2015.10月開催 「時間のためのちいさなワークショップ」たちあなクラス

画像
タイトルはじまり目印

S. K. さん(40代以上/神奈川県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


藤沢さん、OFFICE ONSA のスタッフのみなさん(スタッフの方々にはお目にかかれませんでしたが)、WORKSHOP でご一緒くださったみなさん、お会いできて、嬉しかったです。
感謝の気持ちで一杯です。

今、頭の中が大変なことになっており、きちんと整理して文章にできそうにありません。
ただ、私の心の真ん中にダイレクトにつながってくる時間だったこと、そして心は身体に宿っているためか、身体でいろんなことを感じています。

このコースに参加させていただけて、嬉しかったです。
私の手帳の後手後手の状態をひっくり返したいと思います。


一週間、すごくいろいろなことがあり、泳いだような感覚です。

最初2、3日は軽い吐き気のような感じが何度かあって、その後夜中に胸が苦しくなって「動かなくちゃ」と感じ、起きている時間は、いつも乗り物を使うところをなぜかよく歩いたりしました。
今はこの一週間たびたびあふれてくる涙のためか(その時々によって思うことは必ずしも一辺倒ではないのですが)、軽い頭痛です。
こういう軽い頭痛、小さい頃両親がけんかした後にも時々なったっけ・・・。

共依存のことでは、電話による、心と体の相談窓口を利用させてもらったり、自助グループというものに初めて触れてきたりしました。
動いて気付いたちいさなことなどを書きとめようと思います。
私の中の麻痺している部分を治していき、不健康から健康に向かえるようにしたい。

一期一会、すごいことだと実感します。
どうもありがとうごさいます。




タイトルはじまり目印

A. T. さん(30代/東京都よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


時間のワークショップは一番基礎のクラスで、先に取ったほうが良いと知っていたけれど、私にとっては優先順位が一番低いワークショップだった。
それよりほかの対面ワークショップや Web. WORKSHOP を積極的に参加して、ダメな自分を変えたかった。
これまでの私は、自分ことなんてどうでもいいって思っていたよね。

そんな私だったけれど回復の訓練を続ける中で、少しずつ自分のことを考えられるようになってきた。
もっと自分を大切にしたい、もっと自分を知りたいと感じられるようになってきた。
本当に、少しずつ、少しずつ、やっとなれたんだよね。
そして今年は絶対とるぞ! と決めた時間のワークショップ。

ワークショップを受ける前は自分は何が好きで何がしたいのか、全然わからなかった。
その答えは今も分からないけれど、どうして分からなかったのか、優月さんに指摘されて分かった気がする。

一発正解を狙いすぎて目標が高すぎたこと。
それなのに完璧にできない自分に厳しくあたって「やっぱり私は値しない」とみじめにしていたのは、他の誰でもない「自分」だった。
(さらに、母の「あんたは何をやっても中途半端!」という言葉が追い打ちをかける)

スケジュール帳が真っ白なのは自己肯定感の低さの現れ…みたいなことを優月さんに言われて、全くその通りだと思った。(ちょっと言い方は違ったかもしれないけど、確かそんなだったと思います。)
私の手帳はまさに自己肯定感の低さが現れている。

実際に自分の時間がどれくらいあるのか目で見えるようにスケジュール帳を埋めていくと、私の純粋な自由時間は1週間でたった5時間程度。
疲れてうっかり寝てしまったらその時間はさらに削られてしまう。
家事、育児、学校行事にパートタイムの仕事…この5時間を死守しないと私の時間なんてどこにもない!?
だからスケジュール帳が大事なんだなぁ…。

そこで、やってみたいことリストの因数分解。
頭では理解していたつもりだったけど、実際やってみると私の理解と全然違った。
因数分解ってただ枝分けするんじゃなくて、自分の現状で、かつ現実的レベルで、できることをまずしてみる! という感じだった。
私がうまくゆかなかったのは自分を無視して、ただ因数分解していたということ。
これじゃうまくいかないはず…。だけど、これが分かっただけでも大収穫だね!

共依存からの回復と、夢をかなえること。
これは全くの別ものだとあらためて思った。

自分の人生って自分が作っていくもの。
こんな当たり前のことがこの年になってようやく分かった。

この現実の中で、1つ1つ、自分で選んで決めていく。
目の前の時間を大切に過ごす。
明日も、明後日も、1週間後も、一ヶ月後も。
そしたら1年後、私はどうなっているだろう?

