2018.09月開催 「インナーチャイルド・ワークショップ(後期日程)」すのーくらうんクラス

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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) すのーくらうんクラス



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わたしへ

まずは、今回もお疲れさまでした。

台風が来ると聞いても「ワークショップに参加する」しか、頭になかったわたしよ、ありがとう。
「とにかく、ワークショップ中いらない心配をしたくない」
と、自分の希望を優先して、安全も考えて行動したこと、本当にありがとう。

自由に動ける今年だったからこそ叶ったことだったと思います。
そのチャンスを見逃さずに動いたこと、すごいと思う。
おかげで、しっかり集中できました。ありがとね。


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今回の「インナーチャイルド・ワークショップ(後期日程)」は初めての参加でした。
今思えば、この学童前期、学童期のインナーチャイルドが乳児期や歩行期ほどに自分に影響しているとは思っていなかった気がします。

その頃の記憶があまりないので軽く見積もっていたところもあると思います。
また、乳児期や歩行期の傷ついたインナーチャイルドを癒すことに力を入れていて、学童前期、学童期まで気が回っていなかった気がします。


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今年の自分の中でのテーマのひとつが「インナーチャイルドを癒す」でした。
今までいろいろとワークショップに参加して、自分の中にあるものを受け入れられるようになってきていたので、いいタイミングだとも思いました。


プレワークも含め、ワークをしていくうちに、とにかく自分はずっと傷ついていたんだなと思いました。
軽く見積もっていて、本当に自分に申し訳ないと思いました。

全体的に記憶が薄いのは、傷ついていないからではなく、傷ついていたからかもしれません。


今回、私の中で衝撃的だったのは、「男の子は女の子に暴力を振るわない」でした。
自分の中でもそれは当然のことだと思っていたはずでした。

私は両親に暴力を振るわれることはほとんどありませんでした。
だから、「暴力は振るわれていない」と思っていました。
でも、私は兄に暴力を振るわれていました。精神的にも、肉体的にも。

そして、私の記憶の限りではそれについて両親は兄をとがめることはありませんでした。
母は「ケンカ両成敗」だと言いました。だから、「そんなものだ」と思っていました。


「兄に暴力を振るわれてもしかたない。暴力を振るわれるのが当たり前。」と思っていた気がします。

そのことに気付いたとき、自分の中の奥底にある当たり前にびっくりしました。
うまくいえないけど、「常識的にはわかってるけれど、自分に起きてる事とは結びついてない」というか。

自分は暴力を振るわれていたのに、振るわれていないと思っていたことや、
「例外的に暴力を受け入れる」
「暴力を振るわれることはある」
と無意識に思っていたことにぞっとしました。

その無意識な思いこみと、自分に今まで起きたこととが「カチッ」と合った気がしました。

「なるほど…。そこを普通と思ったからおかしかったんや…。」
腑に落ちたのと、悲しさと、なんともいえない気持ちがしました。

最近、自分と健康な世界との距離をより実感し始めて苦しくなります。


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今回は
「健康的な世界の子どもの当たり前」
や、
「生まれながらにして、子どもが持つ資質」
を現実の世界で生活しながら自分をしつけし直していくということも学びました。

藤沢さんの話を
「本来の子どもって、そういうものなんだ~。」
と笑いながら聞いていました。
あたたかくて、裏のない、安心でまっすぐな世界でした。

そういう世界とは自分は関係ない、選ばれた家庭の子どもの世界だと思っていたように思います。
本当にそういうものと自分を切り離して考えていたのだと、いまさらですが気づきました。


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ワークの中で、私は小学校の先生に傷つけられたことを話していました。

意外でした。
心には引っかかっていましたが、それほど気にしているとは自分でも思っていませんでした。でも、どうしても気になってそのことを話しました。

その時、どんなに自分が不安で悲しかったのかがわかりました。
信頼できる大人が周りにいなかったのだということにも気が付きました。


母には
「だいじょうぶだよ。」
「そんなこと気にしなくていいからね。」
と言ってほしかった。励ましてほしかった。
自分を受け入れてほしかった。と、出てきました。

このように自分の希望がわかったり、実際に口に出せるようになったことは自分にとってはとても大きなことだと思いました。


そんな自分に会えてうれしかったです。
これからまた、インナーチャイルドを癒しながら、しつけをしながら安心して生きる日を目指したいと思います。


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クラスでご一緒したみなさん。お疲れさまでした。
安心して、心を開いて1日を過ごすことができました。ありがとうございました。


