2020.09月開催 「境界線ワークショップ」ほりほっくクラス

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M. K. さん(30代/福岡県よりご参加) ほりほっくクラス



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はじめて「境界線ワークショップ」「インナーチャイルドーワークショップ」に参加させていただきました。
参加するご縁に恵まれたこと、うれしく思います。
ありがとうございました。


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まだなんだか不思議な感じがしますがとても楽しかったです。

やっと私は今、今から先の私の人生に責任をもって生きるというスタートラインに立った気がします。
不安はありながらも走る準備万端なので、きっとクラウチングスタートのポーズでしょう。

「パァン」と音がしたら走り出しますが、なにせ運動不足、きっと足がもつれてこけてしまうと思います。
そもそも短距離走ではない。


力みすぎ。でもそれでいいんだと。
これからトレーニングをして、走り方を習って、走るための筋力をつけて。

急ぎすぎだよ~もっとゆっくりしたペースじゃないと、まだ先は長いよ~とか。
休憩して、お水も飲まないと、とか言われながら走っていくのだと思います。
そのペースや走り方を教えてくれる、伴走者をみつけた気持ちです。


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振り返ってみれば、ずっと同じことを説明してもらっていたんですね。
大切なことはそう多くはなくて、繰り返し、繰り返し、私にわかりやすい形で。

おかえりなさいと言ってもらったので。ただいま。
そして行ってきます。




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T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) ほりほっくクラス



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ワークショップ・クラスが終わってから過去最大に、ふわふわとした1週間だった。

「私は何をしたいのか」
「私の人生の時間を何をして過ごしたいのか」
を問いかけ続けていた。


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回復の道を歩む中で、私は自分が抱えきれなくなった事柄から、物理的な距離をとる決断をした。
その選択のおかげで私は今、以前よりずっと安心して暮らしている。

それなのに、イライラする気持ちが収まらない。

日々感じるストレスや体の反応から、結局のところ、私は「自分の境界線」に無自覚で、何を取り込みたくて、何を断りたいのかがわかっていない。
本当の自分がしたいようにしてあげられていないから、こんなにイライラしているのでは…と思うようになった。

そして、それは「合っていた」と思う。


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数年前の私は、自分の時間や能力を搾取されている感覚がなかった。

ひとつ進むたびにわかったことはいつだって、私自身が自覚し、大切にできることだけ、相手のそれを理解でき、お互いを尊重する選択ができるようになる、ということだ。
境界線も、時間も、価値観も、人生も。

嫌なことから距離をとったのに、以前よりずっとストレスを感じる自分に怒りすら覚えていたけど、そのイライラは成長の証だったみたい。


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自分のことを大切にし、自分自身で自分を満たせることが健康なことであり、当たり前のことであると、私は知った。

そして、勇気をもって
「私も、そういうふうに生きてゆきたい!」
と宣言できるほど、私は進んできたのだ。

ただ、今はまだ「自分」への理解不足が残っていて、だから、そのスキルが足りなくて、上手くいかないからイライラしている。
そういうことなのだ。


私には、まだまだやることがたくさんある。
自分の人生を、今よりもっともっと生きられるようになるって、なんて楽しいことなのだろう。

がんばるけれど、がんばりすぎず、これからもそのままの私で進んでいけばいい。




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) ほりほっくクラス



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予告されていたとおり、いや、想像をはるかに超えて、大きな日になった。

はじめて体験した、ONSA WORKSHOP(対面式)で伝わる気迫、真剣さ。

自分が自分のことに本気にならなくてはいけない。
ほんとうに、心からそうしたいと思った。


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嫌なものが近づいてくる想像をして、たしかに「境界線」はあるとわかった。
その中にある大切な自分自身を守ろうとしているのだ、ということも感じた。

実際にはどうだろう。
自分の境界線はとてもあいまいで、ぐらついてばかりで、あらゆることの出入りを許してしまっているような気がする。

できる限り差し出すことは当たり前で、それこそが自分の価値のように感じる。
そこを「怠る」ということに罪悪感があって、相手に誠実でないような気がする。

ほんの少し、つらいかもという気持ちがよぎっても、そこは「持ち前の」忍耐力や使命感を駆使して乗り越える。
けれど、その消耗の連続がどうも苦しいということにも、うすうす感づいてきていたのだった。


侵入も許している一方で、自分も相手に侵入するような感覚をもっていたかもしれない。
あるだけの時間を割いてほしいとか、何でも打ち明けてほしいとか。

それがかなわないということは、自分が至らないせいで、自分に価値がないからだ、という極端な結論付け。
自分を責め、ときには憐れみ、かなわないことが自分にふさわしいのだと納得させる…。