こうやって考えながら過ごす5年後10年後は
きっと何も考えずに流されていた自分とは違うはず。
今の私だって、1年前とはずいぶん違うから。


手帳と相談しながら現実的なサイズでできることをいっぱい試してみたいと思う。
下手な鉄砲も数撃ったら、その中にあたりがきっとあるはず。
何が好き? 夢は何?
頭で考えても役に立たない情報ばかりだから、まず行動してみようと思う。


私が今できることは限られている
時間も限られている
諦めとか妥協案じゃなく
自分の限界を知ること
それは自分を大切にするということ
自分に優しくするということ

今回もありがとうございました m(_ _)m




タイトルはじまり目印

Y. E. さん(30代/茨城県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


今夏に引き続き、秋の対面式ワークショップに参加しましたが、参加してよかったです。
いかに自分自身の時間が乱れまくっているのか、実感しました。
正直、
「これ知りたかったよ~!!」
「もっと早く受けておきたかった~!!」
って、心の中で叫んでいました。

それと同時に、現在住んでいる親の家のこと。
いつの間にか時間を奪ってしまうテレビ、突然かかってくる電話、やって来る親戚や他人、インターネット・・・。見渡すと、知らない間に私の時間を乱してしまうものがたくさん溢れています。
特に母親がテレビを点けては寝転んで、時間を垂れ流しているというありさま。
しかも、父からショートステイで帰って来た祖母の様子を見とけとも言われるし・・・。母はちょっとしか見ないし・・・。
私は便利屋じゃないっつーの(怒)!!

祖母のことは親と違って、わだかまりはないし、最近弱ってきてしまっているので心配ですけど、まずは、私自身の事が先決です。


今回も再び優月さんにお会いできて嬉しかったです。本当に優月さんは明るくてパワフルです。
どこからそんなパワーが溢れてくるんだろう? と、思わずにはいられません。

入室して早々、私は優月さんに
「時間の流れを整えて、不健康な環境から出て一人暮らしすること」
「一人暮らしができたから終わりではなく、夢を叶える環境を作って、同時進行で共依存から回復していくこと」
「余裕ができたらじゃなくて、余裕を作ること」
をアドバイスされました。

本当にこれらはまさに、私にとって直近の最重要課題。
これまでも、何とか親元から出たくて受験や就職試験のたびに色々挑戦してきましたが、いつも上手くいかないし、最後の最後で結局ダメになってしまうことが多かった。

何で私っていつも上手くいかないの?って。
何で私は報われないの?っていう私の思いとは別に、外側の世界は色々と人間や用事が入り乱れては忙しなく去っていく。
まるで、「あなたにそんな権利はない」といわんばかりに。

親からも
「お前にできる訳ない」
「あなたお金ないじゃない」
「正社員じゃないのにできるの」
と可能性を否定される。
私は親の都合で生きていかなきゃいけないの?

そんなの、全然私の人生でも何でもない、親のエゴの上に無理矢理載せられているじゃないか!
ウンザリする。あなた達の考えは。
何でもお金だとか、正社員だとか、聞き飽きてんだよこっちは!!!
もう、現代の考えとは相容れないものなんだよ!!!!
もう、私の人生を束縛しないでよ!!!

一生こんな不健全な家しか、私が帰れる場所はないっていう訳!?


夢かな手帳も汚していくと、本当に自由にできる、自分の時間が限られていることも、イヤっていうほど実感した。本当に少ないって。
(* ワーク中に「汚すつもりで書き込んで」というアドバイスがございます/編集注)
少ないのは、プレワーク中にも気付いていましたがそれ以上に、当日に優月さんから指示された方法で汚していくと、本当に「これだけ!?」っていう時間。
時間を「かたまり」として見ていくと、

「嫌だ・・・ダラダラYouTubeなんて見てる場合じゃないだろ!!!」
(実際、優月さんからも「そうだよ!」って言われました)

実は・・・「ダラダラネットをやる、YouTubeを観るのをどうにかしたい」ことを、プレワークと今までの『未来日記』にもさんざん書いてきたのに、止めることができずにいました。


「うわっ・・・。これだけ少ないとしたら、全然私は自分がしていて楽しい! と感じる時間なんてちっとも送れてないじゃん!! これじゃヤバいよ!! いつかなんてやってたら、全然来ないよ!!」


と、真っ黒な毎日リストを目の前に、色んな思いが溢れてきました。
そしたら優月さんから間髪入れずに、
「このままじゃ棺桶入っちゃうよ」
と言われました。
その瞬間、不健全な家族状況や未来の悲惨な末路等のイメージが湧いてきて、
「嫌だ!!冗談じゃない!!!」と全力で否定した私です。

