2016.11-2017.02月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.1(後期日程)」ふうらんクラス

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Y. T. さん(30代/兵庫県よりご参加) ふうらんクラス



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この三ヶ月間を歩きとおした私へ

私、お疲れさまでした。

もちろん、これからも続いていく私の人生。
でも、こうして、三ヶ月間を、ひとつひとつ自分と向き合い続けれた事。
私は私を誇りに思っているよ。
よくやったね。よく投げださないでこれたね…。素晴らしい!!!


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現実世界で目の前に起きる、共依存に「はっ!」と気付き、踏みとどまれる様になって。
今回は、そこから、「じゃあ、私はどうしたいの?」と、考える事が出来るようになってきたなと思う。
そう思って、少しずつ少しずつトライしてみる。
怖いけれど、やってみる。

そうして、やってみて、解った事もいっぱいあって。

「0か100」で、物事を観ることも、減ってきたね。
私の人生は私が決めていいんだってことも、思えるようになってきた。

子供と過ごす時間が、楽しくなってきた。

家事と育児が、とってもとっても立派な仕事だと思えるようになってきて。
だからこそ、休めるようになってきた。
手を抜く所も見えてきた。

一つ一つの、この現実世界の時間の中で、どうすれば、私が私を大切にして生きていけるか。
それには、小さな小さな微調整だってこと。

課題をやっていくうちに、「実は…そこ?! それが根底にあったのね!」みたいな気付きがあった。
だから、うわもんをどうしたって変わんないよね。と、思った。


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そして、私の人生は、一本に繋がったものなんだなとも思った。

切れているわけでもなく、折れているわけでもなく。
そこには、痛い傷があり、また、ぐるぐると補強してあったり。
枝分かれしたり、
力が加わって曲がっていたり。

でも、本当は一本の木みたいに、私の人生は繋がっているんだって。

優しく撫でてあげる。
声を聴いてあげる。
水をあげたり、優しい言葉の肥料をあげたり。

ひとつひとつ。
そうする方法で、私は生きていく。生きていいよって声をかけていく。

それが「自分を大切に生きていきたい」なのかな。
そんな風に思った。

ばらばらだった私が、一本に繋がっていく。そんな事も思った。


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これからだって、続いていくこの道。
長い長い、再訓練の道。

でも、それでも、今回みたいに一歩一歩なら、歩いて行けるなって思う。
そうやって、自分を励ましています。

共に歩いた仲間、どうもありがとうございました。
とても、心強かった。いっぱい気付きと、温かさを貰いました。

藤沢さん、スタッフのみなさん、共に歩いてくださり、ありがとうございました。

今月は、誕生日を迎えます。
物心ついてからかな、私は、初めて、産まれてきてよかったのかな。と、少しだけ自分を愛おしく感じています。
そして、これからも生きていきたいなと思っているのです。

とても、心が温かくて、優しくて、とろけてしまいそうな感じ。
皆さんにも、そんな気持ち、おすそ分けします♪




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H. S. さん(30代/大阪府よりご参加) ふうらんクラス



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Sちゃんへ 

Sちゃん、この3か月間、よく頑張ったね。
最初の最初の課題提出で時間が間に合わず、
課題投稿できなかったとき、投げずに、
「Communication Room」に投稿して、
次の課題にも挑戦したSちゃんの選択と行動を、
私はステキだと思ったよ。

だって、
今までだったら…
「一度失敗したらポイッ」
いや、
「失敗しそうになったらポイッ」だったもんね。

むしろ、
「生きること自体もポイッ=死にたい」と思ってたもんね。
Sちゃん「Try & Error」が上手になってきたね。

転んでも、転んでも、しがみつけているね。
よく頑張って練習しているね。
Sちゃんのこの努力、練習量、練習力を本当にすごいと、思うよ。


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そして、
Sちゃんはこの3か月間で、
弟の結婚と、父方の祖父の死・葬儀と、
人生における大きなイベントを経験したね。

弟の結婚式で、
私と弟とが、引っ越し・転校という同じ経験をしていて、
その体験を私も弟も「重大な出来事」と捉えているのに、
そのときの母に対して、
私は「怒り」を持っていて、
弟が「感謝」を抱いていることを知って、
私は「姉弟で同じ経験をしても感じていることは違う」ことに驚いた。
また、
「感謝」できるほどの愛情や関心や安心を両親からもらえた、
弟をうらやましい、とも思ったし、
私はもらえなかったことに悲しくもなった。