藤沢さん、ワークショップを開催していただいて、ありがとうございました。
いつもその真剣な熱量と、安心できる空間に感謝しています。

おかげさまで、今回も心全開でワークできました。
また、今回は勝手に「愛」を感じたワークショップでもありました(おそらくいつもあるのだと思いますが…)。

そこに、やっと気づけるようになったのかもしれません。
そういう自分を見つけることができてうれしかったです。

そして、スタッフのみなさん、いつも陰で支えてくださり感謝しています。

ありがとうございました。




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M. T. さん(30代/神奈川県よりご参加) すのーくらうんクラス



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皆さま本当にお疲れさまでした。
私は夏開催された「インナーチャイルド・ワークショップ(前期日程)」に引き続いての参加です。

今回は丁度予定的に仕事の勤務時間を変更した(増やした)直後にあたり、それに伴い様々なことに変化があり、多忙と疲労で中々ワークの時間が取れずバタバタした中での参加になってしまいましたが、
それでもおかげさまで、また一つ深く、気付きを得ることができました。


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私は小5の時に家族会議のようなもので、両親に私の人格というか、性格、アイデンティティを(強く)否定されたということがありました。
(今のままではダメ。もっと明るく、元気な、しっかりした性格になれないの? ならないとダメ(ありのまま、そのままのあなたでは駄目だよ)と。)

それと同時に、家では常に圧力を感じる中、家族や(自分以外の)周りの人々の事を背負わされていました(※今考えると、あんなに重い圧力の中、どうやったら「元気に明るく!」なんて振る舞えたでしょう。自由に意見なんかしたら、とてもじゃないけど生きていくことなんてできなかったあの家で…。)

ワークショップを経て気付けたのが、今思うとこれは結構な酷い虐待だったんじゃないか、ということでした。
 

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私は丁度その同じ頃に学校でいじめを受けていて、いじめてきた子に性格や容姿をからかわれ、否定されていました。

そんな事もあり、その後も私はかなり長い間(それこそ以前に「身体のワークショップ」を受けるまで、ずっと)自分はダメなものとして、自分の性格や容姿にとても強いコンプレックスを持っていたのですが、性格や容姿でいじめられた時に、とても過剰に、敏感に、とても強いダメージを受けていたのはそもそもちゃんと、アイデンティティが育てて(育てられて)いなかったから、確立できていなかったし、認められて(も)いなかったからなんだなと、仕組みとして理解することができました。

過去にそのことがあった、起こったということはもちろん知っているし、事実として経験したことであるということも、もちろん分かっていたのですが、改めて、そのことはどういうことであったのか知ることができました。


「なんでこんなこと!」と、両親にぶつけたい、ぶちまけて怒りたい気持ちはありますが、両親なんかに構っている暇はありません。
私はわたしをしあわせにしたいし、しあわせにしなきゃならないので!


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そしてワークショップ・クラス直後に、仕事で急に人間関係問題が勃発。
(本当に不思議とワークショップ・クラス後に問題が起こりますね(笑)!)

そこまで深刻なダメージを伴うようなものがないものが殆どだったものの、巻き込まれそうになった時、他人にエネルギーを使わない! 適切な距離を置く。自分重心。と意識しながら問題に対処しました。
そしてこれからも意識していこうと思う今日この頃です。


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ワークショップ・クラス当日はあいにくの台風により、残念ながらすべてのお仲間の皆さまにはお会いできませんでしたが、当日お越しになれなかった皆さまの分まで気合いを入れて参加させて頂いたつもりですし、また勝手ながら、すべての皆さま「全員」で参加していたつもりです!

