2016.06-09月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.2(前期日程)」みかんばがくクラス

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タイトルはじまり目印

M. S. さん(30代/兵庫県よりご参加) みかんばがくクラス



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速い流れの3ヶ月でした。
それは、久しぶりの新しいコースのチャレンジであったからかもしれません。
始まった6月を思うと、夏のじりじり暑さってこの3ヶ月に含まれてたっけ? 
梅雨 → いきなし初秋。ぐらいの時間の速さでした。
今、涼しい風が吹くようになったから余計にそう感じるのかも。

3ヶ月何もせずしても「早いねえ、時間の経つのって。」となったかもしれないけど、
この「速さ」の中に含まれる「一つ、一つ」は、大きくて広がりを持った内側を歩く一歩の時間でした。


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毎回思うのは、こんなこと書いたっけ? ですが、確かに「そのときそう思った私」も憶えていて、
それでいて、ああ、このことはもうなんだかいいや。と思ってたり、
もっとこういう選択肢もあったんじゃないのかな? とも思ったり、
ああ、これはできてきてる気がする! とか、
自分の軌跡を見ることが、イヤなことでなくなってきた感じもあって、自分で驚いてます。
ほんと、まさに今、あれ? これあんまししたくないことだったような気がするんだけど。と気づくぐらい。


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「ニーズ」「感情」「コントロール」と、今までなかった新しい知識が入ってくることに、
うれしさや驚きや、はたまた衝撃やと、毎週毎週ついていくので精一杯でしたが、
どうやら私にもニーズがあって、どうやらそれを大事にしていいらしい。

そのことだけでうれしくなったし、(全く何もしてない私が、いきなりこのコースをしてそう思えたかしら? そんなの何の役にも立たないじゃない?! なんて取り合わなかったのでは?)そのおかげか日常でも、「他者の感情、要求、望みは、私のものと同じように尊重される。」(というような内容だったと思うのだけど)ということが、ほんの少しづつ、ああこれがそうかと手にとれるようになってきた。

「私のものと同じように。」
ここが素晴らしいなと思った。
私が、私のものを大事にしないと、これはわかんなくて当然だと思ったし、今まで、人の要求なんてとうてい大事になんて思えなかったと思う。
つまり、自分の要求も大事に思えなかったし、まずわかんなかったんだと思う。

人の要求って聞くと、感情的に無理やりごり押して突きつけてくるもの(おそらく原家族から)。っていう定義(全ての人々にまで適用されてたのでは)だったと思うし(こう書くと、ほんとに恐ろしいことに思えて当たり前だなあと思う)、そりゃそういう定義なら、逃げたくも避けたくもなるだろうなあと。
聞けば奪われるように感じて当たり前、というか。
その前に「私はこう。」っていうのがごっそり抜けてるよ、って。(ここが一番何においても大事、って知らなかったし。)

そして、私が私に対しても、無理やりごり押して突きつけてたんだと思う(状況がこうだからめんどくさいこと言わないで! そういうこと思ったってしょうがないでしょ!)。
もしくは、望んだところでぜーっんぶ丸ごと思い通りにならないじゃない、それじゃあ望んでも思ってもムダムダ、なんて。

なんていうのかな、もうそのフィールドか前提かが違うってのに気づくのに、この年齢までかかったのかって事実。
がっかりかもしれないし、恥ずかしさもあるけど、あの、優月さんがよく言ってるっけ「今知れてよかったね」。それがほんとその通りすぎて、思い出しては「うん、よかった。」って言ってた。
いや~、ぜんぶ丸ごと自分の予定通り思い通りに「ならんから。」って。
(全く何もしてない私が、いきなりこう思えたかしら? 今知ったからって何なのよ、もう遅いってメソメソしてたり拗ねてたりしてたのでは?)


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大事にする=全て思うように思い通りに、それは少なからず(いや大いに)周りの人も500パーセントぐらい同意し機嫌よくあって進んでいくことも含む。
それはほんとの大事にするじゃあないなと思ったし、そういうふうに「大事にしてちょうだい!」という要求にずっとずっと疲れていたんだろうと思った。
お疲れさま、
私。ほんと、お疲れさま。

そして、そういう「大事にしてちょうだい!」を含む要求は、おそらく「外に巻き込まれてる人の要求」のようで、
そんなものとうてい尊重できるわけなかろうが! だけど、それがその人にとっての要求なら、それはそれでいいような気がしたし、
もしそういうことがあって、それにどうするのか、っていうのは、私が決めていいんだと思った。

切って、時間をとる。
その人が、周りがこうしてくれないので不幸だと言っても(多くはハッキリとそう言わず隠されてるけど)、
その人の、そして私の「周りがこうしてくれないので不幸だという人生を選択してる」ことを誰も入っていくことはできないし、
私に対しては、私だけが入れる領域なんだと思った。


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感情も、今までとは印象が違いすぎてビックリした。
このひっくり返り感が素晴らしすぎてなんとも言えない。
な~んだ、あなたいい人だったんだねえ、誤解してたよ、って。
(しつこいですが、全く何もしてない私がいきなりこう思えたかしら。「???」だったのでは?)