「本当に冗談じゃない!!」
「棺桶だってまだ入りたくない!!」
と抵抗しました。
だって、優月さんの一言。すっごい現実味のあることを言われたから。

「冗談じゃない!!!」
優月さん、この気持ちは今も変わっていません。
まだ私全然、自分の人生歩いてないもん。
ホントに、この気持ちは大事にしなくちゃ。

また、「独身だから非常に有利な立場にいるよ」とも言われたので、とにかくこのチャンスは生かさなくちゃな・・・と。

あと優月さん、5億円ゲームで私は「ナレーションの仕事経験してみたい」って言ったんですけど、当日は因数分解をやりませんでしたが、家に帰ってからどんな所で学べるのかを調べました(笑)。
調べていくうちに興味も出てきました。


不思議なんですけど、夢の因数分解をしている時は本当に楽しくて、「こういう風に実現していったら楽しいよね~」ってワクワクしてきたことも事実です。

とにかく今の私は時間を垂れ流している場合じゃないんだと、実感しました。
それに・・・もう分かっているじゃない?
もう立ち止まっている場合じゃないんだよ。分かっているじゃないか。
経済的な理由で親元にいたって、全然良くなってないし、嫌っていうほど不条理な目に遭っているじゃないか。
また何もできないまま、不毛な環境で1年重ねるなんて嫌だよ!!


あと、私に対して忘れないように。
優月さんからいただいたアドバイスは大事。
ただし、「優月さんから言われたからやる、やったら終わり」じゃないんだよ。
これから、人生を作っていくのは自分なんだよ。
本当に大事で、必要なことだから。
足踏みしている場合じゃないってこと。


今も正直、「お金がなくなったら・・・本当にできる?」と不安でグルグルすることもあります。
だけど最後に優月さんから、
「大丈夫!叶えられるよ!」
と笑顔で言われました。
正直、ありがたかったです。この安心感。
だから、まずは現在の私ができることから始めてみよう。

今も『夢かな手帳』を汚して、使える時間を可視化して、次々と増えていく「やらなければいけないこと」と「やりたいこと」をどうしたら同時進行できるかを試行錯誤中です。
部屋探しも進めています。今年中には、内覧できるようにしようと計画中です。


それに、何だか不思議なのですが、また不要なものを捨てたい、スッキリさせたいという気持ちも出てきて、溜まったメールマガジン、使わない書類、洋服等も思いきって処分し始めました。断捨離も計画的に進めていきたいです。
もちろん、時間を奪う習慣も断捨離します。


優月さん、今回のワークショップはとっても温かくて、不思議なくらい明るい気持ちになりました。今夏同様、安心して過ごせる空間と時間を提供してくださってありがとうございます。
本当に素になれるし、お会いするたび、安心感を覚える私です。

会場にいらっしゃった皆様もありがとうございました!
当日皆さんと同じ思いを共有できただけでなく、皆さんの言葉で気付かされることも多かく、改めて「ひとりじゃないよ」と実感しました。
私も含めて、お互いの夢が叶いますように!!




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(30代/神奈川県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


藤沢さん、ご一緒した皆様、先日はありがとうございました。

ワークショップ中は、自分のできなさにショックを受けつつも、「これが自分の現実なんだ」と比較的早い段階で受け入れられるようになった自分にちょっと成長を感じたりしました。

自分が何にどれくらいの時間がかかっているのか分かってない。
それって怖いことだな…と今振り返って思います。

FB(facebook)やネットサーフィンに時間を費やしていたこと。

今は FB はパソコンに転送されてくるメッセージを確認して、必要な時のみ使うようにしました。近況を確認したい人はその人だけの投稿を読むようにしたり。そうしたらぐっと時間の充実度が上がった気がします。

FB の投稿からリンクをクリックしてネットサーフィンして…という流れにもつながっていたんだなぁ…と。

今は自分が何にどれくらいの時間を使っているのか、データを取ってて、それがちょっと楽しいです。
自分の事がちょっとずつ分かる感覚で。

対面式ワークショップが終わった後に UP された藤沢さんの文章を読んで、「自分で動かなきゃ!」と思えたことも、自分的にはすごくうれしかった!

「お金と自立のワークショップ」を受けた方達の PAY FORWARD を読んで、お金について改めて見直す機会を持てたのも、大きかったです。
「来年『お金と自立のワークショップ』を受けたい!」という思いがさらに強くなりました。

今年、「境界線(バウンダリー)ワークショップ」と「時間のためのちいさなワークショップ」を受けられて本当に良かった。

今度こそ、自分の日常に生かしていくぞ!!
自分で決めて判断して行動に移す練習していこう!!