これらのパターンは「快い」はずはない、ということを、まず理解した。


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TEG のグラフの形が全員違っていることに、驚いた。
同じ人物でもその形が変わることがあると聞いて、もっと驚いた。

「行動パターンが変わる」
「それまでのやり方は必要なくなる」
自分にも起こりうること、というのはまだ信じがたいけれど、そういうこともあるらしい、と心に留めておこうと思う。


科学的観点から、自分の行動パターンは本当に大変、ということも分かった。
特徴を聞くうちに、思いあたるふしが次々に反応して涙がにじむ。
本当は自分がよく分かっているのだろう…。

たしかに、身につけてきたやり方はいま持っているこれで、そのやり方なら大得意。
けれど、それは実は自分にとって苦しい方法で、この先長くは続かないんじゃないかな、と「まともな自分」が言っているらしい。


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チェアワークの体験も、自分にとってとても大きなものだった。
自分の心と体がちゃんとあって、自分が自分のことをわかっているのだ、と感じた。

ワークショップ・クラスで何度か実践した中でも、嫌な言葉を受けてショックな状態で実践したチェアワークが印象深い。
特に、「がっかりした」という言葉に瞬間的に強く反応して、そのあとの言葉も次々に自分のなかになだれ込んでくる。

過去に、似たようなことを言われて傷ついた自分を、抱えたままなのかもしれない。
そんな自分の中の一部と結びついて、涙があふれるのを感じた。


動転した状態で、とにかくチェアワーク。
涙がさかさまに地面に向かって流れていくのを感じる。

言葉を浴びたショックがおさまらず、混乱している頭の中。
とにかく、息を吸って、吐いて、身体の力を抜くことだけに集中する…。


起き上がってみて…とても不思議な気分だった。
ついさっき反応した、いやな感じの記憶は新しいままだけれど、まるで長時間泣いた後のような、スッキリした感じ。

少しだけさっきと違う場所にいるような心地がする。
泣きじゃくっている子供のような自分を見つけて、頭をなでてヨシヨシとしたいというイメージが、なんとなく浮かんだ。

攻撃するほうに加担していたなら、それこそ「ボッコボコ」。
「ヨシヨシ」ということは、いくぶん距離を置いて、客観的に自分をとらえられているということ。
たしか優月さんからそのような言葉を受けて、大いに納得した。


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冷静に考えれば、そのときの自分に直接向けられた言葉ではないにもかかわらず、想像するだけで反応してしまう自分がいるということ。
自分が震えてしまう、否定されたと感じる、価値がないと自分で追い込んでしまうことにつながる言葉の数々。

日常的にも、必要以上に自分が「反応」して、不安定になることが、しょっちゅうあるような気がする。
そんなときはきっと、瞬時に「いま、ここ」の自分から離れていって、頭がぐるぐるとしてしまうのだと思う。


この体験以降、動揺したり、反応したりしそうな感じ、
「いま、自分から離れそうだな」
という感じに、少し敏感になってきた気もする。

自分自身を冷静に見る。大人の自分として対処する。
そのためにチェアワークをした方がいいと感じるタイミングに気づいたら、意識的に、実践していこうと思う。


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「断る」ということは、練習であっても到底できるはずない、というイメージがあった。

とにかく罪悪感。
自分が至らないせいで断ることになる、相手にどう思われるだろう…ということが自分の中をぐるぐるし始める。

最初に発してみた言葉は、自分のものではない、遠いもののような感じがした。
罪悪感がいっぱいで自信のない、か細い声。
少しずつ練習し、チェアワーク後には、少しだけ罪悪感が減ったように感じた。

「断る自分にも、事情がある」、ということが浮かんだ。
そして、きっと相手にも事情があるのだということを思った。

相手の思いを推し測るようにしたり、期待されるものを探し続けたりしてエネルギーを消耗するようなことがよくある。
けれど、それぞれが自分のことを伝えているだけ、だとしたら、自分もそのようにできると良いのかもしれない。

自分が伝えたいことを、きちんと自分の声で伝える。
この練習を重ねることで、エネルギーの消耗のしかたを、少しずつ違う方向に向けられるかもしれない。


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新しい発見、大きな気づきがあって、新たに自覚してきているのが、「怖い」という感情。
これまではこの行動パターン、このやり方でやってきたし、これしか知らない。

