2016.02-05月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(1)コース1/STEP.1」なずなクラス

画像
タイトルはじまり目印

M. K. さん(30代/東京都よりご参加) なずなクラス





わたしへ

3ヶ月、お疲れさま。いろいろあった3ヶ月だったね。
振り返ってみて気づいたよ。

どんなに正しい方法を習慣にしようとしてもできないのは、
私の中の根っこにある、無意識の考えが影響しているからだと。

怠けてやってない訳じゃないし、なんだかいまいちな感じ、
できてなくはないんだけど、なんかしっくりこなくて、
いつも同じことしてるような感じが続いてて、
これは方法が合ってないのか? とずっと思っていたけど。
これまでの3ヶ月を振り返ってわかった。
ようやく本で読んだことが腑に落ちたよ。

こんなに近くに答えがあったなんて、なーんだ拍子抜けっていうのと、
知ってることでよかったね! と思う。


自分がすでにもっているものはたくさんあるんだって
最近部屋の片づけをしてて思ったから、回復のこともそれと同じで、
自分がもってるものを点検して気づこうって思えているね。
それって前にはあまりなかったことだから、いい変化だよね。


文節区切りの線

わたしはこの3ヶ月の間に、自分が感じていることを何より大切にしていいと気づけたから、これからもそうしていきたいと思う。
それに、無理せず自分に優しくする選択もできるようになってきた。
これも続けていきたい。

ワークショップをやってきたなかで、今までいちばん自分の状況に合わせて取り組んでいたと思う。
無理な時は課題を投稿しなかった。
課題を振り返ってみると、その取り組み方でじゅうぶんだった。


文節区切りの線

私は親や周りの大人に精神的に支えてもらえずに育ったけど、そのことは私のせいではないし、子供の頃に起こったことに責任を負ったり、私がちゃんとできないから悪い訳でも、至らないのがいけなかったのでもなかったと本当に思えるようになってきた。
あらためて自分の歴史を読み直して、今朝ふとそう思った。

カウンセリングの先生に私は悪くないと言われた時、最初は衝撃だったんだけどその後とても気持ちが軽くなって、その軽くなった感じがまた今朝同じようにやってきたように感じたね。

自然とそう思える日が来るとは。
不思議と楽になっていく時が来るとは思わなかった。

そういう日はもっとずっとずっと先だと思っていたけれど。そうでもなかった。
まだ戸惑うけど、十分受け取っていいことなんだよ。


文節区切りの線

「出さない手紙」に書いた部長との一件で、私は前に進む勇気とエネルギーがほしいって強く思った。
でもそんなのありそうにないって思ってたのが、1週間前。

今はそれを得るための選択をしようって思えてて、きっと大丈夫って思える。
これがたくさん積み重なったら、きっと行動できる日がくるって思える。
すごいね。


文節区切りの線

気づけば、この3ヶ月の間に、今起こっていることは自分の人生をよくする機会と思えるようになり、自分をよくするんじゃなく、応援する気持ちに変わってきて、自分を幸せにする選択、どう生きたいかを考えるようになってきた。
ワークももうやりたくない時期があったのが、取り組めていることが幸せなことではないかと思うようになってきた。

たくさんよい方向に変われた3ヶ月だった。
ありがとう、私。今まで本当にあきらめずによく歩いたね。

私は私でじゅうぶん自分の人生を歩く力があると気づくことができたよ。
清々しい、優しい風が吹いてくる感じと似て、今はとても穏やかな気持ちです。




タイトルはじまり目印

H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) なずなクラス





おつかれさまでした。

全身のずっしりする疲労感をもって、このひとことに尽きる。
よくがんばった。
ヨシ。

3ヶ月また歩いた。
そういう感じ。


文節区切りの線

生きていくのに、必要があることだから、勉強する。
がんばる(努力する)。
行動する。

「よし、やるぞ」という時もあるし、「もう限界…しんどい…」と思っている時もある。
(今は「もう限界…しんどい…」の方なのよね。だから、おつかれさま。)