今の自分にできることをコツコツやっていきます。




タイトルはじまり目印

H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


横浜に行っていたのが、ちょうど1週間前のことなんて、もっと前のことみたいです。

いま、去年の冬のころみたいに、何かがすっぽり空いたみたいな感覚でいます。
「さて、どうしよう(シーン)」
言葉にすると、こんな感じです。

それで、去年の冬は、ここに、私はいろいろと外側とか、他人のことを、どんどん入れていたのではないかな、と思います。

そうじゃなくて、ここに、もっと、「私の予定」を入れる。
私の行きたい方向に向かう、そういう予定を、入れる。
時間がかかっていい、というか時間はかかるから、計画的に、入れる。

この1週間でも、色んなことが、私のなかに入り込もうとしてきているように感じて、常に「NO !!!」という気持ちで、私はとても疲れました。
時間を侵蝕されるってことは、私が私を「リスペクト」してないから、そういうことになると、そういうようなことを確か、クラスの時に優月さんが言っていて、どうもそういうことのようだ、と思いました。

今週前半は特に身体が重くて、しんどくて、思っていたよりもずっとたくさんのエネルギーが動いていたみたいです。


「ちゃんとしていたら OK」
(…なぜかというと、私はちゃんとしていないから)
「ちゃんとできていたら OK」
(…なぜかというと、私はちゃんとできないから)

言われたとおりにしていたら(=ちゃんとしていたら)、私はここに存在していてもいい、OK。

どういうことかというと、「マトモ」な「フリ」をしていたら、私はここに存在していてもいい、OK、ということ。
(…なぜかというと、私の生き方は「マトモ」じゃないから、「マトモ」な演技をしていないと、社会的に普通の大人として生きていくことができない。)

「マトモ」って、自分が自分を好きで、自分で自分を応援しながら、自分の人生は自分え決めて生きていく、とか、そういうことなんだろうな、と思いました。

身体の機能がどうとか、そういうこととは、ぜんぜん別の次元の話。
そういう「在るもの」は、変わらなくても、症状を軽くしたり、学習したり工夫しながら、人生の方向は変えてゆける。

できないことがあれば、できないだけの理由があって、そうなっている。
何もしないで放置してたら、できないまま。
正しい方法で取り組めば、ちょっとずつ、できるようになっていくはず。

どんな私でも、この世界に生きていてもいい。
じゅうぶんに生きる権利、というか、そうする必要がある。

ここにいるだけで、私はじゅうぶん、何の条件もなくOK。

責任をはたすとか、そういうこととは、またこれも別の次元の話なんだな。
条件なく OK でも何でも、行為の結果はやっぱり返ってくる。
そこに、特赦も魔法もない、それは法則としてある。

私は、ありのままでいい。
そして、ありのままに行動するのこととは、違うよね。

反対にしてみると、責任をはたしているから(ちゃんとやっているから/条件)、私は OK、ということではないっていうこと。

その OK は、誰かから、外側からもらうものでもないってこと。

必死に作り上げてきた外側の私らしき何かを守るより、私の人生、私のこころ、私の生活、私の未来、そちらを守る方が、考えるまでもなく重要よね。

何度も、ここに戻ってくる。
私の問題の根本的な要素は、何も変わっていない。
変わっていないけれど、でも、変わっていることもある。


プレワークをしていて、なんと「ぴったりな日程」と思ったのですが、はじめてONSA WORKSHOP クラスに参加したのが、2011年10月16日。
このクラスは、2015年10月17日、4年だ……4年か……と思いました。

ちょうど4年前は、「身体のワークショップ」のクラスに参加しました。
何度でも振り返ろうと思うので、振り返ります。

4年前、私は、家族問題の「か」の字も、共依存の「き」の字も、そもそも問題を感じているのに、問題があるということは認識していない状態で、「辛くてたまらない、とにかく、この状況を何とかせねば。」の一心で、東京までバスに揺られて足を運びました。

(ふと、辛くてたまらない、ということは、私にとって「問題」なのに、いまいち「辛いということは、私にとって、解決してゆきたい問題である」という明らかな位置づけを、私はできていない。今もそうかもしれない。「辛い」感じ、それは解決してゆける「問題」なのか!って、いま私はちょっと驚きました……)

身体はサインを発しているという知識を取り入れて、身体のサインに気がついて読んでみても(机上で症状と解説を読みくらべて「なるほど」と思う)、そこから、それを「実生活で活かす」ということが、「どういうことなのか」、私は一向にイメージできていなかった。

4年のあいだ、私が、ひたすら実生活の中で「やっていた」ことは、トイレ行ったら、一緒にチェアワークする。
『未来日記』がかけてもかけなくても、とにかく「灯台の時間」はとる。
できても、できなくても、とにかく「スケジュール帳」にしがみつく、書き込む。
本を読む、勉強する。
Web. WORKSHOP と、カウンセリングで手伝ってもらいながら、過去を振り返る。
自助グループに足を運ぶ。
「これは」と思ったら、やってみる(……からの、失敗多数!漏れなく今後に生かしてゆけますように。)

