2015.07-09月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.2(後期日程)」ひめはすクラス

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Y. T. さん(30代/島根県よりご参加) ひめはすクラス





この「コース2/STEP.2(後期日程)」は2回目でした。
コースが始まってしばらくは、「早く『コース3』に行かないと!」と焦りがありましたが、この「コース2/STEP.2(後期日程)」の時間は、私にとって必要な時間だったと思います。
腑に落ちることがたくさんありました。
ここまで歩いてきた自分を褒めたいと思います。

今更なのですが、外側を変えれば解決するのではなく、内側が問題なのだということを心の底から理解しました。

これまで「問題は内側にある」と言われてもピンと来ないこともありましたが、今回はっきりと分かりました。
世界が変わったように思います。

そして、内側にいる自分というものがだんだん感じられるようになってきました。
本当の意味で自分を大切にすることが分かってきました。
これは本当に大きな収穫です。


共依存の手強さと根深さについても改めて実感しました。
習慣とは恐ろしいものだとも再認識しました。

私の日常にこれでもかと張り付いています。
だからこそ、どんな小さなことでも意識することや回復の場につながり続けることなど、コツコツやる方法しかないなと思いました。

コツコツってすごいですね。
日常にどっしりと太い安心感があります。


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私の中で、過去に学んだ処世術が今の行動や考え方に影響されていると思えず、どれもバラバラに存在しているように感じていましたが、どれもつながっている(それも、とても強力に)こともよく分かりました。
仕組みを理解することはとても重要ですね。
現実を見るのは怖いことでしたが、現実から目をそらしたままの方が怖いと今は思います。
「現実的」という言葉、私も好きになってきました。


同時期に ONSA WORKSHOP(対面式)もあって、いっぱいいっぱいになったりもしましたが、参加して良かったです。
これからも回復へ歩き続ける必要があることは変わりませんが、新たなスタート地点に立ったと感じます。


今回のクラスは2人だったということもあって、リラックスして参加できました。
Hさんありがとうございました。

優月さん、ONSAスタッフの皆さま、今回もお世話になりました。
ありがとうございました。



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H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) ひめはすクラス





7月4日に「感情ワークショップ」に参加してから。
7月19日に、ONSA Web WORKSHOP「コース2/STEP.2(前期日程)」が終了。
それで、7月21日に、「コース2/STEP.2(後期日程)」ひめはすクラスが開始。

「コース2/STEP.2(前期日程)」から、私はあまりにも「ぐちゃぐちゃ」「できていない」感があったので、「コース1/STEP.1」に戻ろうか、「後期日程」に進もうか、迷っていたのだけれど、続けて「後期日程」に進んで良かったな、と今は感じています。

新しい知識は、私が困っていること、行き詰まって、息詰まっていること、それがいったい何なのか、どういうことなのか、一気に霧のはれるような感じではないけれど、新しい見方のできる視点を与えてくれたと感じます。
だから、続けて後期日程に進んで良かった、と私はいま感じています。

Yさん、今回は、同じスペースを分け合っていただいて、本当にありがとうございました。


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それから、正直な気持ち、読み返すのも、しんどい内容。
ふう。
重い。

コース中に、私は、36歳の誕生日を迎えたのですが、それはもう酷い状態で、36歳の誕生日を迎えました。
きっと、未来に、私は、「あの36歳の夏があったから、だから今の私がいる」といえるくらい、大事なところを通過していた(いる…現在進行形)と思います。
いつでも、この一瞬、一瞬が、そうなのだけど、それでも今年の夏はきっと印象深い時間です。

お盆のじかんをつかって、私は「魔女の宅急便」を図書館で大人借り?してきて、読んでいました。
ひとりで、暗いところを通る、自分をみつける、朝がくる。
小さい私は、このお話に、今年の夏、たくさん励まされたなぁと思います。


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毎週の各課題は、とても未消化です。
振り返るのも「しんどい」ほどなんだから、もちろん、それでいい。
(消化って、取り入れた知識をよく理解して、自分のものとして扱えるようになること、「できる」ようになるってことだ。)

まず、感じることが大事、なのよね。
だから、それを書こうと思います。


「問題が解決されないベースの生き方(解決する…をしない生き方)」なんて、私、嫌だ。
何ひとつ実りがない、不毛すぎる、気持ち悪い…。
生きてるのに、この命、時間、そんな風に浪費していいわけ? いいわけがない…。
いいとか悪いとか言うと辛くなるからやめたいけど、はっきりと、おかしい、それはダメだ、それはダメ、NO だ、と私は感じます。

そして、これが、やめられないことが「依存症」なのか…。
そんなに簡単にはやめられない、でも、100か0か、これは断固、やめて、そして「新しいやり方」を置いていくんだって思いました。

改めて思ったというより、新たに思った、という感じです。
「断固」という言葉の意味合いが、どれほどの重さを伴うものなのか、私の中に、ひと重ね、実感をもてたように感じています。


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「人に侵入して、奪い取って、利用していく、生き方」、これも、私は本当に本当に本当に辛い。
苦しいし、悲しいし、頭痛もするし、胸も痛い。
外側から見てどうとか、社会的に見てどうかとか、そういうこと以前に、私が嫌だ。
心底、嫌だ。
あり得ない。

はっきりそれは暴力なのに、「やってる」私。
それは、どういうことかというと、そういう環境で育ってきました、無意識に(95%の中で)覚えてしまっています、ということだ。

