2015.09月開催 「境界線ワークショップ」あでらクラス

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C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) あでらクラス





皆さま、先日はお互いにお疲れさまでした。
私はワークショップ・クラスから1週間気持ちのアップダウンを繰り返し、やっとのことで週末を迎えた感じでしたが、皆さんはいかがでしたか?


私は、初めてワークショップに参加し回復を始めてから2年と少し経ちました。
始めは参加するたびに新しい知識・気付きに目が開かれ、自分が変わっていける気がしていましたが、最近はそんな気持ちが感じられなくなり、人と比べてうらやんだり自分を卑下したり、人の承認を過剰に求めるくせが強く出ています。

自分では、「頭で知識として分かっても、心で納得していない。
分かっているはずなのに、実際に出来ない。思ったように早くは変われない。
演じて来た自分と本来の自分、古い不健全なやり方と新しく学んだやり方が混乱している」状態なのかな? と思っています。


そんな中参加した2回目の「境界線(バウンダリー)ワークショップ」クラスでしたが、自分の「出来ない」と向き合った時間になりました。
その他の気付きと一緒に、書いてみます。


まず、最初に「境界線の問題は、人との関係の問題ではなく、自分の問題。自分がない(自分が何を好きで、どういう考えを持ってどう生きて行くか分からない、自分で立つ自信がない)と、巻き込まれ易い」には、初めて聞いたのではないのに「ドスン」ときました。
前より少しずつ自分を理解してきたと思っていたけれど、私は、この根本の部分がまだ分からないのだとと痛感しました。

いやな言葉を言ってもらい境界線を引くワークでは、私は途中でお相手から目をそらしてしまい、「最後まで目を見て」と言ってもらった後も、そらさないのがすっごく難しかったです。
「境界線を引くこと」に自分が納得して自信を持てなかった感覚で、心の奥で「こわい」と感じていました。
(「反抗期がない」=「親と離れられていない」とのお言葉もありましたが、私は反抗期がなかったので、両親が他界していてもまだ離れられていないと感じています。この影響もあるかもしれません)

チェアワークをしても緊張が取れず、「今」の感覚がすぐ崩れて、元の「足元からぞくぞくしておぼつかなくなり、胸の奥がぎゅっとなる。頭の中が白くなって、相手にからめとられるような恐怖を感じる」感覚に戻ってしまいました。
周りに意識が行ってしまい、自分に集中出来てなかったのだと思います。
(1度「自分に集中する」感覚をつかむのと、それがコンスタントに出来るのは別なんですよね。だからこそ、繰り返し練習しようと思います)

そんな中、「境界線を引く」レベルは、声の大きさではなく、相手を納得させたり分からせようとするのではなく、「自分で自分を守っていい」と許可を出すレベル。「自分で自分を守るんだ」との自分の中の決意の強さ」という言葉が、心に深くしみました。
クラスでは感覚はつかめませんでしたが、日常の中で意識して少しずつ練習します。


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健康な関係のワーク(おかゆに誘うワーク)は、何となく自分をわざとらしく感じてしまって(実際わざとらしかった気がします…)、気恥ずかしかったです。

「『相手にOKと言わせよう』とするのではなく、自分の境界線の中でシンプルに自分の気持ちを言う」という言葉が、温かく心に残りました。

私は誰かを誘う時、断られるのがこわいから誘わなかったり、自分の気持ちより「相手が関心を持ちそうなこと」を持ち出して誘っていました。
暗にコントロールになっていたかも?

自分の周りを振り返ってみると、健全な処世術のパターンの人もいましたが、「全て私の言う通りに付き合って」とか、「あなた(私)がいい店を探して、決めて、連れて行って」という一方的な関係にはまることも多かったです。
見事に私の「AC」と「CP」をついた関係だったと、今にして思います。

健康な関わり方と不健康なやり方を比べた今、シンプルに「もう不健康なやり方はしたくない」と感じています。


TEGも2度目ですが、以前とほとんど変わらずACとCPが高く、ちょっとがっかりしました。
でも、それが自分の現状なんだということには納得したし、自分の原家族で起こっていたことが客観的に見えた気がします。
(ちなみに、このワークショップの場でさえ結果が同じ人はいなくて、「人は本当に1人1人違う」ということ、「『私の~すべき』は、相手には当てはまらない」ということが腑に落ちました。だからこそ、境界線は大切と思いました)