あれ? なんだか、すごいな私。
地道に、回復の道を歩いているじゃないか。


「時間のためのちいさなワークショップ」は、2回目です。
それは、2012年の7月。
(そういえば、この頃から、確かに私は「よからぬ男子」と付き合っていた)
この時も、私は、家族問題の「か」の字も知らない状態……。
その「よからぬ男子」と、全くうまくいかないので、「おかしい、何とかせねば。」と私は考えて、それで、Web. WORKSHOP に申し込みをしたのです。

問題があれば、解決していく。
他にどういう選択が?
当たり前でしょ?

そういう思考をするのに、実際には、私は、問題を解決しながら生きていく、という生き方が、想像ついていない。
そりゃ辛いよね。
苦しいわ。

でも、「今」まさに、「問題を解決しながら生きていく、という生き方」を、私は練習しながら、ながーい時間をかけながら、やっているのよ。
それが「どういうことなのか」、分かるかな。

……これが、「実感」できると、最高だよね。

(できたら、最高です!)

(したい!!!)

ここのところ、ようやく、身体のサインと、感情のサインは、私が、私の生きるこの現実の中で行ってゆく判断の根拠としていくものなのだ、ということが「どういうことなのか」、これが「…お、こういうことか?」と、ヨチヨチと、手探りできるようになってきたように思います。
4年前の私と比べてみたら、もうほんと、深く、ガッツポーズ。


クラスのあとは、少しゆっくりしたくて、見晴らしのいい公園に向かいました。
ベンチに座って秋らしい深い色味の月を眺めていたら、ヨガで手伝ってもらいながら練習していた、立ったところから後ろに手をつく後屈を「ちょっと、1人でやってみよう」という気分になり、やってみました。
実際にやってみたら、やっぱり1人では怖くてトテモできなかったのですが、「練習してたら、この手もいつか後ろの地面に届くかも」と感じました。
できて何があるわけでもないけど、できたら楽しいだろうなぁ。

「やってみたい」、でも想像だけじゃできない、だから、できるサイズに分解して、スケジュールする、できるまで続ける。

顔をあげたら、向こう側の芝生で、きれいに側転している大人がいました。
笑ってしまった。

「楽しく、考えないで、おしゃべりしたい。」
この夢は、かなえてゆくのに、どんな方法があるんだろう?
あれ、そもそも、おしゃべりって何だろう?
今週はいっぱいのスケジュールだったので、来週に、それを調べてみる時間が予定してあります。

干し草のベッドは、帰り道にさっそく調べちゃいました。
同じことを考える人たちが集う宿もあるそうです。
これは、「いざ」というときに思い出せるように、大切に覚えておかなくちゃ。

「これは、私が、私のために入れた予定」。
「これは私の予定」。

そういう感覚のある予定が、私のスケジュール帳のなかに、増えるといいです。
そういう感覚で、これから、私は、私のスケジュール帳に、予定を書き込めるといい。
それで「……違う(モヤッ)」って感じることは、減らしたい。

さあ、わたし。
「さて、どうしよう…(シーン…)」、ここから、外側や、他人に向かうのではない選択の方向が、整理できてきたね。

「変える」って、具体的にいうと、「クルっと方向を変えて、違う方法を試す」ってことらしい。
否定ベースでも、批判ベースでもなくて、「うまくいかないな」って思ったら、「じゃあ、方法を変えてみよう」ってそれだけのことが、「変える」ってこと。

(私の場合、うまくいかない、これじゃだめだ、だめだ、だめだ、何とかせねば……何とかせねば……。この焦燥感や重量感の違いは、行為に、私の存在を掛けてるからなのだろうと思います。)

「希望」って、「変えてゆけるっていう感じ」のことだと、プレワークのときに思いました。
「夢」は、「本当に生きたい人生」=「私なりの人生を生きるために、選択するときに、私はどうすればいいのか、方向を教えてくれる地図」。

それで、「変える」ってことは、その「夢」と「現実」の差を埋めていく「行動」なんだな、と思いました。

私を大切にするとは、具体的にいえば、守ること、いちばん重要なこととして丁寧に扱うということ。
私なんかダメだって思わないと決める選択は、私を守ること。

どんな現実でも、意識して、私より他人を絶対に優先しないこと。
そういう選択を、意識してすること。

できる範囲のなかで、やれるだけのことをしている私を、はっきりと、目を開いて、認めること。
だって、それが、事実だもの。
スケジュール帳も、そう言っている。

そういう私を、誇りに思うこと。
ためらう必要は全くなくて、堂々と、誇りに思うこと。

私のなかで、ほんのり、ぽかぽか、そういうところを感じながら、誇りに思うこと。

外にいると拡散していく。
外側に向かうと、あっという間に飛んでしまう。

持って帰ってきた種を、守りながら、だいじに、スケジュール帳のなかにおとして、回復もしっかり取り組みながら、そうやって、まずは1年、2016年の手帳と過ごしていきたいです。