これで自分を支えているのに、その方法を手放さなくてはいけない…?
やり方を変えたら、自分が無くなってしまいそうな怖さ。

誰かによく思われるとか、正しいとか、期待される(気がする)答えに突進しなくても良いとしたら、いったい自分は何がしたいのだろう。

「自分が無い」のだということにも気がついてきた。
自分が空虚、というのはこのことのようだ、と思えてきた。


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自分で自分の答えを決める。そのことがこんなに怖いと思うとは。
いざ向き合おうとすると、とてつもなく難しいことに思え、オロオロしている自分を感じている。
それだけ、真剣に考えることを後回しにしてきていた。

そして、以前の自分ならば、その怖さへの対処(逃避)として、簡単にラクな方、慣れ親しんだやり方に、戻っていっていたのだと思う。
戻ることに違和感も持たず、それが自然な流れだったのだと思う。
いまも、その戻りそうな感じもよく分かっている。

けれど、今の決意はちがう。
少なくとも、それが「快くない」ということを、自覚している。

これから、自分がどうありたいかを真剣に問うことを、続けていこう。
きっと時間はかかると思うけれど、自分の力で、自分の望む方向を見つけ、選んでいこう。
自分が自分を大切にするということを、本気で、やっていこう。


優月さん、関わってくださる皆さん、お仲間の皆さん。
このクラスでご一緒できたこと、とても心強く感じています。
ありがとうございました。




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A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) ほりほっくクラス



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わたしは「自分が」「感じた」ことを基準にして決めていいんだな。
そのことが今回感じられた一番ありがたいことだった。

好きか、嫌いか。
それは自分の感覚のことを言っているんだ。
わたしが感じた通りでいいんだ。
そのことがとてもとても自分にとって大切なことだった。


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わたしはその自分の感覚を信じられなくなるような反応をされてきて、客観性ということの意味が混乱してしまっているのだと思った。
客観性というのが、自分の感じることがおかしい、という風に思ってしまってた。
人と人とはそれぞれに違う、そしてそうではあっても、「あるある。そうだよね。わかるよ。」という気持ちもちゃんと存在するし、それは嘘でもヤラセでもない。
本当にわかるのだし、感じる。

それが共感ということ。そしてそれはなんどもいうけど嘘でもヤラセでもない。
そしてそれは完全一致とも違うものなのだ。


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わたしは自分の感性を放棄して、相手との完全一致を目指さなければならないかのようなそういうプレッシャーを強いられてきた。
すごく苦しくて辛いのは完全一致のためには自分を殺さなくてはならないから。

そしてそれを強要されてきたのだから苦しくないはずがない。
それを今も繰り返してしまうのだから、苦しくないはずがない。
本当の自分を投げ出してしまっているのだから。

周りからどう何を言われようとも、今自分がどう感じているのか、ということは揺るぎないことだし、わたしにとってはそこが唯一のスタート地点なのじゃないか。
そのことを「わがまま」とか「身勝手」なのだと言われてしまう気がすること、これがわたしが手放してもいい負の遺産。


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チェアワークをした後の自分の足の感覚。
まるでミッキーマウスの靴ぐらい大きな力強くてあったかいどっしりとした鉄の靴を履いてるかのようなあの感覚。
それから、ノーと言ってみるときの相手との押し合いへし合いの感触。

日常の中ではわたしはまたゼロに戻ってしまっている気がして、それを感じるにはまだとても程遠いように感じるけれど、自分でも意識しないときにぽろっとでてくることもあると思った。

あ、なんだ今の。自分が自然にそれをやり始めてる?
そんな風に感じることが時々ある。

そうだ、わたしは確かに自己主張をし始めている。
それはじわじわと出てきてる。
わたしがコントロールしているんじゃなくてそれは自然と出てきていると思う。


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距離を取ることが怖い、だから断れない。
そうやって言葉を詰めて要約しちゃって誤魔化してる。

でもその怖い、ということをもう少しスローモーションで見てみる。
そこには自分の感じたことを認めるのが怖いというのが最初にある気がした。
ほんとはそこが出発点で良いのに、そこに降りてゆくことがはばかられるような感じがしていた。

わたしは嵐のような胸の空洞に吹き寄せられてしまうものと物理的な距離を取るためになんとか踏ん張ろうとしているんだけれど、多分今一番難しく感じることは自分が感じていることを素直に認めることなのかもしれない。


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境界線は部分的に引ける時間を区切ってひけるフレキシブルなもの。
そういう感じが、できないけれど感覚としては少し掴めてきた気がする。

わたしはつい全部閉じ、をやろうとしてしまうし、それしか道がないものだと信じこんでいる。
でもそれをやるとまた孤立してしまうんだ。
閉じこもることとは違う何かやり方があるようで、それをもう少し手探りしてみたい。