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処で、私は「自分の家族に当てはめてやってみて」と言っていただいたので、今かける範囲で気付いたことを書きます。

残念ながら、私は「機能不全のパターン」(自信がないから2人がひっついて1人になって、お互い引っ張り合っている状態)には、なじみがありました。

私の目から見ると、両親は同じ出身地の農家の出で、親戚筋にあたるということ以外共通点はなく、関心のあることも違っていました。
世間体と先々の事を気にする母は父を追い立てるけれど、父はほぼ自分の意見を言わずどっしりと構えていてやりたくないことはやらないから、結局母が動いて決めていました。
(日常のことから、車やお墓を買うといった大きな決断もこのパターンでした)

お互い、コミュニケーションをして分かりあったり協力し合う姿勢もなく、相手を思う通りに動かそうとしたり無言で意思表示するのは相当ストレスになるだろうし、不毛じゃないだろうか?

でも、母は自分で自分の生活を立てる発想も自信もなかった。
父は父で、人付き合いや家の事、自分の身の回りの一切をやってもらっていた。
だから、お互いパワーゲームをしながら「こんなもの」という感じでした。


今の自分はどうかというと、両親に近い関係を姉と再演しています(私が母の、姉が父の処世術を引き継いでいます)。
又、姉には暗に親の役割を求められていて(2年位前に、「お姉さんは、あなたのだんなさんか子供みたいね」と言われたのが、今でも忘れられません)、それもすごくイヤなのに、私は姉との同居を選んでいます。

金銭的な理由もあるけれど、一番は「何を大切にしてどう生きたいか」まだ分からないし、人の間で犠牲にならず孤独にならずやっていく自信がないからです。
(苦しさやうまくいかなかった原因が分かっても、「自分が何か? どうありたいか?」が分かって、健全なライフスキルを身に着けないと、現状から抜け出すのは難しいと感じています)


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母は、ACも高い人でした。
不在がちだった父に代わりCP的な役割をしていた面もあり、それが不満だったようで、よく「他の家のお父さんは~してくれるのに」と私に不満をこぼす一方、決して父の前では言いませんでした。
今振り返ると、家の中ではがまんしていい奥さんを、家の外の人に対しては、がまんしていい人を演じていたようにも思えます。

姉も、AC、CPとも高かったと感じています。
家の外では「大人しいいい子」と思われていたようですが、がまんして言いたいことを言えなかったようで、よく私と母にそのフラストレーションをぶつけました。
又、言わなくてもニーズを察して満たしてもらうのが当然の育てられ方をした為か、母や私に命令口調で頼んだり批判することが多かったけれど、そんな時、母はひたすらがまんして言い返さず、私を引き合いに出して私の陰に隠れることも多かった。

父のことはあまり分からないけれど、「仕方ない」が口ぐせでがまんすることが処世術だったから、AC的な面は高かったのかもしれません。

今思うと、ACやCPはあっても、Aを引き受ける人が家族の中にいませんでした。
又、母は外の人に対してや姉が怒っている時はAC、表面上父にはAC、その他の時はCP。
姉は外ではAC、家の中ではCP、時々はAC。
CPとACが時と場合によってころころ変わって、すごく混乱する状況だったということがよく見えました。

又、私が小学生の頃だったか、母は姉にPとAの役割をやらせようとしたけれど、姉は反抗した為その役割が私に回って来たこと。小学生にそんなことが出来るはずはなく、誤ったやり方のまま大人になる原因になったということもよく見えました。


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処で、私の言われるとイヤな言葉は、沢山あったのですが…。
  • ・あんたは、いいね(主に、母と姉から)
    非言語メッセージ:「あなたは、私のめんどうをみるべき」「あなたは、楽しんではいけない」「あなたは、私より幸せになってはいけない」
  • ・なんで、出来ないの?(主に、姉と母から)
    非言語メッセージ:「出来ないあなたは、ダメだ」
  • ・あなたのせいで(主に、母と姉から)
  • ・あなたは、大切じゃない(母と家族全体から。途中で思い出しましたが、確か初めての時もこの言葉だったので、自分に取って重要だと思います。今も、私は相手から軽く扱われていると感じ易いです)
「あなた(私)は大切じゃなくて、ダメで、問題が起こるのはあなたのせいで、だから、あなたは幸せなってはいけなくて、私(母、姉)の面倒見るべき」なんて、改めて書くとなんてひどいメッセージだと思います。
今見直すと、子供だった私は無力だったし今も未熟な面は沢山あるけれど、だからと言ってこれは相当おかしいと感じます。