また、
祖父の葬儀では、
初めて祖父の経歴(生い立ち?)を知ることができた。
祖父が亡くなってから、なぜか父が祖父の経歴をよく話す。
昨日も、祖父が祖父の父(私の曽祖父)の借金を肩代わりしていた、
という、共依存・機能不全家族に関係のある話を初めて聞いた。


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この私の人生における大きなイベントの流れのなかで、
「流れを切って、立ち止まって」
『未来日記』を書いたり、
ワークショップに取り組んだりして、
自分の声を聴こうとした行動は、素晴らしいと思うよ。

自分の声を聴けたかどうかはさておき、
「即返せず、自動反応せず」
自分のを聞こう、
何が起こっているのか確かめようと、
取り組んだ姿勢は本当に、スゴいと思う。

Sちゃんは「切れなかった、即返した」と嘆いていたけど、
そのことに気づけたこともスゴいし、
初めて取り組んでいるんだから、「わからなくて、できない」のが自然。
取り組もうとした姿勢だけでも、スゴイいことだよ!


いつもだったら、以前だったら…。
何を感じているのかわからないし、見ようともしなかったと思うよ。
そして、
何かわからないけどしんどくて、死にたくなってたとも思うよ。


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そもそも、
弟の結婚と祖父の葬儀と大きなイベントを経験しながら、
朝起きて、バイトに行って、夜寝てという、
いつもの生活もしながら、
ワークショップで共依存と家族問題に取り組むのは大変だったと思う。
実際、大変だった。しんどかった。と、いうか「しんどいです」。

ワークも、
「無理ムリムリムリムリ…。」
と言いながら登山をしている気持ちだった。
周りの景色を楽しむ余裕はなかったです。
とりあえず、体を動かして、足を前に出している感じでした。

だから、今日、こうやって3か月の足取りを振り返って驚いています。
「私、こんなにも努力してたんだ?!」と。
ワークに取り組んでいる間は、
「できているか、できていないのか」にばかり目が向いていて、
私が「取り組もうとしている姿勢」には全く目が向いていませんでした。

そもそも、
「ひとつひとつが初めての経験」なのに、
私はそれが「できているかどうか」にばかり、
むしろ、「できない、わからない」ということばかりに気を取られていた。
「わからなくて、できなくて自然だよ!」
「そもそも、取り組もうとしたことがスゴイんだよ!!」
と、3か月を振り返って初めて気づきました。


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そんな大変なワークにも取り組みながら、
人生の中での大きなイベントも経験しながら、
日々の生活も続けられたのは、
いや、途中で転びながらもしがみつけたのは、もしかしたら…
『夢かな手帳』でスケジューリングして、
「ハッ?! 時間が足りない!」
「余裕~♪ とか思ってたけど、時間ないよ!!」と気づいて、
時間を大事にできたからかな、と私は思っています。


でも、私はめげずに、つぶれずに、共依存の問題に取り組んでいた。
本当によくしがみついた、と思う。

本当に、藤沢さんが言うてはったように、
「私は日々生きながら、同時に、共依存の回復をしているんだな」と思った。
大変で、しんどいけど、ワインに入った一滴のお酢のように…。
私はもう共依存の怖さを知っているし、
私はもう「死にたい」という考えが何も解決しない「子どもの思考」だとも知っている。
だから、「共依存からの回復をやめたい」とは思わない。

むしろ、
もっと無自覚になっている私の習慣・生きグセに気づきたい。
私が誰かの頼みごとを言われる前に察知して、
相手に褒められようと、相手のために行動してしまうことみたいに、
私が頼まれて「即返」する前に、動いてしまっている行動を自覚したい。


私が人生のあるときに、
「自分のためではなく、誰かのために生きないといけない」と
思い込んでしまったその時のことをもっと知りたい。
そして、「こういうことがあった」と認めたい。
もっと私の言葉で私の肌感覚で、自覚したい。

そして、私が損なったもの、奪われたものに気づいて、
私は、私を癒したい。

だから、「コース2/STEP.1(後期日程)」に戻って、
もっと私にとっての「共依存・家族問題」を私の言葉で肌感覚で理解したい。


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そもそも、
このクラスを始める前、
私は共依存を「あるけど見えない、空気のようなもの」と思っていました。