この思いもよらない違う道があるというのは、すてきなこと。
もしくは、ほんとは生まれたときから知ってたんかもしれないけど、埋もれすぎてて見失ってたか、忘却してたのかもしれない。

本来持ってるものを取り戻す、思い出す、ってこれもまたすてきなことの一つ。
(全く何もしてない私なら、私なんて何も持ってない、だからがんばって正しく何かを身につけないと! ってなってたのでは?)

「上手にやってく、つきあってく。」には、まだまだ時間はかかります。
でも「何も知ろうとしない。」というのはすごく自分にヒドイけど、
「できるまでの時間を与えない」のは、もっと自分にヒドイな、って思った。
(いやいや、全く何もしてない私なら、知った=できた。になってたよね。)


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そして「自分と仲直り」の感じもわかってきた。
なんていうのかな、自分と向き合っていくんやけど、
これまた良くないクセで「対峙」してるときがあるんかな、ってか、ずーーーーーっとそういう状態だったんかな、汗。
自分VS自分でリングで戦ってるかのような。
そこを、「知識」が「まあまあ、そう言わないで。」と仲裁するような。

今までの自分は、それまでそうやって生きてきた時間と実績の分、優勢なんだけど、
変わりたい自分は、まだまだヨワヨワで、でも知ってきたぶん、頭で勝とうとする。批判したりね。
ケンカで何の利害関係もない第3者が仲裁入るようなもので、
「きちんとした知識」が「まあまあ。ここは本来こうなのですよ。」と割って入って仲直りを手助けしてくれるような、そういう感じもありました。

まあまあ、今までほんとよくやってきてくれたよ。
まあまあ、変わりたいのは良いことだよ、そして、今までだってがんばってきたんだから。

手と手をとる、ってこういう感じかなあ。
これはほんとに一人で仲直りはムリです。


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変わりたい自分が批判するとき。そこも罠やなあと思った。
健康な世界へ入るんだ! それはすごくすてきなことやけど、
健康VS不健康になると、またズレてきてしまって、
それは、まるで「健康な裁判官」が常にジャッジしてるかのような。健康ならこうしないのでは、健康ならこう感じないのでは。それだからまだ不健康なんだ。
それが、不健康の仮面をつけてることに気づくのにまた時間がかかったり。
まず、健康な世界は「VS」にならないような。

そもそものフィールドが違う、出発点かな、土壌? 前提、立ってるタイルの色のようなもの? そこは難しくて私にはうまく書けないけど、
そこから、ここへ「見えないお引越し」をしている、っていうのがわかり出したことは、とてもすてきなことの一つ。

そしてまた、すてきなことだらけでもなくて、
とてもとても粘土質な時間もあり、イヤな過去も思い出し、
良くない習慣の過去と今がつながってることも、どこか愕然とした。

それは、どこにいても、何をしてても、たとえそれが人から見て素晴らしいことだったとしても、夢の豪華客船に乗っていたとしても、
「常に原家族の家の中にいる自分」の状態であること。

周りがどうであれ、一人あの家の中で過ごしてる感覚。
怪奇現象でなくて、ほんと感覚として、そういう感じってこと。

気づいては「出よか。」と声をかける。理屈や説得はいらない、一言でいい。
それは、けっこう「遊び」が大活躍したりするんかな。「遊びにいこっか。」って自分を誘う。


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最近の手帳情報(すごく楽しい!)で、また知識さんの「まあまあ。」が出てきたんかな。
暗かったところに光が差す感じ。あるいは、元々知ってたはずのことを思い出すような感じ。

「なぜなら、夢はあなたの人生を守るから」
今までと、強さの違う質のものに思えた。

もうほんまゴメンやけど、それでは守れるわけないぐらいに思ってたと思う。
夢にまで、守ってくれないじゃない! なんて要求して、また外側に影響されてたんだと思う。
これ、全力で守るの私? …か。そして、それを支えてくれるのは、ほんと夢なのかと。
今までになかった強さが見えてきた感じ。

はじまりの頃の週のスピード感がすごいコースでしたが、ゼェゼェ言いながらもついてくことができました。今も息を整えてるところです。
ご一緒下さったお仲間さんもありがとう。
またこれからも一つ一つやっていきます。