私は、両親・家族の共生関係、それぞれのフラストレーションを解決できない葛藤に「巻き込まれ」て、張り付けられたレッテルと課せられた役割を演じて来た、ということが身にしみました。
性格ではなくて単なる役割で処世術なら、時間がかかっても手放していきたいと改めて感じています。


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ここまで書いてきて落ち込んできたので、「もうできたこと」を書いてしめたいと思います。

  • ・プレワークで、1つ1つの境界線侵犯にていねいに向き合った。
    怒りをしっかり感じ、自分に「怒りのワーク」をするのを許し、実際にやった。感情を放出した後は、丁寧に書きだし整理した。
  • ・まだ見栄を張ったり、強がったり、責められないよう先回りして本音を言えない時が多いけれど、プレワークの中では本気で本音の感情を書けた。
  • ・「出来ないこと」を認め、出来ないと表現した。今の自分の状態が分かった。
    「自分はダメだ」と思ったら、気付けるようになった。そして、「これは、今の単なる状態だから、なぜジャッジする必要があるの?」と、自分に声をかけられるようになってきた(自分責めを止められるようになってきた)。
  • ・(心の中でも)自分で自分をジャッジすることで自分の境界線を、人をジャッジすることで人の境界線を侵害していることに気付いた。
  • ・日常の中で、前より自分の気持ちを言うようになった。
すべったり立ち止まったり、又戻ったりしながら実際にやり続けたことが、一番のもう出来たことなのかもしれません。
この時間が、未来の自分に取って贈り物になりますように。


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最後になりましたが、藤沢さん、スタッフの皆さま、今回もありがとうございました。
日々、「逃げ出したい」という思いと「今そうしたらどうなるか分かっている」という気持ちの間でゆれていますが、しがみつくもの(ワークショップ)が「いつも開催されている」ということに安心を感じます。
皆さまもお体に気を付けてお過ごし下さい。

読んで下さった皆さま。
かなり分かりにくい文章なんじゃないかと、今になって冷や汗をかいています。
長くなってしまいましたが、読んでいただいてありがとうございました。


私は、1つのことにしがみつくだけで精一杯ですが、今後とも宜しくお願い致します。




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S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) あでらクラス





「毎回受ける度、課題が増える…う~」終わった直後は、そう思いました。でも今は、自分の問題とこれからすることがはっきりした気がして、ほっとしています。

私は、「怖い」って気持ちをずっとしまいこんでいた。泣きたくて、でも泣けない。
震えてる私を、誰も抱きしめてくれない。
でも、怖いって感じてもいいし、表現してもいいんだってやっと思えた。
…当り前だよ。

そして、優月さんが指摘してくださったように、父が「サイコパス」か「ソシオパス」だと考えたら合点がいった。
というか、その瞬間妙にほっとしたというか、父との関係の先が見えた気がした。
今までの、父の理不尽な言動の意味を考えなくてもいいし、もう親だからと言って真正面から誠実にぶつかる相手ではないこともわかった。父に会うのを避けてた自分に、自己嫌悪を感じることも必要ない。

でも次の日になって、私は怖くなった。
私は、父の血を受けた人間。父のようになる素質は十分。そんなの嫌だよ…。
一瞬、自分が自分のことなのに信用できない。そのことがとても苦しい。そう思った。回復作業を何もしないでのんきに暮らしていた先の、私の末路が見えた気がした。
私の凝固現象…それは孤独だと思う。それは、今の父を見てれば容易にわかること。でも私は、決してそうはならない!