しかし、今、
私にとって共依存とは、
「当然のように私にまとわりついている空気のようなもの」だと思っています。
少し始める前より「空気」に「重さ」を感じるようになってきました。

そして、
その「まとわりつく空気=共依存」には、
私自身が知ろうと、見ようと動かないと気が付けない、解決しない問題だ、
とも思うようになりました。

でも、
まだどこか心の片隅で、
しんどい状況下でも何とかなってきて…、
「回復したかも?」
「そもそも共依存じゃない?」と思っているので、
また、
「放っておけば、切り傷のように自然に治る」とも思っているので、
(私は「麻痺」している?! 今、書いていて気づきました…。怖ッ。)
ココですべらないように、
「回復とは、
自分の力で自分の人生を選んでゆく、大人の力をつけること」だと、
私は私自身に強く言い続けたいと思います。

むしろ、今すぐ、
『夢かな手帳』にメモします。
そして、カウンセリングや本、ONSA WORKSHOP で、
「つながり続けたい」とも思います。


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「日々生きながら、同時に、共依存の回復をすること」は、
本当に大変で、しんどいけど…。
ホンマにしんどいけど…。

今回の「ふうらんクラス」でも、
「そうする」と自分で決めて、行動して、挑戦している私を、
カッコいいと思う。

髪の毛振り乱して、一瞬一瞬必死でしがみついている気分だけど、
しんどいけど、ボロボロだけど、
私は私自身で「共依存の回復をする」「相互依存の世界に引っ越す」と、
選択して、行動しているその姿勢がカッコいいと思う。

「できているかどうか」よりその姿勢がカッコいいよ!
私は、そんな私を誇りに思うよ。


Sちゃん、3か月間、本当によくしがみつきました。
本当によくワークショップとつながり続けました。
頑張ったね。お疲れさま。


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最後になりましたが、
藤沢さん、「ふうらんクラス」の皆さん、
年またぎの3か月間、ありがとうございました。

「無理ムリムリムリ…。」と足下を見ながら登山していても、
皆さんの気配・体温を感じることで、
「ふうらんクラス」の頂上までしがみつくことができました。

一緒に登っていただき、心強く思っていました。
本当にありがとうございました。
またお会いすることがありましたら、よろしくお願いいたします。

本当に、終わればあっという間でも、内容の濃い3か月間でした。
本当に本当に、ありがとうございました。




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K. M. さん(30代/京都府よりご参加) ふうらんクラス



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Kへ
今まで、よく頑張ってきたね。
でも、もう頑張らなくていいよ。
頑張れば頑張るほど、共依存の私は、どんどん悪い方向へ行くのだから…。


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このコースで、この事がわかったことは、とても自分にとってよかったです。
何でも一生懸命だって言われた私は、よく苦しくなっていました。

一生懸命するのに、「どうしてあんなことしちゃったんだろう、どうして同じことを繰り返すんだろう」がありました。
最後の週で、よくわかりました。

気にしすぎる
思いすぎる
緊張
 ↓
思考停止
 ↓
反射的に動いてしまう
引っ張られたくない方へ反応


自分のやりたいことなのに、うまくできないのは苦しいことです。
だから、頑張らない、もっともっと楽に思い過ぎないことを、心にとめるようにしています。


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このコースで、共依存をこのままにしていたらどうなるかがよくわかったことも、私にとって、大きかったです。
怖い事実ですが、コースの仲間と一緒に見るので、大丈夫です。

知れば知るほど、テレビや身の回りに、その事実は転がっています。
自分で自分を守らないと、どんどんひどくなります。

まだ知ったばかり…そんな環境や症状から自分を守るために、ONSA WORKSHOP があります。訓練、訓練です。
そしてなめていたら、ONSA でも無理な状態になってしまうことも、よくわかりました。


私たちは、無意識の赤ちゃんの頃から、一種洗脳されていた…相手に故意はなくても…。
だからこそ、その洗脳から解き放たれるのに、時間がかかるのですね。

ONSA に出会えたこと、感謝です。本当に本当に苦しかったから。


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このコースの間も、混乱に巻き込まれる事が何度かありました。
何もしていなかったら、そこから気付きはなく、ただ混乱して、自分を責めるだけだったと思います。