今まで「わからないふり」をしてきたことがある。
本当は知ってるしわかってるし感じてるのに「わからないふり」で切り抜けてきたことが何かある。
とぼけないで、きちんと感じて、そして感じたことをアイメッセージで表現してみる。
これが次の課題かな。


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今まで自分が不安だと思っていた感情が、ひょっとしたらこれが罪悪感なのかもしれないと思い当たった。
なんだかわからないモヤモヤしたものが胸のあたりを渦巻いている。
これが不安でなくて罪悪感なのかもしれない。

そうでないことを許されなかったから習慣として根付いてしまった。
いらない反応があるということかもしれない。
これはわたしの中にあるだけで、今目の前にいる相手とはあまり関係がないかもしれない。

思いつきと反応に絡め取られていく自動運転の自分と、ちょっと待って、と遅れてついてくる自分。
そして冷静になって、違う選択をしてみようとする自分。
時間差でいろんな自分が重なり合っている。


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台風みたいで嵐みたいでしんどさはまだまだいっぱいあるけど、いっときいっとき、その時にできることで自分を選ぶ選択をすることを思い巡らしてみたり、選択しようとしている自分もいる。
例えばすぐに力が入ってしまう肩をふっと下ろしてみたりとか、ちょっとゴロンと横になってみたりとか、ちゃんとリラックスしてお茶を飲んでみたりとか。

苦しくて当然だったこども時代を過ごしてきた自分。
ここまで生き延びてきてくれた自分。

今までがあったからやっとようやくここまでこれたし、だから今安心感が少しずつわたしの中に生まれてきてる。
一発で完璧にできなくとも良い。
その感じが少しは実感できるようになってきた。


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ほんとによく生きぬいた。
わたしであることを奪われて、いやむしろ自分から諦め投げ捨てて、耐えに耐えてきたというよりもすね抜いてきた歴史の上に今のわたしがいて。

苦しかったことを苦しいと認めて、拗ねてしまった自分をなんとか理解してあげたい一心でとにかく前に進もうとしている。
自分の力を信じて自分力で生き始めようとしている。
ほんとはちゃんと自分の力で生きられるのだということを認めようとしている。


今の自分には物理的な危険はもうないのだ。
その現実にちゃんと目を向けて冷静に受け止める。
だからやってみることもできる。

そして安心安全が第一だということ。
自分で確かめて、自分が安心できるのなら自分がゴーサインを出す。
本当にそれがわたしの本来やっていいこと。


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失敗することも間違えることも今までよりも怖くなくなってきた。
それは失敗した時、間違えた時にわかる。

失敗しても自分を叩き潰すような、そんな酷い仕打ちをもうできなくなってきた。
もっと安心して失敗できてる。
冷静になれるしそこから学ぶ、というひらけた気持ちもわかる。

あまりにも開けていて、拍子抜けするので、少し罪悪感は感じてしまうけれど。
自分の中に、自分の失敗や間違いを受け止めてくれる受け皿も感じている。

失敗するスペースにさえ、罪悪感を感じるなんていったいどれだけ取られてきたんだろうか。
それはそれでとてもショックだ。


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今までカラーペンでさえ使うことができなかった。
今はもういろんな色をノートに塗り楽しむことができる。

これは人には言えない恥ずかしいことだ。
え、大丈夫? って言われそう。
でも本当にそうだった。
わたしはそれぐらい自分の価値を捉えられなくなっていた。

考えるってことが心に聞くことだったんだと気づいた自分。
ほんとうに自分の感じることを感じるままに大切にしてもいいって、ほんとにほんとにそうらしんだって、ゆっくりだけれど信じようとしている。

そして大丈夫と声をかけられる。
夜寝る時に感じたあの自分という器にハグしてもらう感じ。
自分の身体という器の居心地が良かったら、これ以上に安全な場所ってあるだろうか。


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わたしは今までずっと自分は誰かと出会うために生まれてきたのだと、ぼんやりと信じさせられて生きてきたと思う。
けれども今はそうではないとわかり始めてきた。

わたしは自分のしたいことを実現させていいから、この世界に生まれてきたのかもしれない。
誰かに会うためなんかではないのかもしれない。
そう感じられることの安堵感と軽さと開放感。


わたしは誰かの役に立って生きる糧を得ることはあるけれど、誰かの役に立つために生まれてきたんじゃなかったのだ。

自分の幸せのために生きてよいのだとわかってきた。
対価、快の感覚が取り上げられて混乱していた状態からほんの少しは前進したよね。
だから今お金に対して新鮮な気持ちを感じている。
ちゃんとそれを受け取れるし、受け取る自分に誇りも感じ始めてる。