次の日、いつもの職場に向かうと、当たり前のようにいつもと同じ光景。同じ同僚。それが、なんだか今日はとてもありがたかった。うれしかった。
どうしてなんだろう?
ここに居る時は自分が共依存者だってことを忘れられるから?
…そうかな?
今まで、無意識に周りのみんなをコントロールしてきたのに、ひどいこときっとたくさんしてきたのに、それでも私と仲良くしてくれるの?
笑いかけてくれるの?
信用してくれるの?
本当に、ごめんね。でも、すごくすごくうれしいよ。
そんな気持ちだった。

この先、1カ月後、半年後、私は何をしているのか解らないけど、もう予定調和の日々とはさよならしようと思う。だって何がおこるか解らないのが人生だと今は思うから。私は、どこにいたってわたしなんだから!
この気持ちを、ずっと大切にしていきたいです。




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A. Y. さん(30代/神奈川県よりご参加) あでらクラス





藤沢さん、ご一緒した皆様、先日はありがとうございました。

ひとりじゃないよスペースに書いたことが自分の素直な気持ちだと思うので、そこに書いたことを PAYFORWARD にも残しておきます。

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皆さん、こんばんは。

昨日の境界線の WORKSHOP を受けて、「分かった!」、「なるほど!」と思ったことがあったので、書き残しておきたくて来ました。

・今の職場を辞めたくなった理由が分かった。

今の職場(保育園)は私にとってお困りパターンの NP と AC を刺激する職場だったから。
まさに、NP と AC の処世術を使って、仕事をしていた。

特に、今年の3月までフルタイムで働いていた時は MAX だったと思う。
正社員だったから、契約社員の先生やパートの先生の事を先に考えて優先いして、自分のことは後回し…。
そして自分の境界線を大事にしてくれない R 先生と一緒…。

そりゃ、つらくなるわ…。よくがんばったね、私。

新卒の会社でも、ブラックだった会社でも、外資系の会社でも、そのパターンは出てたな…。
派遣でパートタイムで働いていた時は、時間的なこともあってその傾向は少なかったと思う。

フルタイムよりパートタイムの方が私には向いているのかもしれないな。

今の働き方も、「え? こんな働き方していいの?」って感じだったんだな。
自分で選択したのに(笑)。

来年の4月からは予測というか対策は立てつつやってみるしかないよね。
本当に休むってどういうことなのか?

私は休みたい。
それを私は望んでいる。
何とかなる。いざという時は短期で働ければいい。
まず、自分のやりたいことをやる!


・部屋を片付けたくなった理由が分かった。

家の片付け・掃除は、自分の境界線の中を片付けて掃除することとつながっていたんだな~と。
不要なものは手放して、必要なものは残す。

まだ片付け熱は続いているから(笑)、引き続き片付けて掃除していこう。


・お父さんとお母さんのパターンがちょっと分かった。

お父さんはおそらく CP、そしてお母さんは絶対 AC だと思う!! NP もあるかな。

人の面倒は見るけど、自分のことはほったらかし。
「お母さんはバカだから」とお父さんの意見を尊重する。
自分がない。

「あなたは大事じゃない」はおばあちゃんからも影響を受けてる気がする。

自分の家族がどんな感じだったかちょっとずつ気づいていこう!
どんなパターンがあるのか見ていく。


・将来の目標がちょっと見えた。

今朝ふと、「共依存から回復したら自分なりのやり方でサロンを再開したい」と思った。

時間の WORKSHOP のプレワークのワクワクリスト +α がずっと書けなくて、どうしよう…と思っていたんだけど、これが今の私の望みかも!


・「だいっきらい!」という口癖のこと。

最近、ふと何か考えてそれがもやっとしたりいやだと感じることだった時に「だいっきらい!」という言葉が口から出る。毎日何回も(笑)。
だいだい1人の時で、トイレだったりお風呂だったり夜寝る時だったりが多いかな。

「だいっきらい!」と思うその対象は自分の時もあれば、家族だったり、周りの人のこともある。

昨日の WORKSHOP を受けて、「今が反抗期なのかも」と思った。
「やだ」っていうことが言えるようになってきてるんだ。やっと。
ずっと押し殺して我慢してたもんね。

「インナーチャイルド・ワークショップ」をもう1回受けるのもいいかもと思った。


4年ぶりに受けた境界線の WORKSHOP。
行くまではすごく緊張していて、行くのをどうしようかと思っていたけど、行ったら楽しかったし、前回よりも心を開いて受けられた気がする。