こうして訓練して、色々わかっても、自分の中の冷たい心とか、どうしてこんな事思ってしまうのだろうという事に、ショックを受ける事がありました。
映画や、本、漫画、色んな芸術作品の中で、惹きつけつけられて読んだものの中に、自分のそういうところと似たような部分があると、怖く感じる時がありました。


そういう部分を、ある本の中では、コップのおりのようなものだと…。

そう考えると、私は自分の中にあるおりを、ずっと、なくそう、なくそうとしていました。


色んな人の生き方を見るうちに、今は少し考え方が変わってきました。

自分達が生まれた環境は自分達では選ぶ事ができなかった。

そしてコップに中(自分)にたくさんのおりをためて、ためて、にごって、おりだらけになってしまった人がいる。

ある人は、そのひとが持った才能で、知識で、ろ過して、自分の本来の姿、生の歓びにかえて、生きている。

それは音楽だったり、芸術作品だったり、人それぞれなんだけれども、そのおりをスパイスにして、いい味を出しながら生きている…。私はそういう人になりたいと今は思っています。
うまく言えませんが…、自分の中に溜まってしまった共依存というおりを、どうにかいいものに変えていけないか…。その方法を今はここで、学んで、できるように訓練しているように思います。

この表現があってるのか、どうかもわかりませんが、今は、これがこのコースを受けて、私が感じたことです。




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C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) ふうらんクラス



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今回も、終わってしまえばあっという間で、でも、濃密な時間でした。

等身大の自分に関心を持って見つめ続け、ねばり続けた3ヶ月。
コメントを振り返ると、私は「今、出来るだけ」自分に誠実で、正直で、やさしかった。

手帳・日記を振り返ると、奮闘した時間の跡が見えました。
手帳の上では言葉にはなっていないけれど、「崩れても、リカバーする。決して自分を見捨てない。あきらめない」という自分の決意がしっかり伝わってきました。

過去の人生で、これだけ自分に必死になった時間はありませんでした。
そして、「理想(空想)の自分」ではなく、「この現実の、等身大の自分(未熟で失敗もする)」に向き合ったことも。

今まで築き上げてきた、「現実の痛さ」「残酷さ」「自分の無力さ」「未熟さ」「過去の痛み」と向き合い、本当に沢山怒って泣いて。
ただ涙があふれるままに、温かく見守った。
浮かび上がってくる感情を、ひたすら拾い、整理し、表現して…そんな地道な時間の積み重ねでした。

「共依存を治そう!」というより、自分自身と自分の中の子供を理解しようという気持ちで臨みました。
今までで一番、「自分(自分の病・傷・個性)を理解しよう」という気持ちが強かったかもしれません。


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PAY FORWARD を書くにあたり、自分のコメントを振り返って、私の心はほんの少しずつだけれど、
「受け身から能動的へ」
「子供の感性から大人の感性へ」
「非現実的な思考から現実的な思考・行動へ」
変わってきているのではないかと感じました。

まとめるのが難しいので、ここからは気付いたことを箇条書きにさせて下さい。


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【変化したこと・気付き】

・1回目の時は、どこか人ごとだった。(今回は、2回目です。)
今は、「自分もそうだった」「自分のことだった」と感じるようになった。

「悼む」の課題を読み返した時。
「自分のせいじゃなかったのに、もう2度と戻らないし、誰からも返してもらえない」ことを感じた時。
息が止まるほど苦しかった。

「自分のことだ」という実感が強くなった分、前より感情を感じ、捉えられるようになってきた。
(と同時に、コメントを振り返ると「こんなこと書いていたっけ?」という感覚も、向き合いたくない感覚も出てくる。すべりやすさもある。)

それでも、まだ悼み足りないとも感じる。かんじんの「どうしたい」が出てこない。

今分かるのは、私は、本当は達成とか特別な存在になるとかではなく、ただささやかに愛し愛されて幸せになりたかっただけ。
安心して、家族が平和に仲良く暮らしたかった。

ちゃんと1人の人として尊重されたかった。1人の人格として扱われたかった。
対等に平等に、扱われたかった。
軽い存在として扱われたのが悔しかった。

自分で決める前に決められて、やってみる前に取り上げられて、空想するだけで終わってしまって、悔しかった。
人間らしく生きたかっただけ。人間らしく普通に幸せになりたかっただけ。