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小さな幸せから大きな幸せまで、全部好きなだけ望んだり欲しがったりしてもいい。
そしてそれを実現させるために行動してよい。
その時一緒に生きている人たちと協力したり助け合ったり支えあったりしてもいい。

ああ、そのことの大きな大きな安堵感。
その時一緒にいる人たちと協力したり助け合ったりしてもいい。


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わたしは人の間に生きてよいのだ。
歓迎されてここにきたのだ。
ひとりぼっちでいなくていいのだ。
そう思い始めている。

頼ったり頼られたりしてもいい。
甘えたり甘えられたりしてもいい。
それがいけないことなのではない。

支え合って協力しあって生きていってもいい。
本当にそれで大丈夫っていうこと。


まだそれは嘘かもしれない。
明日には覆されているのかもしれない。
そんな不安がありつつも、わたしはもう人と関わることに対する意識が変わってきているのを感じてる。

ひとりぼっちをやめ始めたんだね。
すごいことだよね。
本当にすごいことだよねそれって。
今までの自分を思ったら本当に大きな変化だよね。


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今までないがしろにされてきたこと。
ないものだと習慣的に信じさせられてきて今もそれに気づけないままでいること。
自分の尊厳。

いろんな圧力や引っ張りを感じながらも、そのたくさんの力の真ん中で自分の重心を感じながら、バランスを取ろうとし始めていること。
それは曲がりなりにもうっすらとでも自分の方向性、自分のベクトルが育ちつつあるからじゃないか。
つまり自分の中心をやっと意識し始めたということ。

投げ出して放り出してしまった自分を取り戻す勇気を出して行動する。
うまくできなくてもくねくねしてもフラフラしても、とにかくやってみること。


このベクトルを探る感じが、バランスを取ろうとする感じが、これが消えてしまったらわたしは永遠に流され続けてしまう。
それが今までのわたしだったんだ。
拗ねて閉じこもって投げ出して、方向性を見失って苦しく傷ついたままで流されていく。
それが今までのわたしだったんだ。

そしてそうやって拗ねるに値する正当な理由があった。
辛かったよね。
大変だったよね。
よくがんばったよね。


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取られていいものを取られてしまったんじゃない。
致命的なものを取られてしまった。
だからそれは全力で取り戻すのだ。

でもそれはがむしゃらに闇雲に突っ走るのではなくていい。
もっと丁寧で自分に優しい方法で着実にやっていいということ。
一歩一歩で大丈夫だということ。


辛くて耐えられない状態は何も自分一人が抱え込まなくても良かった。
気がつけばいろんな力が作用してふと道が開けたりする。
わたしは一人じゃない。


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やっぱり何かがおかしいと思うんです。
そうやっていろんなドアを叩いて叩き続けてやっと今ここにいるんだ。

多分わたしは誰かのためでないといけないとまだ縛られている感じがあるけれど、そうではなくて本当に自分のことを大事にすることが一番大切なのだろう。

気を取られれば取られるほど力が逃げていってしまうのがわかるのに、向き直るのはやっぱり怖い。
本当に正直になった時、何が起こるのだろうか。
最後通告。それが怖い。
けどわたしは一人じゃないはず。


文節区切りの線

誰かに対して忠実である必要がない。
苦しいのに、辛いのに、どうしてかそうしなければならない気がしてしまう。
そこから抜けられない。
でもそのことの不自然さ、歴然とした不自然さの方が勝ってきた。
基準が相手にあることの明らかに不自然な力学と不毛さ。

それなのにまだわたしは正直になるのが怖い。
すごく怖い。
これが自分自身の問題なのだと認めるのが怖いんだよね。
それは自分がなんとかしなければならないということだから。


文節区切りの線

自分を大切にできなければ相手も大切にできない。
なぜならわたしは自分を大事にすることでしか相手を守ることができないから。
自分にしか本当の力が及ばないのだから。
本当に力が及ぶことに力を使おう。
そのことがなぜこんなに難しいのだろう。

きっとわたしの夢は未来にある何かの形ではなくって、今この瞬間にできる何かだ。

例えば自分を責めない。

本当にちょっとずつでも、あゆみを進めているよね。 
勇敢だよ。


文節区切りの線

今回もお仲間さんの存在にとてもあたたかいものをいただきました。
みんなそれぞれの場所でそれぞれにがんばっている。
わたしよりもきっともっと大変な思いもされているかもしれない。

どうぞ日々を安全に過ごされてください。
わたしも落ち着いて過ごしてゆきます。

ONSA スタッフチームの皆さま
そして優月さん

わたしが今まで一度も触れたことのない厳しさと温かさを、今回もありがとうございました。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。