同時に、さまざま「パーソナリティ障害」関連の本を読んでいて、この言葉がとてもしっくりきたのだけど、「生身の人間との関係に餓えている」私。

大変だ…と感じています。
重大な事態、そういう「…大変だ…」という感じ。
「私は依存症だ」と理解した時とは、ぜんぜん違う、あのときは、うまく言えないけれど外側から降りてきて腑に落ちるような感覚の話だった、今はもっと内側のこと、中心に迫るような、もしくは中心から感じるような怖さ、深刻さがあります…。

感じるだけではない、やるべきことが分かれば、すぐに動ける私。
賢い。
そういう私のこと、私は信頼しています。


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モノゴトには、文脈がある。
一見、理解できない、人知を超えたように思えることも、分からなくても、意味があるのかもしれないです。
だから、私にも同じ。

「今はこういう状況、かならず何か意味があって、こういう状況、だから今はこれでOK」
いつでも、ここから始めなければ、上に何を積み上げても、「私はダメ」ベースで、何にも積み上がらない。
これは、私が分かっていなかったことです。
自分がそのことを分かっていなかったことも含めて、ようやく、分かったような気がしています。


本当に簡単に揺らいでいた、私は OK という感じ。
(つまり、「私は OK」って基本が、できていない、身についていない、ということ。)

本当に簡単に、容易に、「私の味方をする」っていうことが、「よく分からなくなっていた」私。

原家族のなかに、「言うとおりにしろ/しなさい、異論反論 NO は許さない」っていう、「考えるな、質問するな」っていう硬直した暗黙のルールがあったからなのか、というのは、これはひとつ発見です。
NO を言うって、居場所を失う、存在を許されなくなる、叩きのめされる、私にとっても、生命に関わる本当に怖いことでした。

どう見てももう要らない、今の私のために全くならない「信念」が、私の境界線の中で、私の心の存続を危うくする凶器になっています…。
これが、怖いことなのだって、ああ、いまこうして書いていても動悸がします。
本当に、怖いことなんだ。

本当に、怖い、不気味で、異常な、暴力のエネルギーを秘めた環境の中で私は育ってきたんだ。
見えないし、外側からみると普通の家族風でも、私の状況をみれば、両親とも、そういう系譜の末の人たちなのだろうということが、推測できます。


私はそういう人たちが2人で作った密室の中で育った。
命に関わる、人間の尊厳に関わる、偏っていて不健全な習慣を身につけている。

本当に怖いけど、こんなに怖いところを見ないフリしていたら、もっともっと怖い…。

「暴力」という視点で、今まで、自分の状況を私は理解できていなかったように思います。
これも自己理解だわ。

だから、一歩。
本当に勇気のある一歩だ。
私を守る、そういう一歩です。

誇りに、思うよね。

胸に手をあてて、本当に、そう思います。


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優月さんの「船本」(『大切なことは船が教えてくれる』)で読んだ、名前を忘れてしまったのだけど、大きな船を岸につけるのを助けてくれる小さな馬力のあるボート、あれは熟練の技をもった人が運転しているんだよってことを、最近別のテキストで読んで「へええ!」と思いました。
それで、私の手に負えないように感じる問題も、熟練した人に手伝ってもらって、うまく人のいる岸に、あたたかい方に寄せていけるといいなと、今ふと思ったのです。

それで、私のやることは、徹底して、徹底ってことは、断固、100%なんだ、自分の味方になることを、何の条件もなく、自分を肯定することを、身につけること。
できるまで、やること。
そういう生き方が、習慣になるまで、やること。

人に時間をつかわない。
それから、私は、ただ、ここにいるだけで OK。

何かするから、OK じゃない。
何かできるから、OK じゃない。

お母さんを助けたり、認めてあげたり、感情のお世話をしてあげたり、パパの言うとおりにしたら、そうしたら OK、ではない。
そうではない。
そうではなくて、「私は、ただ、ここにいるだけで OK」。


外側は気にしなくていい。
気にするからおかしくなる。
気にするから、パワーゲームになる、巻き込むし、巻き込まれる。
見えなくても、視線って意図って何となく伝わる、共有される、結局そうなってしまうって感じている。
だから、「人に時間をつかわない」。
使わないと、自動的に、私に、今に、集中することになる。

それで、そこで、徹底して、私を責めない。
いつでも、いつでいつでも、いつでも、OK する。
いつでも、いつでも、です。
「徹底して、いつでも」、です。

今はこういう状況。
私には分からないけれど、かならず何か意味があって、今はこういう状況。
だから今はこれで OK。
これでいい。

ここから、変えてゆけばいい。


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私が、私の心を守るって、こういうことなんだ。

私以外の、誰も、他に守れるひとはいない。
だって、私の心のことだもの。
誰もさわれない、誰も入れない、大事な大事な私のこころなんだ。

自分で自分に毒を盛ることない。
人にされてあんなに辛くて痛くて嫌だったことを、自分でもうやらなくていい。

何でそんなことしてたのかしら…って早速いま思ったけれど、それも、きっと何か理由があるんだよ。
だから、責めないで、そういう私にも何か理由があった、だから今はこれで OK、それで有言実行、今、この瞬間から、変えていけばいい。


日々、学んでいるなぁ。
素晴らしい、よく生きてる、できることを、精一杯している、私。

明日も、明後日も、一歩、一歩。
何にも変わらない、けど違う、こんな小さな変化を、毎日を、少しずつ、深く味わっていけるようになりたいな。
書いて、心にとめておこう。

いつも、いつでも、私が、この瞬間のすばらしさに、気がつけるようになりますように。