今もあきらめきれないものは、「愛し愛される人生」「自分が主役になる体験」。
具体的には、まだ分からない。

でも、それでいい。私は今出来るだけのことをした。
分かるまで、何度でも自分に付き合いたい。

・つらかった、怖かった、悔しかった、泣きたかった、って気持ちを、自分でしっかり受け止めた。
全てのコメントがそうじゃなかったかもしれないけど、考えるんじゃなくて、その時心からあふれてきたものを素直に、まとめずに書けた。
いい意味で、「実況中継」になってきた。


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・時間の使い方に、ねばっている。
いつの間にか、しっかり手帳(予定・時間)と向き合わないと、気持ち悪いと感じるようになった。
土曜日の時間が整ってきた。どういうリズムで過ごせば自分が満足できるか、自分で分かるようになってきた。(反対に、日曜(家に姉がいる時間)は改善の余地がある。)

・健康管理、お金の使い方への関心が深まった。
(そのせいか、いつもワークショップ期間中1度は胃の調子が大崩れするけれど、今回は OK だった。朝食も、前よりしっかり食べるようになった。)

自分の収入の中で生活していくことを、より意識するようになった。
実際、お金の使い方を見直し始めたし、生活上のことも工夫するようになった。



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・自分の共依存の元である母のやっていたこと(私が巻き込まれた構図)がはっきりしてきた。
それを理解することで、大きな影響をうけた自分がしていることがより見えるようになった。

私は、母への反発から、自分で自分の人生を破壊してきたのではないかと思うようになった。
(たしか、変容のワークショップでその話を聞いた時は「自分は違う」と思っていたけれど、今は自分もそうだったと感じている。)

「ただ単なる『反発』『反応』で人生を終わらないためには?」に意識が向いている。


・失敗の付き合い方がうまくなってきた。「ぐしゃぐしゃポイッ」をしなくなってきた。
「だから、ダメなんだ」「なかったことにする」「出来たことにする」ではなく、学び=自分の財産として捉えるようになってきた。過去の失敗の中にも、良かったところを自然に探している。
(「仕方ない」「どうせ」って思うことで、その経験を100%捨てて来たことに気付いた。)

「なかったことにしたいこと」を思い出しても自分に厳しい評価を下さず、割と自然に「自分を理解しよう。自分の痛みを分かってあげたい。もう、同じ痛みを繰り返さないために。」に、意識がシフトしている。
(自分の痛みを真正面から受け止めるようになってきて、そうしたら痛みも優しさもリアルに感じられるようになった気がする。)


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・かつて、私に取って「私」は顔も名前もない存在で、取替えのきく存在だった。
だから、その時一緒にいる人によって違う色に染まれた。今も、そういうところはなくなった訳じゃない。

でも、今は、そういうのに違和感を感じるようになった。
人に自分を変えて欲しいとは思っていないし、私は、私でいたいと感じている。
自分の意思を無視して何かされるのが、すごくイヤ。


・共依存的な人、機能不全っぽい人を、敏感に感じ分けられるようになった。
そして、自らまかれにいかず(過去の私は、そういう人を助けるのが好きだった)、距離をおくようになった。
世間で言われていることや周りの人の意見を、まるのみしなくなってきた。自分の境界線の中に入れる前に、しっかり観察するようになってきている。

身近な人に対しても、聖域なく、今出来る精いっぱいで見切った。
そして、男性に対してはけっこう気付いている(というか、見方が辛い)こと、逆に、女性に対しては目がくもることに気付いた。
(心のどこかに、まだ「母なるもの」を満たして欲しいと願う気持ち(弱み)があるからだと思う。)


文節区切りの線

・子供の頃の自分は、あまりにも苦しかったのだと、今できる限り理解した。
その素直な想いを、手紙にした。
今まであまり突っ込んで書けなかった父と、一番身近な姉にも、正直な気持ちを書いた。

・「なぜ自分は、共依存的な人を、やすやすと自分の境界線の中に入れていた・入れたままにしていたのか?」にも向き合った。

過去の自分を振り返って、ピュアに人を信じ、相手から働きかけて来た人を簡単に自分の境界線の中に入れていたと気付いた。

なぜか?
境界線を知らなかった。感情がまひしていた。孤独で、人からの関心にうえていた。1人になることを恐れていた。(私は、子供の頃から「見捨てられる不安」「1人になることへの不安」が強かったことを思い出した。)
自己肯定感が低いから、「こんな私に関心をくれるなんてありがたい」「自分は何も出来ないから、人に尽くしてよくしてもらおう」と思っていた。
「相手の役に立てば、言う通りにすれば、相手は私の欲しいものを与えてくれるだろう」
これは、母との間で築かれた「為にならない処世術・魔法の思考」だった。