それでは、優月さん、ONSA スタッフの皆さま、クラスのお仲間のすべての皆さま、本当に、ありがとうございました。
お疲れさまでした。




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N. T. さん(30代/東京都よりご参加) すのーくらうんクラス



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「インナーチャイルド・ワークショップ」は2回目の参加。

ワークをして、私は条件つきではなく、親の為でもなく、本当の意味で愛されたかったことを改めて実感。
そして同時に、愛されていないとずっと感じていたんだなとと思う。

なんてさびしくて、悲しいことだと思う。

子供の私が「もう無理だよ。限界だよ」と、自分に、夢遊病や優しい夢をみては泣くという形でサインを出していたことにも気づいた。
私は本当に小さい頃から、自分の個性、自分の考えや感情をぐちゃぐちゃに握りつぶされてきたんだな。


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後半のワークでも、子供の私は0か100の世界で必死に生きてきたんだなと気づいた。
何をするにもハードルがとても高くて、でも私は認められたくて、そのハードルを越えようと必死だった。

あの頃、自分の意思で決めたり、動いていたと思っていたことは、自分の意思じゃなかった。
そうじゃない何かに突き動かされていたんだ。

100になろうと頑張らなくてもよかった。
ハードルを越えようとしなくてもよかったんだ。
本当は、そんなハードルを越えようとしなくていいんだよと言ってほしかった。

0か100じゃなく、その中間があってもいいこと。
あの頃の私に、それを教えてくれる人はいなかった。
でも、自分で自分にこれから教えていけばいいこと、学び直せばいいことも、また教わった。


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仕方なかった、子供である自分ではどうしようもなかった。
そう思うこと、子供時代を言葉にすることで子供のとき失ったもの、与えられなかったものを改めて思い出すのは本当に本当に今を生きる上で大事だと思った。

思ったとおりに自分を表現していいこと、0か100じゃなく中間があっていいこと。
今回のワークを通して改めて気づけたこと、きっとこれがこれからの私を救うと思う。


もう苦しまなくていい。
私が思ったとおりに発言していいし、動いていいし、しなくてもいい。

私がいいな、やってみたいな、なんか好きだなと思うことを、どんどんやってみようと思った。
あの頃の私と一緒に。

あの頃の私を受けとめられるのも、あの頃は得られなかったものを一緒に感じることができるのも、私だから。
そう思ったら、これからが楽しみになってきた気がする。


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このワークショップは、私が忘れてはいけないことを思い出させてくれるものだと思う。

誰に何を言われても、「私が」納得していればいい。
誰にも理解されなくても、理解されないことで苦しんでも、それでもいい。

私がわかっていればいい。
改めて、私は私を1番大事にしようと思う。

優月さん、ONSA のスタッフの皆様、クラスの皆さん、ありがとうございました。




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Y. W. さん(30代/愛知県よりご参加) すのーくらうんクラス



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今回、台風の影響で当日のワークショップ・クラスは欠席しました。
(優月さん、スタッフの皆様、ご対応いただきありがとうございました。)

とても楽しみにしていて、かつ年に一度の貴重な機会だったので、やむを得ないこととしても欠席を選んだことに、私はとても残念な気持ちでいっぱいになりました。

でも、気づいたことがあります。
それは ONSA WORKSHOP(対面式)の威力、効果の大きさです。


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実際に「ワークショップの場に行く」
「優月さんの教えてくれる “健康” な空気にふれる(=今の私のズレの大きさに気づく)」
「お仲間さんと一緒に過ごす、気づきをシェアする」
「感じる」
「気づきを言葉にする、聞いてもらう」
「私の気持ちを素直に出せる」…

その「体験」の大きさを、改めて、ひしひしと私は感じました。
ONSA WORKSHOP(対面式)で私は、とても大きな回復への推進力を得ていたんだと実感できました。

なのでまた、参加します。


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そして、プレワークを通じて私が気づいたこと。

私が私に、うそをついちゃいけない。
うそやごまかしの状態の上には、本当の回復はない。

プレワークで子どもの頃のことを振り返るなかで、私は、母に対してわいてきた気持ちを書き出したくなり、実際に、書きました。

そうしたら、今まで書いてきた中で、一番荒れて、でも一番正直な手紙になりました。

書き終えて、私は気づきました。
あぁ、私は、私の内側の気持ちや思考ですらも「他人向け」になっていたんだ。


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他人に説明できるような、理屈めいた、つじつまあわせの思考。
私の本音や正直さとはかけ離れていて、でも「これなら成り立っていられる(大崩れしない)」と組み立てられた思考。