チェアワークのおかげか、身体も心も軽くなった。
自分の中の芯を感じられるようになった。
気づいた時にやって、この状態が少しずつ長くなるようにしていこう。


「境界線(バウンダリー)ワークショップ」の PAYFORWARD とアフターワークが、次に受ける「時間のためのちいさなワークショップ」につながっていきそうです。

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改めて振り返ってみると、自分が境界線を侵犯していることも結構あった。
そして境界線と時間はつながっているんだな~と思った。
今まで本当にたくさんの時間を人の為に使ってきたんだな…。

そして今少し時間があることがどこかちょっと怖く感じている自分もいる。
自分と向き合うことの怖さ…みたいな。

この1週間の間で、以前習っていたこと、やっていたことで今はお休みしていることを、「練習しない?」とか「受けてみたい!」と連絡をもらった。

連絡をもらった時に「練習しようかなー」、「受けてみたいと言ってもらえてうれしい!」という思いが湧いた。

どれ位のペースならやれそうか無理なくできそうかプチ実行してみよう! と思った。

そして前回以上にひとりじゃないよスペースに助けられました。
自分の気持ちを書いて整理することができたし、WORKSHOP でご一緒する方のお名前を見つけるとうれしくて、当日直接お声をかけることはできなかったけど、勝手に親近感を持っていました(笑)。

Web.WORKSHOP もそうだけど、ありのままの自分の気持ちを書ける場所って本当にありがたいなと思います。
素敵なスペースを作ってくださり、ありがとうございます。

これからも自分を大事にする選択をしていくぞ!




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Y. T. さん(30代/兵庫県よりご参加) あでらクラス





初めてONSA WORKSHOPに参加しました。

共依存の事が、やっと自分の事なのだと感じる事が出来た。実感出来た。
だから、参加してよかったです。

毎日過ごしていくと、いろんな事が芋づる式にどんどん見えてきて、私の周りが怖くなったし、イライラも沢山しました。特に主人にイライラしすぎて、なんで結婚したんやろう? と思うぐらい。

そのたびに、『未来日記』に殴りつける様に、自分の気持ちを書きだしました。
そして、スーと楽になりました。『未来日記』のおかげで、ケンカせずに過ごせました。それって、私すごいすごい!!

それで、私の心はかき乱されても、周りは変わらず過ぎていきます。それも実感しました。

主人に今まで言えなかった事も言えました。(『未来日記』の中でね)スッキリです。
相手に伝えなくても、私はもう考えなくなった。


共依存を治したい! と強く思った。
それと一緒に、時間が経っていくと、このままでもいいやんと言う声が何度も聴こえてくる。
だから、ここでしがみついて繋がって諦めずに歩いていきたいな。


心理学の理論って、信頼性があるよなぁと思う。
感情的になる私には、冷静に見れるからいい。

知識が増えた分、かなりへこんだ時間でした。

自分がない私、すげーわかるよと感じます。

こんな風の境界線を守るのねと知りました。
まだまだ日常ではいつ使う? とか解んないけれど、身体で体験出来たのはほんと良かったです。

一緒に参加されたみなさん、ありがとう。
藤沢さんもありがとう。




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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) あでらクラス





ワークショップに参加してまだ1週間ですが、もっと時間が経った気がします。

正直なところ、まだまだ混乱しています。

自分で境界線がほぼない、と思っていましたがそれが本当にそうだったということがわかりました。

そして、藤沢さんが「毎日、無差別級格闘技をしながら生きている」(という、感じだったような…)と話されていたのがとても印象的でした。

実際、帰ってきてからはなんだか映る世界が違って見えている気がします。
今までだと、「ちょっと嫌だな」と思うことを言われても、笑ってごまかしたり「そうですよね~」などと言っていたのに、同じようなことを言われたとき、ものすごく腹が立って、ものすごく傷つきました。「どうしてこんなことを言われないといけないんだ。それって、私の存在自体を否定してるってことじゃん」と気づきました。
そんなことを思ったのは初めてでした。何回も同じようなことを今までも言われていたのに…。