「必要」の中身は、私が「私のために必要」と思ってやることと、私が「全体の一部として生きるために必要」と思ってやることと、ふたつあるみたい。

私が「私のために必要」と思ってやることは、「私は、私を守る(大事にする)」をとにかくできるようになろう、ということ。
どんな時も、これを全てのベースに置いていられるようになる。
これが目標だったし、これからも目標です。


文節区切りの線

今回なずなクラスでは、もう一度、私が「私の意志」を持つ勇気を持てたことが、いちばんの「できた」ことです。
土壌ごと根こそぎ「あなたのそれはNO」と言われ叩き潰され続けてきた気がするのだけど、それでも、どうしてもそれでは困るの、私には必要なの、と私は思った。

私には、やっぱりどうしても必要だったので、優月さんが「それは持ってもいいもの」って教えてくれて本当によかった。
未だにやたら怖いのだけど、それでもよかった。

それで、私が「私のために必要」と思ってやることは、「全体の一部として生きるために必要」なことにつながることだから、そんなに無理してがんばらなくてもいいよ、と自分に言いきれる強さもほしい。

外側から信頼されなくても、私が私を信頼していればいい。
外側から分かってもらえなくても、私が私を分かっていたらいい。

それって、たいへんで孤独だけど、昔と同じところに戻るんだな…という気がします。
小さいころは、ずっとそうやって、踏ん張ってきた。
それに状況としては、小さいころよりは、ずっとマシ。

おなかがサワサワするのは「まずい」のサインと、2013年の『夢かな手帳』に書いてあった。
サワサワしている。

この先は、マシ、ではなく、ヨシ、としていこうね。
していくからね。


文節区切りの線

細い細い一本道を、片足、片足、裸足で踏みしめ、なんとかバランスをとって歩いているような3ヶ月でした。
もっとよろこんだり、へこんだり、していいのかもしれない。
ダメループを選ばない、と決めて、そうしたら、もう少しおおらかに、へこんだりしてもいいのかも。


何を選んでも、私が決めたことなら、それはいつでも私にとっては「私の道」。

私は、私を信じ抜こう。
これが、私に「ピン」とくる言葉でした。
私がほしかったのは、私を信じ抜く強さだったのか、って見つけられた。

私をキラキラ輝かせるのは、私のちから。
洗練されたものは美しいけれど、原石の美しさもある。


どう生きてもいいんだろうな。
社会の要求もあるけれど、しかも私には重いものなのだけれど、負けず私を守り、しなやかに私の道を選び続けていこう。

それって、なにも大きなことではなくて。
ほんの数分、仕事の合間に、ほーっとキャラメルコーヒーを飲むことだったり、「灯台の時間」は死守したり、これは私の大事なもの、と大事にすることだったり、そういうことの積み重ねだったりした。


とにかく私は今は絶賛戦闘中。
これが、せめて奮闘中になって、いづれ運行中になればいいと思います。


文節区切りの線

世の中って、なんて、なんて、生きにくいんだろう、そんな弱音と一緒に、歩くからね。

がんばりやで、努力家のわたし。
こんなにみんながんばらないと、世界は回らないのだろうか。
私は、そうは思わないのだけれど、世界を回す歯車のひとつとして機能したくて、やっぱりがんばってしまう。

もっとよくあれ、もっと、もっと、そうじゃないと生きてる資格がない?
十分に、今も、よくてOK、十分にがんばっています。
誰もそう言わないけども。
だからこそ自分で深く確認する作業が要るんだよね。