過去に私が受けたこと、感じたことすらも、私は「他人にも説明できるような」状態に固定して、「そういうもんだ」としていたんです。

(でもそれはまた、私の受けた痛みをリアルに受けとめられる状態に私がなっていなくて、私を守るために、自分でしていた防衛策でもあったと思います。
だから、そのことで私は私を責めません。
命や心は、本当にうまくできてるなと思います。)


でもそれを、今回私はやめることができました。
そうしたら「あ、これが私の正直な気持ちだったんだ」と、腑に落ちました。

心で感じてることなんだけど、なぜか私には「胸からお腹のあたりの、体の内側が、スッキリきれいになった」感じがしました。
ごしゃごしゃしていたものがすかんと抜けて、クリアーになって心地よかったです。


この感じ、身体感覚が、私には大事なんだ。
そのうえで、『未来日記』にも、私との対話にも、取り組んだ方がいい。

だって、つじつまあわせやごまかしだらけの土台の上には何も私の本音は出てこないから。

そもそも私が私に大いなるうそをついて、ごまかしているのに、そんななかで「本音を出せ」といっても、無理な話ですよね。
そのことが、ようやくわかりました。
理解というより、体感できて、よかったです。


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私の過去は、本当にごしゃごしゃと、乱れまくっていました。
そのゴミが今でも残っていて、私の現実に影響しまくっています。

でもこうして、ひとつ、またひとつと、私は気づき、吐き出し、掃除して、私に戻ってゆくことができました。
日々の中でも、ちゃんと私は歩けている。進むことができている。

そのことを、私は誇りに思います。
ほんとに、ありがとう。


私はまた、これからも進んでいきます。
これからもよろしくお願いします。




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C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) すのーくらうんクラス



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私へ

今年は、「過去を癒そう」「私の子供時代・土台を理解しよう、私と私の痛みを知ろう」と思ってやってきたけれど、あっという間だったね。
毎日、本当によくやってきたよ。


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今回、スノボキッズの話を聞いて、ずっと胸が痛んでいた。
(* 編集注/ワークショップ・クラス中の「たとえ話」となります)

その痛みは、日常の中で、本当に関心と愛情を持って育てられて人の話を聞く時、そんな人が才能を開花させて社会にいる姿を見る時、家族仲のいい人の話を聞く時、そうやって自分の子供を育て、成長を見守る人の話を聞く時に感じる痛みと、同じだった。

そんな時、私は自分の
「そういう環境で育てられないと、幸せになんてなれない」
「もう遅いよ」
って声に、負けそうになる。


スノボキッズの話は本当に微笑ましくて、
「子供ってそうだよなぁ…」
「かわいいなぁ」
「そうやって育ててもらっている子もいるんだよね」
と感じた。

それと同時に、それと自分の通って来た道を比較すると、自分の失ったもの・持てなかったものの大きさが、胸に迫る。

私は、そんな機会や時間は持てなかったなぁ…。
スノボキッズがそうやって社会化していく時間、私は何をしていたんだろう。


私にだって、全くそういう機会がなかった訳ではなかったはず。
子供会に参加していたし、絵の教室にはある程度ばらけた年齢の子がいたと思うし。

それでも、「ブツッ」と何かが切れている感覚(「健全な環境では連続性がある」のと対照的に)。
家と学校も「ブツッ」。
学校の友達と近所の友達も「ブツッ」。
小学校・中学校・高校も「ブツッ」。

あるのは、常に孤独感。
テキストの
「『どうせ、私はひとりどっちだ』と泣いているのは、何歳の自分?」
の部分を読んで、今回初めてドキッとした。


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子供の頃、引っ越しした後の環境は、孤立していた。
今までは、それが当たり前だと思っていたけれど。

おかしかったよね? やっぱり。
今も心の中で泣いているのは、あなただよね?