そして、私は「相手からの関心(言葉をかけてもらうこと)」=「言葉(5%)」に弱かった。
(私は、機能不全の、言葉(コミュニケーション)の欠落している家族に育った。だから、「言葉」にうえていたのかもしれない。うえているのは今も一緒かもしれないけれど、今は不器用ながら、自分で自分に肯定的な「言葉」を贈り始めている。)

「関心がほしい」から、「相手を優先する(自分の想いを大切に出来ない)」、「自分の素直な意見を言えない」って、変な条件付けだと分かって来た。


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・ドラマやミュージカル、アーティストを応援していたことを、「空しい」と感じるようになった理由が分かった。
私は、自分の人生が不満足だから、自分が体験出来なかったから、自分の外から「感動」を補給することで、自分を充足させようとしていた。
「人」の人生を疑似体験することで、自分がそうなったかのように錯覚させ、自分の空しさ・痛みをごまかしていた。

私は、「自分」がいなかったから、人を自分の中心にすえていた。
そして、「人」だけでなく、こういった自分の外にある「楽しむもの」にも、同じ付き合い方をしていた。

疑似体験だけでは空しい、と気付いてしまった。
でも、孤独だった過去の自分が、そういうものたちに支えてもらってきたのも確か。
付き合い方が間違っていた。
だから、心を込めてお別れの手紙を書いた。

「楽しむもの」は「楽しむもの」なんだなぁ…と腑に落ちた。
今は、いい意味で「人ごと」と感じているし、前みたいに欲しいとは思わなくなってきた。
例えば映画を楽しんでも、登場人物と自分の間に境界を感じられる。(以前は、同化し易かった…していたかな? そういう意味では、感性が次第に子供から大人に変わって来たのかもしれない。)


文節区切りの線

・私も、心のどこかでまだ「夢さえかなえれば」「この状況から抜け出せる」と思っているかもしれないと気付いた。
「夢」は、慎重にいきたいと思う。
今は、自分の中だけで楽しみたい。

・私の心の底には、虚無感が広がっていると気付いた。
「どうでもいい、どうなってもいい」「どうせ、誰も私のことが大切じゃない、関心を持ってくれないんだから」と、心のどこかで思っている。

こんな想いのベースも、子供の頃にあると気付いた。
私は、自分に関心がもらえないことが、どうしようもなくつらかった。
(子供の頃の体調不調は、自分がつらいと表現したかったこと、家族の問題を見えなくさせる役割の他に、「関心が欲しい」が隠れていたことに気付いた。私は、無意識に「具合悪い時はやさしくしてもらえる、関心がもらえる、攻撃されない」と思っていたと思い出した。)
そのことを理解した。

そして、今は「止めるのも、救うのも、もう、自分しかいない。いじけていたって、誰も私を救ってくれないし守ってもくれない。大人になった私には、もう、そういう人は求められない。」と気付いている。
大人の自分が、子供の自分の痛みを受け止め、自分に関心を注ぎ続けている。


文節区切りの線

・誰かに分かってもらうのではなく、自分で自分(つらかったこと・病・個性・ニーズ)を理解しようという気持ちが強まった。

自分のもう1つの症状だと感じている、強迫症にも向き合った。
向き合うと決意して現実に行動したら、心に響く体験本、信頼出来そうな情報源、いざとなったら通えそうなよさそうなクリニックが見つかった。
そして、今向き合った限りでは、「傾向がある」状態だと感じた。
私の場合、この症状の根も、共依存と深く関わっていると感じているので、今は共依存の根に向き合うことを優先すると決めた。
(現実的な問題に、現実的に対処出来るようになってきたと感じて、ちょっと誇らしかった。)

根っこには、私が子供の頃感じていたことが影響していると感じている。
私は子供の頃、心の奥でずっと「心正しく、よいことを思ってよいことをして、欲しがらずに、人を優先して助けて与えていれば、誰か見ていてくれて、神さまも見ていてくれて、きっと幸せになれる」と信じていた。