あまりのショックで練習した「私はそうは思わない」もすっかり頭から飛んでいました。

家に帰ってきてから「本当は私はすごく嫌だと思っていて、すごく傷ついていたのだな…」とまた初めて思いました。
今までの私はどの感情も凍っているというか、感じ方が鈍くなっていたような気がします…だから、喜怒哀楽があまりないというか。
何かショックがあるとその前に反射的に自分の中で抑えてしまうというか。

ワークショップを受けてからは本当に自分がいる世界は怖い…と感じています。


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ワークショップの中で「NO」を言う練習をしました。
とても難しかったです。
相手に向かって投げるように言ってしまうというか、相手を納得させるために言ってしまうということがほとんどでした。「自分の境界線を意識して」と言われても自分の境界線がどこなのかもわからなかったように思います。でも、1度だけ「私はそうは思わない」というときに、ものすごく緊張して声が震えました。もしかしたら、それが自分の境界線を守るために言えたからそうなったのかな…と思いました。

チェアワークもすごかったです。
今までは自己流でしていましたが、全然違っていました(苦笑)。
する前の体がぐらぐらする不安定さと、した後のしっかりした安定感。そして、体だけじゃなく心もぐらぐらして混乱して不安で弱々しかったのが、チェアワーク後は冷静になるというか、目が覚める、頭がはっきりする感じがしました。
普段もしっかり取り入れていきたいと思いました。


私の中の境界線の知識はまだまだですが、今の自分の最大限の1歩は踏み出せたと思います。

正直、課題は山積みで、ワークショップが終わってから不安で怖くてすくんでいる状態でしたが、また少しずつ進みたいと思います。

とりあえず、来年もぜひ参加したいと思いました。

今回も、集中し心もしっかり開くことができました。そして、ひとりじゃないんだな…と心強く思いました。

ペアを組んでいただいたお二人を始め、柔らかい空間を作っていただいたクラスのみなさん、そして驚くべき記憶力と的確なアドバイスをくださった藤沢さん、ありがとうございました。




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Y. H. さん(30代/神奈川県よりご参加) あでらクラス





境界線、
私とその他を分けるもの、を引く、理由、
を、既に誤ってたことに気づきました。

境界線は、私と私に属する大切なものを「守る」ために引く。
だよ。私。

他人を掴んで私の来てほしい方向に引っ張るために引くものではなくて、
他人の主義主張をねじ伏せて私の正しさを証明するために引くのでもなくて、
気に入らない他人を乱暴に蹴り出すために引くのでもなくて、

ここから私、ここまで私、私の権利を私が守ってよい、
…むしろ私が守らねば誰も守れないから自分で主張するもの、
だから引く、
境界線の外側になった物には責任を持たなくていい、
だよ! 私。
ここ、何度も言っておきたいです。

自分でビーッて、「ここまで」って好きなように引いていいんだよ、
その外側の物は私のものじゃないから私が責任背負いこまなくていいよ、むしろ変に手出しちゃだめだよ、
既に中に入ってるものも、もう要らなくなったら外に(そーっと)出していいんだよ、

「○○さんが引くなって言ったから引きません」じゃない。
「××さんに、引いていいよって言われたからじゃあちょっと引いてみます」でもない。
「そんなこと言うなんて冷たい、意地悪、優しくない、って言われたから、譲歩しなくちゃ」でもないんだよ。

っていうのも、もう一回言っとくね。
自分で考えて、決めて、引いていいんだよ。
むしろ自分で引くものなんだよ。
過去に対しても、もう不要なことには引いていいんだよ。全部引きずって歩かなくていいんだよ。
ワークで、幼い私に対してどれほど理不尽な圧力がかけられていたかもわかったから、
そういうことにももう、全部、境界線を引いていい。私は、幼い私のまま今も怒ってなくていい。

適切に線を引いたことで外側になったものに対して、「あーあ傷つけたかもーあーあ」とか、「こんなに許容範囲が狭い私はほんとだめなやつ」とか「もっと受け入れ条件緩和したほうがよかったのかなぁ、ぐるぐる」とかも、考えなくていいから。ってことね。
踏み越えられそうだったからそっと境界線の存在を提示した、
踏み越えられたから踏み越えられたと伝えた、
それだけだから。

まずは「(今、)私のデスクにあなたの書類がはみ出してますから、どけてね」、くらいのニュアンスでいいから。これなら言える。
しかもこれを言ったからといって別に私は、「いい加減大掃除しろ」とか、「お前はいつもだらしない」とか、そういう大それたことを言いたいわけではないでしょう。
もしそう解釈されたとしても、それは相手の認知の仕方に問題があるのであって、私の責任の範囲ではない。


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流され放題じゃだめだよ、それは「優しい」んじゃなくて、「忍耐強くて偉いねー」でもなくて、
「搾取され放題」ってことだからね?