そんな孤立の中で、私の世界にはあの母と姉しかいなかった。
本当に、辛かったね。本当に、よくがんばってきたんだね。

それに、私はあんなに小さい頃から、嗜癖行動するしかなかったんだね。
それしか、することがなかったから。
幼い私が、自分で出来ることは限られていたから。


その時間は、私が色々な人と触れ合いながらこの世界を学んで、色々経験して、失敗や成功しながら、少しずつ「好き・嫌い」「出来ること」を知り、お手本を見たりやってみたりしながらステップアップして、積み上げていくことの出来る時間だった。
私が、私を知ることの出来る時間だった。

それを、健康な世界観を知ることを出来ず、人とやっていく方法を学べずに、自分の好きなものにチャレンジすることもなく、家族の為に使ってきたんだね。
…使わざるを得なかったんだね。


今、あなたが
「こんなに自分を知らなくて」
「こんな齢になっても、なりたい方向が定まらないなんて。本当に、好きでやりたいことがないなんて。」
と思っていたとしても。
私にも(もちろん、他人にも)責められることじゃないんじゃないかな?

あなたは、いつもその時の出来る限りのことをして、誠意を持って、がんばってきたよ。


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今回、驚いたことがあった。
「あの頃」の自分の気持ち・ニーズを言うワークの時、言葉がなかなか出なかった。

そして、無理にでも何か言おうとしたら、頭が痛くて重くなり、肩・胸・喉が内側からキューッとしまってきて、すごく苦しくなった。
かなり息苦しくなった後、反対に息が荒くなって、ずっとハァハァいってた。
こんなのは、初めてだった。


やっと出て来た言葉は、
「苦しい」
「重い」
「きゅうくつ」
「押さえつけないで」
「勝手に決めないで」
「私の言うことを聞いて!」
「私にやらせて!」。

断片的にしか拾えなかったけれど、心の叫びだったと思う。


まだ引っ越し前で「幸せだった」と思っていた頃に、そんなことを感じていたとは知らなかった。
(引っ越し後は、家族として機能していないのに、人が来た時だけ仲のいいふりをするのを「おかしい!」と言っていた。)

言っている感覚も、言っても聞いてくれない・分かってもらえない母に対して言っていたから、誰もない空間に向かってずっと叫んでいるような感覚だった。


そして、そんなに分かって欲しくて、感情的になって言っているのに、「今、確かに自分のニーズを言った」と思ったのに、口に出したそばから流れていってしまう。
手のひらの中から砂がこぼれるようにさらさらと、言った言葉が消えてしまった。
口に出した瞬間、思い出そうとしても思い出せなくなった。

まるで、「自動消去装置」がついているみたい。

そう思いついた瞬間、何となく分かった。
「自動消去装置」は、私が自分で作り上げたものだったんじゃないか?


そうやって忘れて、「なかったこと」にしてきたんだね。
それほどまでに、私はつらくて、苦しくて、悔しくて、悲しくて、恥ずかしかったのか。
…今も、感じることを恐れるくらいに。


なんかもう、書いていてつらいよ。

でもね、今の状態になっているのは、そうなる理由が積み重なってきた結果。
私の目的は「今より、自分と自分の痛みを知ること」だったんだから、知ってあげられて良かったよね。
良くやってくれたね、ありがとう。


文節区切りの線

印象に残った言葉があった。

「自分で、自分をしつける、境界線の位置を戻してあげる」
「私が、私のニーズを満たす(それが出来なくて、代わりにやってくれる人を探すのが共依存だから)」
「これから『社会化』していってもいい」

そうだよね。
私は、孤立じゃなく世の中で健康にやっていける術を学べなかったけれど。
誰が見てもすごいと思うようなことをするのではなく、自分で自分にしつけして、ニーズを満たすことで社会へ帰っていけるなら、私にも出来ることなのかもしれない。


「普通」のことかもしれないけれど、私に取っては切実で大切であきらめられないチャレンジだ。
私が、私の手でやりたい。

「あきらめないこと・ねばること・誠実であること」なら、私は得意だもんね?
小さかった私も、今の大人の私も、力を合わせてやっていこう。
いつも、一緒だよ。


最後になりましたが、優月さん、スタッフの皆様、仲間の皆さん、本当にありがとうございました。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。