「守ってもらえない」「守ってくれる人・頼りに出来る人がいない」と感じていて、すがるものがそれ位しかなかったから。
「神さまに守ってもらえるように、神さまに好かれるようないい子にならなきゃ」って思っていて、そこから外れた自分のことを、「ダメ、そんな自分認めない」って批判していたのかもしれない。

「つらいことを感じない」「考えたくない」って、身体からのメッセージでもあったのかもしれない。
うまく書けないけれど、子供の頃の自分の苦しさ・痛みを、またひとつ理解できた気がする。


文節区切りの線

・課題を通して、本当に沢山の記憶と感情と思い込みに向き合った。
私の中では、根強い「べき」がまだ幅をきかせている。

「女性はがんばっても、無駄」「年長者は立派であるべき」「傷つくべきじゃない」「私は強くあるべき」
「大人であるべき」…
「強くあるべき」=「弱音をはくべきじゃない、見せるべきではない」
だから、ありのまま感じる、語ることの方が難しいのかもしれない。(ONSA WORKSHOP では出来るようになってきたけど、現実では難しいこともある。)

「健全であるべき」「自立すべき」
WORKSHOP などの回復で知った知識を、無意識に「私の意見」と思っているかもしれない。
健全な意見でも、うのみでは自分の身につかないと思う。

自分の本音をつかむことは、本当に難しい。
「ありのままを感じる。感じたことを大切にする。」
このシンプルなことが、私に取ってどれだけ難しくて貴重なことか。
(でも、「ありのまま」でいられる方が本当の意味で強いのだと思うし、そういられるようになりたい。)

まだ沢山の「べき」「だって」の制限がある。
人にも自分にも、まだまだ無意識で厳しい(けれど、気付いて止まる)。

特に、これからの人生のこと。
今回、私は過去の色々なことを「仕方ないよ、どうせ」と、最初からあきらめて処理していたことに気付いた。(してないと思ってたのになぁ…。)


文節区切りの線

最近、大分自分の感情をとらえることがうまくなってきたと感じていたから、今の自分の状況を「これでよかったのかな」と感じていたけれど、まだ自分の考えが大分「制限」に捉われていると気付いた。

これから先のことを思う時、「(仕方ないから)こうするしかない」に、自分の感情を合わせようとしている気がする。
自分の本心ではなく、まだ「状況に反応」しているだけ、あきらめているだけかもしれない。
「つかめた」と思えるようで、「つかめない」。

一方で、「普通であるべき」「人と同じであるべき」からは、ほんの少し遠ざかった気がする。(特に、愛情・家族に関すること。)

私は、家庭的に恵まれて幸せで素晴らしい女性を見ると、どうしても「私は、そうなれない」「私は、だから(温かい家庭で育てなかったから)ダメなんだ、幸せになれない」と感じてしまう。

でも、考えて見れば、私は、そもそも憧れ尊敬する人のような家庭環境に恵まれなかったし、のびのびと手をかけられて成長出来る環境も、処世術も経験も持てなかった。
それなのに、「同じように」なれる訳ない。それを「出来ない」って責めるのは、おかしい。
ずいぶん自分に無理を強いていたのだと気付いた。


文節区切りの線

人と同じようになれる訳ないし、なったところで、それが自分に向いていて自分が幸せを感じられるかも分からない。
それならば、自分に合った、自分に向いている幸せを見極め、近づいていきたい。
自分の本心を分かった上で、自分の希望に合っていて、かつ現実的な選択をしたい。


『未来日記』を読み返していたら、今の自分の気持ちを1番表している文面があったので、抜き書きします。

「見えてくるほど」焦っている。
でも、今一番大切なのは、「自分を知ること」「個性を、病を理解すること」「心をいやすこと」「大人の処世術を身に着けること」「生活(お金・時間・身体を含めて)を整えること」「仕事を充実させること」「独立準備をすること」。その上で、「人間関係を豊かにしていくこと」だと思う。
(今の私は、まだ「がんばればがんばるほど、成果は人にいく」状態だと思う。)

私は、強迫症と虚構の世界に逃げることで、うまくいかない現実・失敗と向き合うことを避け続けていた。
そのことが私を成長させず、私を苦しくさせた。

今、本当の意味で現実的になることが必要。

「不安」を具体的にして、現実的に対処が必要なことなのか、症状からくる不安なのか明らかにする。
その上で、対処が必要なことは方法を学び、少しずつ現実と向き合うことで変えていきたい。