そうしたい、それなら、そうしよう。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(30代/新潟県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


決定的に「自分がない」。
自分の目標ややりたいことですら人に決めてもらわなければならないくらい!
私は健康な人生を知らない。
それに気づいた瞬間から涙が止まらなかった。
情けないやら悔しいやら。

私はこれまで色んなことを自分の意思で選択してきたと思っていたけれど、それは単なる「反応」に過ぎなかった。
目の前に置かれたものを消去法で選ばされていただけ。
その場しのぎで対応していただけ。
自分が思いつく選択肢はとても少ない。
なんか奴隷のような人生。


今までの私の人生、長い悪夢を見ているようだった。
思えば4歳の頃からずっと人と関わって生きるのが苦しかった。
もうその頃から自分を失い始めていたんだなあ・・・。

自分が空っぽ。
この現実が本当にショックだった。
このワークショップを受けるまで(2015年10月17日まで)全く気づいていなかった。
事態を飲みこみきれないのか、クレンジング・リアクションはひたすら吐き気だった。
ワークショップ終了5分前から車酔いのような吐き気がしてきて、東京駅で歩けなくなってしゃがみこんでしまったり、新幹線の切符を買い間違えたりと散々だった。


私は自分がいないという言葉を、どこか他人事のように感じていた。
自覚がない点がまさに病気という証拠、感覚が麻痺しているということ。
自分の不健康に自分で気づけないのは仕方ないよね、だって今まで健康な感覚で生きてきたことがないんだから。
自分の中にずれているかどうか比べる基準がないんだもの、体験的に感覚的に知らないんだもの。
だからワークショップの最初に唯一出てきた願いは「健康な人生というものを体験してみたい」だった。

私は保育園や学校、会社などの社会生活を送っている時、本当の自分とは別のある人格を前面に出している感覚があった。
制服のようなよそ行き用の人格。
優等生で理想的な人物を演じている私。
魂が空っぽのアンドロイドのような私。
おそらく小さな私が苦し紛れに作り出した人格。
最初は表面的だったその人格が、徐々に私の中を占める割合が大きくなり、本来の私をどこかに追いやってしまったのかもしれない。
気づけば今、本来の自分がどこにもいない。どこかにいるのかもしれないけど全然見つけられない。
私の人生は何者かに乗っ取られている。
私はまるで操り人形だ。
人の言うことを聞くしか、反応するしか能がない・・・。

泣けてくる。
この涙を流している私が本当の私なのかな?
分からない、何も。

優月さんに、私は ONSA で扱えるぎりぎりの範囲だと言われて驚いた。
私はいよいよ人格が分裂する瀬戸際まで来てしまったんだ。
でも今ここで、目を覚まさせてもらえて本当に良かった。
方向を変えるチャンスをもらえた。
PAY FORWARD もこれまで(自分が申し込んだワークショップなのにも関わらず)「宿題だから」「締め切りがあるから」という義務感でやっていたが、今初めて「自分を救い出すために」という目的意識と自主性を持ってやっている。
私は今感じているこの衝撃が薄れるのを恐れている。
この感覚を忘れたら、私はまたオートマチックに自己流に走ってしまう。
読んだだけで「実際の生活でやらない」のは、「出来ない」と同じ。
このゴールデンタイムを活かさなければ!

いっそのこと、このまま分裂してしまって、感情も何も感じないようになった方が楽かもしれない。
途方に暮れてそんな自暴自棄な考えも浮かんだけれど、やっぱり私は自分の人生を諦めきれない。
未来の自分をゴミ溜めのような劣悪な環境に住まわせるわけにはいかない。
もう奴隷になるなんてまっぴら!
せっかく現代の日本人に生まれたのに何やってんのよ、私。
恵まれた自由を享受しなくてどうすんの?もったいない。


2016年は時間習慣の再訓練だけで精一杯かもしれない。
もうそれでもやむを得ない。
それだけに1年を費やしてもいいから、生き方を変えたい。
1年後また時間のワークショップを受けて、自分の進捗を確認したい。
その時また同じことを言って泣いていませんように。
心からワクワクすることを語って、笑っていられますように。

