。)

就活当時の私の掘り下げ不足、調査不足は、本当に申し訳なかったと思うけど、
それでも、何ひとつ考えもせずに選んだわけじゃなくて。
あのめちゃめちゃな精神状態の中にあっても、完全思考停止でえいって選んだわけじゃなくて、
途中まで、適性とか仕事のエッセンスとかを考えたのは、本当。
事実、会社は悪徳業者でもブラック企業でもないし、毎年、本業できちんと黒字出してる。
どんどん新しい仕事にチャレンジしているし。
コンプライアンスも考えて、規則も何度も改良して、福利厚生や従業員イベントもガッツリ用意して、
「社員が少しでも働きやすく!!!」って、熱心に取り組んでるのも、すごく分かる。
入社当時のものすごくギリギリな、
ほとんど社会からドロップアウト寸前な感じだった私を、
(環境がおかしい場合があった時が何度かあるとはいえ)
むしろよくぞここまで持ち直させてくれた、
私にたくさん期待をかけて、いつも仕事と居場所を作ってくれて、ありがとう、って、
別れの手紙を書きながら感謝したくらい。

でも、もう、「私」が内心やっていきたいらしい仕事とは、「道が違う」と、私は感じる。
グループ全社的に、ワークライフバランスの考え方も私とは全然違う、っていうのも、最近ひしひし感じる。
(それは、子供を得てから、より強く実感するようになった。)
そういうことを「私」は分かっているから、
だから、望む仕事へと舵を切っていくことが、私にとっては最優先なんだよ。

で、その「望む仕事」がぼんやりしていると言い張って、
(心象イメージは、ある。
…煉瓦の戸建て、腰高の絵本棚、出窓、あたたかくやわらかくゆっくりで静かな空気感、「居場所」。……仕事?)
すごく焦って、
でもどう次に進んでいいかわからないから一歩も進まなくて、仕事や行事に逃げこんで…っていうのを繰り返したゆえの落ち込みだったし、
あれもいいかも、これもいいかも、それもいいかも…って、
焦りすぎてあっちこっちからツギハギの「理想の職業」リストを持ってくる私を見かねての、
明け方の言葉だったと思ってるよ。


「敵を知り己を知れば百戦危うからず」…。

言い古されてるよね。
敵(?)を選びにいく以前に、まずは自分を知ることに力を注ごう。

夏に比べたら、ずっと、自分をほめて、認めていけるようになったね。
まだ習い性で、すぐ自己卑下に走ったり、仕事詰め込み過ぎてうわぁぁーってなることも多々あるけど、
まず、

「当事者であるはずの両親が互いに望んでいなかったはずなのに結婚して、しかも父が各種依存症」
「私の出生に、家族の絆(ないも同然)の “かすがい”、
“嫁が(姑がうるさく決めつけてくるほど)不出来でないことの証明用” っていう条件がついている」
「個々人の希望よりも、”世間体” のほうがずっとずっと大事」
「小学生時点で毎晩、母からこの結婚生活がどれほど失敗だったか聞かされて育たざるをえなかった」
っていう、
「私の出生の前提が根本から揺らいでる感じの機能不全家庭」で育っていながら、
自殺自傷自損みたいなものに走ることもなく、
これまでの毎日を一生懸命まじめに生きぬいてきただけで、
もう十分に、「よく生きてきたね?! すごいことだよ」、
「今まで十分すぎるほどやってきたんだよ。
もっともっとペース緩めて、自分をいたわりながら歩いて、大丈夫だよ」って、
自分で自分に声をかけられたこと、
毎晩子供に「○○ちゃんはみんなから愛されてるんだよ」、
「○○ちゃんだいじだいじよ。絶対に、自分をだいじにしてね」って、
「子供だから言葉分かってない」なんて思わずに、”ひとりの人間として相対して”、
声をかけ続けられているのは、すごいことだと思います。

若干ブラックボックスだった部活も掘り下げて、心理的にすごく距離を置けた気がするし、
実家のごちゃごちゃしたモノの山に対しても、ほとんど気持ちを絡めとられなくなった。
「私なんか」って思考のパターンに気付いて、止められるようになった。
なんて成長。
このままもっともっともっと、自分に集中していきたい。