文節区切りの線

「人と同じ幸せ」じゃなくて、「自分に合った、向いている幸せ」を見つけたい。
過去の自分、状況には、もう戻りたくない。そして、「自分の」幸せのあり方を見つけたい。
もっと自分の本音に正直になりたい。
「感じること」は、ありのままでいい。ありのままが、いい。
最近、やっとそう思えてきた。

もう、誰かや何かを待つのは、止めよう。
人に何とかしてもらうのではなく、状況をあてにするのではなく、「私の過去の痛み」「損なわれたもの」「損なわれ続けているもの」「今の私のニーズ」を、まず私が見つけて理解しよう。

自分で決めよう。自分で立とう。
自分で自分のニーズを満たしていこう。

こんなちょっとのことが、今の私のかけがえのない財産。


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最後になりましたが、藤沢さん、スタッフの皆さん、「ふうらんクラス」の皆さん、3か月間本当にありがとうございました。
(書きたいことは沢山あるはずなのに、言葉になりません。)

私は、まだ悼み足りないし、過去の傷も残っているし、これからどうしたいか本音が分かっていないし、基礎がしっかり身についているとは言えないですが、1回先の景色を見てみたくなりました。
(Web. WORKSHOP は、先に進んでみようと思います。)

先へ進んだ上でまた基礎に戻り、納得するまで、出来るまでやる。
これを自分に許し、自分を愛し励ましながら進みたいと思います。
これからも宜しくお願いします。




タイトルはじまり目印

A. K. さん(20代/静岡県よりご参加) ふうらんクラス



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このコースは初めてで、私は課題についていくのがいっぱいいっぱいでした。
でも、今の私にできるせいいっぱいでできたと思うし、自分の問題に前より集中できるようになったと思う。

同時に、私は、今まで自分の問題、自分の人生に向き合うことが全然できていなかったのを実感しました。
色々と見ないフリしていたことに気付けた。

今まで、よく焦りを感じていたけれど、それは、他の人を見て、その人のできることやペースに感じた漠然とした焦りでした。
本当に他人重心だったということにも改めて気付けたと思う。


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今回、課題をやっていくうちに、自分の現状はどうだったかが前より見えてきて、共依存という問題を放っておいたら、(今も大変なのに)もっとひどくなると感じて、焦っています。
私の時間やエネルギーといったものは、限られているから、他の人のことに首を突っ込んでいる場合ではない。

ただ、焦ってエネルギーを浪費してしまうのではなくて、本当に自分のことに集中しないと、と思えるようになってきた。
コースの後半になってやっと私の実感が追いついてきた感じがする。
今まで、わかっているつもりだったんだ、と思う。


コースの最初を見返すと、心で感じたというより、頭で、こうのはずだとか、こうあるべきが先行していたように思います。
心が感じる「おかしい」にフタをして、ちゃんと現状を見れていなかったから、問題を問題とも思えていなかったし、一向に現状は良くならなかった。

自分の問題は何か、課題についていくことで向き合う練習をして、本当は何が問題だったか、どう感じていたかを振り返って、一つ一つ見ていく。
今まで、全然できていなかったことだ。
振り返ると、日記をつける、課題をする、そういったことをやっていくうちに、少しずつできるようになることが増えていてうれしかったです。


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私は、「0か100」かという思考がけっこう強かったことにも気付けた。
なにか、上手くいかないことがあると、全部だめだ、と放り出してしまっていたけれど、前より粘って向き合うことで、問題を「見切る」ことが増えた。

そうして、私はどうしようか、どうしたいかと考えることにつなげ始めている。
まだ、実際に行動に移すことは苦手だけれど、それでも以前の私を思うと前進できたと思う。


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今の私の状況を苦しくしている考え方、そしてそれがどう私に身についてしまったかに気付くことができて良かったです。
今回、自分のことでいっぱいいっぱいで、コースの仲間の課題はさっと目を通すくらいしかできなかったけれど、それでも、自分では全然気付けていなかったこと、はっとすることがたくさんありました。

みんな、前に進んでいるというのを感じて勇気づけられました。
このコースでご一緒した、みなさん、ありがとうございます。

藤沢さん、ONSA のスタッフのみなさん、大変お世話になりました。
ありがとうございます。



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ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。