私の人生の中心に本来の健康な自分を取り戻す。
心を持った人間として、温かい愛のある人生を生きる。
来世ではなく、必ず今生で叶えます。




タイトルはじまり目印

M. S. さん(30代/兵庫県よりご参加) たちあなクラス



タイトル下の線


現実、現実的になる、ってすげーな、とここ数日でふと出てきた言葉でした。
会場での優月さんの歓迎 “ようこそいらっしゃいました” は、あれは “ようこそ現実へいらっしゃいました” という意味ではないかと思ったぐらいでした。

私はもともと手帳好きで、2年前に Web. WORKSHOP の「コース1/STEP.1」をやってからずっと、自分なりにこじこじとつけ続けてはいたので、
これ以上どこをどうすればよいのかもうわからない、自分ではこれ以上どうにもできないところにもいました。

優月さんが「もっと、よくなる!」とおっしゃってくれたときは、光が差し込んだかのような感じと、
いったいどこがよくなるんだろう? と疑惑の気持ちと・・・(今、疑惑は確証に変化中)
今思うと、よくなる余地はおそらくまーだまだ無数にあって、単に気づかなかったり、自分の中だけでは限界にいたり、ということなんだと思いました。
「子供いなかったら、手帳真っ白でしょ?」も、ほんと痛いぐらいその通りで、それ言ったらあかんことなんですけど、とも思いました。
事実、子供がいなかったときの手帳は、白く新品のように本棚に残ってます。
手帳が白い人は人生の方向性がない、というのも、私も根本的にはそうだー・・・とガーン。
方向性・・・なかったな、とよくわかるので。


「まいにちリスト」に斜線を引いてくワークでは、もう抵抗が激しかったです。
手と頭のせめぎ合いになってました。

手で斜線を引くたびに、ああっ、これ以上引いてしまったらほんまに時間がなくなるから引いたら終わりだー、と思いながら引く。
睡眠時間の部分も引かないと、あると錯覚する。
うん、錯覚してたー!これ錯覚なんだー!と引いてから思う。
睡眠部分以外でも、うっすら白い部分はなんとなく自分の時間のようにも思ってたけど、実はそうではなかった・・・と薄々は気づいてた事実を、引いて実感する。

あの、ほぼ斜線柄になってしまいましたけど。というのが私の「まいにちリスト」。
これか、これなのか、とその後しみじみと眺めました。
1週間で残った時間が現実を語ります。
そして、その数時間にできること、というのもボリュームいっぱいに考えてた、と優月さんの健康的な時間の感覚を聞いて気づきました。

そういう時間感覚の違い、その他の自分の不健康さもじわじわと実感しました。
何でもそうなのだけど、当然ながら、理想に合わせる、のではなくて、現実に合わせる(んだって! ビックリした! って思った)
今までずーっと、”理想” に合わせる → できない → 自分を責める → また “理想” を探してくる → できない・・・のループにいたんだろうか、

できなくて、当たり前だったのでした。
そして、それに気づかない、って逆にすごいなと今思ってしまう。
そのときは、それが “理想” だと思ってないし、むしろ超現実ぐらいの認識。
なんでうまくいかないんだろう、で私が見ていたのは” 理想” のほう。ビックリ。
現実見ようぜ。
そして、そんなことしなくても、がんばってるみたいだよ、私。
がんばってるんだって、優月さんも言ってた、でも、これでがんばってるの? って思ってしまった、っつーか言ってしまった、これがんばってるんですか? 
いや、自分のことだから自分でわかんないとって、後からツッコミしときました。
どうやら “のんびりする” のもよくないことと思ってたみたいで。

いかにその “理想” に縛られてるか(こうでなければいけないし、それが一番正しい)、
その “理想” がどれほど高いのか、そして高いことすら気づいてないんだ。
今は逆に感心してしまうほど。ほんとに私、何様だー。
真ん中の1~99がどこか飛んでる。
そして、思ったのが1~99を出す練習が足りてないんだということ。
2個ぐらいなら因数分解できるけど、そこで止まる。
5億円ゲームでも、優月さんがいろいろとポンポン弾む感じで出てくることに、ああたぶん、心の弾み具合みたいなのが違うんだと思いました。
重いんだなー、きっと。こうでなければならないストーリーで重くて、鉄球で毬付きしてるような、ドスンっで終わり。
健康な感じは、空気たっぷりのキレイな色のよく弾むボールでポンポンしてる感じ。

物事の真ん中すっ飛ばし感もありました。
こうしたい! って思ったら、すぐにできるのでなくて、中に工程がたくさんあって、それにも時間がかかる。
来年の『夢かな手帳』にあった “予定はコバンザメ”。
コバンザメ気づかなかった! なんでこんなに時間かかるんだろうって不思議に思ってた! そうか、そこにいたのかコバンザメ。