最後に。
私の連日&長文なうえに感情の乱高下半端ない投稿を毎回チェックしてくださった ONSA のみなさま、
12週間一緒に走ってくださったクラスのみなさま、本当にありがとうございました。

発達障害の疑いが晴れたら(or 再訓練が終わったら)、また「コース1/STEP.1」からご一緒させてください。
よろしくお願いします。




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A. M. さん(20代/愛知県よりご参加) びゃくれんクラス





12週間の中で私は浮き沈みの激しい、共依存のループみたいなものを繰り返した気がします。
変われるかもと張り切っているうちはよくて、そのうち上辺だけのやる気ややり方だと根本の問題は変わらないから苦しくなって、向き合うのがしんどくて逃げちゃう。
12週間でこのサイクルを一巡しました。
『未来日記』も手帳も課題投稿も連動していて、やるぞー!! と取り組んでる時はどの部分も書き込み頻度が高くて、苦しくて嫌になってる頃は白紙状態になっていました。
時間は私のこころと繋がってるということなのが記録として残ってました。

自分褒めとかスケジューリングをやったことも、課題等を読み返して思い出しました。
12週目の今はすっかりわすれていたので、習慣にするのは大変なんだと実感しました。

忘れるってことは、私は自分にダメだしすることが当たり前で、自分の時間は誰かのために使って当然なんだって思ってて、そのことが自然で違和感も感じない…空気みたいな反射ってことなんですよね。
それはしんどいに決まってますね。
私は自分に対して本当にどうでもいい扱いをしています。


私は自信がなくて苦しい。
自分に集中してる健康な人は、自分に集中してるから他人にどうこう言わない。
ちゃんとした大人なら相手を尊重できるから。
私はそういうのを冷たく感じてしまう。
相談すればアドバイスや自分の意見をくれるけど強制はしない。その態度が怖くなったり苦手に感じてしまって、私に反応したり強制したり誘導してくれる人を探してしまう。
それってパワーゲームやコントロールする関係で安心できない。私は無意識に何とかしてくれる人をさがしてる、自分の自信を補ってくれる人を探しているのがわかってきました。

私が自分の人生と向き合わないお気に入りの方法は、節約とダイエットとネットサーフィン。恐ろしいくらいそれに時間もお金もエネルギーも費やしています。
それに気づいたとき、何とかして素敵な生活にしたい! と思ってとる行動が??? な事が多いです。
素敵な生活のために、バスタイムに音楽をかけるとか、もっと素敵な洋服を着る、彼氏を作るとか、肝心な時間とか私の資源を奪ってる節約だとかのぐるぐるには手を付けません。見ない振り。
本当はそこに費やしてる時間やエネルギーをやめる事が、一番なのに。

課題をこつこつやる。
しがみつく。

これが基本なのに私にはとても難しいです。




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S. H. さん(30代/新潟県よりご参加) びゃくれんクラス





今回の ONSA Web. WORKSHOP「コース2/STEP.1(前期日程)」は2回目の受講でした。
この期間、帰国したり、就職したりなど外側の環境が次々と大きく変わりました。
その紆余曲折に伴って私の気分もアップダウンが激しかったのですが、ワークショップのまともな精神世界と繋がっていたお陰で、なんとか乗り切ることができました。
今、毎日仕事が楽しいと感じられていることが私はとても嬉しいです。
それだけで私の1日のうち10時間が充実したものになったのですから、すごい収穫です。
色々なタイミングや幸運が重なったのですが、そもそも私が「経営者に連絡する」という能動的な一歩を踏み出したからこそ得ることができた結果なので、私を褒めました。

恋愛についてはドラマチックなところが恥ずかしすぎて自分の投稿を直視できません。
そういえば、今まで過去の振り返りってあんまりやってきませんでした。
痛すぎて嫌なのかも。

今ここで一旦立ち止まって自分の現在地を確認したいので、
今日はこの3ヶ月のことだけではなく、今までの回復の道のりを俯瞰したいと思います。

私は2013年6月に、自分が感じている心の苦しさ・人生の生きづらさに「共依存」という名がついていることを初めて知りました。
この暗闇に突破口があると分かり、とても嬉しかったです。
拠るべき人生の指針が見つかった気がして、喜び勇んでワークショップに取り組んできました。
Web. WORKSHOP「コース0/STEP.1」から「コース3/STEP.1(前期日程)」までと「感情ワークショップ」「境界線(バウンダリー)ワークショップ」「変容(トランスフォーメーション)ワークショップ」「身体のワークショップ」「インナーチャイルド・ワークショップ(後期日程)」「時間のためのちいさなワークショップ」の6つの対面式ワークショップを受講しました。