なずなクラスのお二人には、本当にご一緒してくださって、ありがとうございました。
ひとりじゃなくて、私はとても嬉しかったです。

またお会いできるかな。
そのときは、またよろしくお願いします。




タイトルはじまり目印

M. O. さん(20代/広島県よりご参加) なずなクラス





私へ

やっと終わったー。
やろうって前向きに思ってたはずなのにいつの間にか逃げてワークをしなくなったり、よろよろしながら三ヶ月間歩みました。

三歩進んで二歩下がるの言葉通り、とっても前向きな気持ちで、頑張ろうって素直に思えるときもあれば、逆にもう生きていたくないと後向きになることもありました。
その中で気付いたり、泣いたり、嫌だなって思ったり、そうやって自分の感情に気付くことが嬉しかった。
いいこじゃなくて、からっぽな私だけど、それでも私生きてるんだ。


文節区切りの線

今回は自己紹介ができるようになるためのワークだった気がします。
最初の自己紹介で自分の歴史を書こうとすると、自分の感情が先に溢れて自己否定と逃避でいっぱいになって書けませんでした。

でも、三ヶ月間自分の思いをなるべくそのまま出したら、事実が客観的に見れて、ちょっとずつ歴史が書けるようになったのに驚きました。
自分の思いをそのまま受け入れるって大事、そういう場があるって嬉しい、否定しないってすごいこと。


私は大人の体面、都合と躾の中で幼い頃から、いいこでいなくちゃいけないって思ってた。
聞き分け良く大人しく、愛想良く挨拶も敬語もできるいいこでいようって頑張った。私のままでいいよって受け入れられた記憶があんまりない。私自身でさえ自分はダメだって受け入れてなかった。

自己受容が全然できてなかった。
いいこでない言動はことごとく否定した。初めて親に反論したのは高校卒業する頃で、覚えてる中で初めてお母さんきらいって口にしたのは20代後半。
成長段階がおかしい気がする。

自分を蔑ろにしてた。自己否定と自責と自己嫌悪ばかりでぐるぐるして息苦しくて生きづらかった。
現実逃避ばかりで今もできることが少なくて一人で立てない自分が嫌になる。

でも今まで生きづらかったよね、よく生きてきたなって自然に思った。
そう思ったことにびっくりした。
人から自分が否定されてるって思うのも、自己否定も、自分は価値がない人間だと自信もなくて、だから否定されるのもしょうがない、当たり前って思うのも全部しんどい。


文節区切りの線

自分が思ったことを言うことや、楽に楽しく過ごすこと、自分にお金を遣うこと。
知らず知らずの内に自分を大切にすることに罪悪感を持ってた。
だって、お母さんは忙しくてイライラしててしんどそうなのに、私、お母さんに何にもできない、私ができることをしても喜んでくれない、むしろ私がいない方がよかったよねってお母さんやお母さん以外の人にも負い目や引け目を勝手に感じてた。

今は、全部自分のせいだって思っていない。
これだけで大分楽になった。


文節区切りの線

間違えてるし、失敗したし、恥ずかしい思いもしたし、誰かを傷つけたし、境界線が分からなくて誰かに迷惑かけたり、いつの間にか無気力で生きてるのか死んでるのかよくわからない人生の中を過ごしてました。
もっと早くここに出会いたかった。

今までの人生何だったの? と思うし、世間から見たら経歴や外側だけ良いけど中身伴ってないじゃん。とか色々言われそうな私だけど、でも私はこれ以上私を否定したくないし責めたくない。

今はまだまだだけど、いつか頑張ったね、よく生きてきたね、もういいよ、自分のために生きてねって思えるときが来たら嬉しい。

そのためにも、足元のことからやろう。
三食ご飯食べて、夜は寝て、失敗して大丈夫だからできるようになる練習して、そして自分の気持ちに耳を傾ける時間を取ってね。自分を大切にすることに罪悪感を持たなくていいんだよ。
むしろ私が私を一番大切にして、そうできるのは私だけだと思うから。私の人生これ以上誰かにあげたくない。


優月さん、ありがとうございます。
いつも言葉で寄り添って、一人じゃないって示して下さることに安心感を感じてました。
また、ただ寄り添って下さることで、私の中で下手くそでも自分で考えて進んでいるという自負が芽生えているのを感じます。
まだまだお世話になりますがよろしくお願いします。