一番グサッときたのは、”人の人生に乗っかる、反応待ちをしている” ということ。
そう、グサッとくるぐらい、よくわかる感覚だったから。
乗っかられる感覚も、よーく知ってると自信があったけど、乗っかる感覚もよーくよーく知ってた感覚でした。
乗る、明け渡す、その感じ。
今まで何もしてなかったら、ほんとに無意識で今もいるだろうと思うと、とても恐ろしいし、悲しい。

あ、すみません、最上級にグサッときたのもありました。
いや、最上級に目が覚める、かもしれない。
あ、私、自分の時間を自分が一番にしてあげてない、大事にしてあげてない、だから人の言うことが気になるんだ、
あまりのリスペクトのしてなさに、その自分への申し訳なさに、涙も出ました。
ほんま私ごめん、と思ったし、
パンっと言ってくれた優月さんの言葉にも、本来の母親が言ってくれたことのような感じがして、涙出ちゃいました。
新幹線に乗る前も、思い出して目が潤う始末。許されるならホームで泣き崩れるところでした。


交際すること、結婚すること、子供を持つ、ということ。
それらのことが “時間” というものさしからの説明が入ると、ものすっごくわかりやすくて、
私、そういう選択をしたのか、と今さらながらすんごい納得した感じもありました。順序が逆ですが。
そういう点で独身の方はすごく有利です、と優月さんがおっしゃってたのもすごくうなずけたし、
夏の「変容(トランスフォーメーション)ワークショップ」のクラスで、自分の選択したことにグラグラぐたぐたになったのですけど、
何にグラぐたなってるのか、ここでよくわかりました。
『未来日記』にあった “自分というものが少しでもわかる前に、自分がどんな価値観を持ってるかわかる前に、重要な決断はできない” ということが、
ずっとまったくその感覚がわかんなかったけど、
自分というものを知らずに、本来なら知ってからやることを、今やってんだー、そっかー、そりゃすげーことしたな、
自分でビックリするのは、ほんとに順序が逆になってること。

だから、今相当に時間がない中で、本来時間をすごくとってやることをやってるからか、とそのイグチグしたのもわかって、
自分を責める、よりは、すごい納得できたという感じです。
納得、は、責める、を超えます。

世の中の人、大半はそうなってないから、という優月さんの言葉にも、周り見て納得もできます。
キリスト式の結婚式で神父が “なんちゃらかんちゃら・・・誓いますか?” とか言うけど、
そこ、優月さんが言ってたこと言ってくれたほうが、わかりやすくて現実的で優しいとすら思えます。”ちょっと待って、考えるから” という人もいるかもしれない。
うん、私、肯定的にあきらめる、おう、あきらめよう、あきらめます。自分の家族は大好きだから。そこは変わらない。
“悔い改める” です。ぶーたれることではなかったのですね。
#叶えられる速度は、人それぞれ違う” のも、よく思うと当たり前なのに “同じ” だと思ってたところも。だから自分を責めちゃうのか。

ほんとに夢見がちだったのね・・・と痛感する WORKSHOP でした。
“眠りながら、夢を見ながら、生きてる” と優月さんがお話してくれたことも、
その “眠りながら、生きてる” 感覚のほうが、なんかわかってしまうよー、と情けなくなったけど、
それなら、今からもっと目を覚ませばいい。
うん、今より早い今はない、です。
優月さんの手帳も、私にとってはバイブルのようでした。うわっ、眩しいっ、と思いながらしっかり見てましたが、
手帳との信頼度がとても厚い感じがしました。


一つ、もはや変化がありました。
帰りの新幹線で、手帳を広げてみたとき、ハッとひらめいた感じ。
私はいつも「月リスト」の右上の空欄に、単に行事とか、読みたい本の題名を単に書き留めたりとか、
そういう使い方で、なんとなく上手く使えてない感じはしてました。
ここ、今日やった因数分解を書いたら・・・楽しいんじゃない?
毎月、そうやってやっていったら、楽しそうじゃない? 今は月一つだったとしても、楽しそう!
そもそも “人生に生産性がない” のなら、遠慮なく自分のことをやれそうです。

2015年、手帳の最後の「まいにちリスト」は、大事な記念ページになりました。
あまりに斜線で気をとられ、火曜日の予定を見過ごしそうになったけど、
今週眺めるたびに、先週の WORKSHOP 感が確かにそこにあります。ドーンと。

来年も、また一歩手帳と仲良くなろう。
時間のリズムが変わるときは、また斜線で見直していこう。

優月さん、みなさん、ありがとうございました!
大きな大きな一歩になりました。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。