その過程で自分はパーソナリティー障がいではないかという疑いが出てきました。
大きな病院の精神科を訪ねて検査をしたところ、結果は異常なし(正常範囲)でした。
それでちょっと安心していたのですが、優月さんに「セカンドオピニオンは取ったの?」「グレーは白ではない」と言われ、ハッとしました。
確かに、私が日常生活で何か困っているとは医師に伝えていないし、対人の時のいつもの癖で、医師の前でさえも問題のない人の振りをしてしまったかもしれません。
それって無意識に嘘をついているってことだなあと。
私の内側の世界は私にしか分からないだろうし、私自身が色々思い当たる節があると感じているのだから、診断がどうであれ、やはり真剣に癒す必要があるんだと思います。

自分の感覚では、20代半ばまでは共依存が色濃く出ていたと思うのですが、20代後半結婚した辺りからパーソナリティ障害的な要素が強く出てきたように思います。
今まで人の下敷きになって散々我慢して耐え抜いてきたのが、限界が切れて、急速に攻撃的人格が台頭してきた感じです。
もし別れてなかったら、私はきっとモラハラで前夫の人生を破壊し、自分も破滅していたと思います。


2015年10月に私は「自分がない」という現実の自分の姿をはっきり自覚しました。
それが私を共依存に引きずり込んだ大穴なのだと、やっと自分のこととして納得しました。
自分がどれだけどっぷり病気で危機的な状態なのか、ようやく分かりました。
非常にショックでした。

共依存という病の全体像を掴むため、知識を得ることにこの2年4ヶ月を費やしてきました。
でも私はまだ応用を吸収できる段階ではなかったのです。
これからは具体的に必要な基礎のライフスキルを1つずつ再訓練していく段階に移るつもりです。

その際に注意すべきは、脆弱なプライドを捨てること。
現実の生活で実践すること。
私は理想主義的で、自己流のやり方を変えることができませんでした。
人の話は理解しているけれど、それを自分の実生活に素直に取り入れようとはしていませんでした。
飽きっぽくて脈絡がなく、自分の興味のあるところだけ、つまみ食いをする。
見た目だけクリアしたように取り繕うけれど、本質的には何も変わっていない。

例えば手帳術でいうと、因数分解は面倒臭いのでやらない。
ワクワクリストもすっ飛ばして、ライフサークルに直接書き込む。
うまくいかないやり方を何度も繰り返しているってことに全く気づけませんでした。

こうして私自身が自分を不毛な無限ループに閉じ込めていたのです。
だから、次の3ヶ月は愚直に思えたとしても本に書いてある方法をひたすら忠実にやってみようと思います。


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私へ

もう症状が多すぎて嫌になっちゃうね。
でも自分がどんな問題を抱えているのか認知できて良かったね。
健康な世界では、私が何かをできるようにならなくても愛されるべきなんだって。
びっくりだね。そんなこと到底思えなかったね。

交際するってことは他人に時間を明け渡すってことなんだって。
(* 「『交際する』ということは、自分の時間の一部を、他人と分かち合うこと」というご説明でした/編集注)
結婚・出産するとさらに自分の時間がなくなるんだって。
これ以上人にあげてる場合?
優先順位が重要だよ。
しっかり目を覚まして、現実世界を歩いていこうね。

私が誰よりも現実の私を愛してあげたいと思ってるんだ。
本当だよ。
いつも辛く当たってごめんね。
まだ愛し方が分からないけど、練習するからさ、待っててね。

自分の力だけでなんとかしようとしないでね。
助けを求めていいんだからね。
甘えたい気持ちも持っていいよ。
今まで私を生かしてくれて本当にありがとう。
お疲れ様。

私の中にありのままの私の居場所をしっかり作りたい。
私が安心して生きていけるようにしたい。
これからは私が守るからね。
共にあろうね。