「あなたはこういうふうに生きなさいと “習った“」
っていう表現で、なんだかほっと安心する感じがしました。
あっ「習った」だけか、なんだ、なら(捨てても)大丈夫って。
だってそれ、
「あなたはこう生きなくてはいけないと決まっていて、これはもう動かせない不変の真実なのよ!」ってことではない。
「習う」内容なんて、時代によっても人によっても変わる。
過去に起きた出来事なんてもはや変わんないよね、って永久不変に見える歴史の授業だって、
新たな発見があれば「習う」内容は刷新される。
研究しつくされて手垢つきまくってるような歴史自体にすら、まだまだ何度でも新たな発見の余地も、塗り替わる余地もある。
それに加えて、起きた出来事は同じでも、個々の先生の主義主張、切り口、立場、目線、方針次第で、「習う内容」にはバイアスや範囲指定の制限も簡単にかけられる。
それだけのこと。
「習った」だけのこと、
それはつまり、
「今の私にとっての絶対的な真実とは決して言えない」、
「教える人や状況によって変わることだから、今の自分に適した内容で習い直せば問題ない」てことだから。
だから、大丈夫、
っていうのが、私の感想です。

ただ、まだ、やっぱり、初心者だから下手ね。
境界線を引く練習しただけで、自分が「四方を海に囲まれた断崖絶壁の孤島」にでもなったような気持ちになった。
「ここが正しい位置」の感覚は日々の練習で馴染ませていくしかない。
問題としては、
「私おかゆ食べに行きたいから一緒に行かない?」「いいねー」のやりとりでさえも、今の私には、コントロールに満ちている表現だと感じたこと…。
声の高低、強弱、言い回し次第で、
「お前もおかゆ食べにこいよ!私が誘ってやってんだから、来て当然だろう?」「はぁ? 面倒くさ、勝手に行けよ。今回はしょーがねーから行ってやるけど、当然奢れよな?」みたいな解釈になってしまった。
あと、「私っ、おかゆ食べに行きたーい☆一緒に行かない??」まではまだいいとしても、
その後、プレーンに「いいねー♪」って言われただけで、
「うわっ、正直ごめんなさい、私なんかの希望に付き合わせて、ほんとに申し訳ない、私なんかに付き合ってなくても、あなたはあなたの好きなことやって過ごしていいんですよ? おこがましい希望述べてほんとにすみませんでしたーッ!!」って咄嗟に思ってしまったこと、
この自己肯定感の低さも、問題だと思います。私なんか、って何だよ。
希望…言っていいんだよ? 私?


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加えて、「発達障害かもしれない」の件。
言われてショックは拭えなかったですが、ここで率直に言ってもらえてまだ良かった、っていうのが私にとっての事実、と言い聞かせてます。
だって私もう成人だもん、何がしか私に違和感あっても普通誰も言わないよね。
で、そしたら気づかないよね、気づかないままこのまま突き進んでっちゃうよね、って。
WORKSHOP 前日まで、「私は多分該当しないと思う」ってふつーに言ってたし。
加えて、きっと学童期にそれを言われてたとしても、Web.WORKSHOP でずっと見てきたように「コドモ大人」な親じゃ、もしかしたら受け止めきれなくて、放置されかねなかったかもしれないとも思いました。
であれば、今から、私が私の親代わりとして、育てなおしていこう、と思います。

…という当初の所感から一週間、自分なりにも発達障害について色々調べてみて、
「意外と知られていないが、一般的な症例以外にこういう症状も併発している場合が多い」という記事から
幼少期から様々な症状に心当たりがありすぎることに気付き、「…あれ? これもう、ほぼクロじゃない?」となってきたところです。
むしろ、この仮定を付加してみたほうが私の前半生についてすんなり納得がいく、くらいのレベルかもしれないです。
問診の予約だけはひとまず取ったので、生育歴をまとめ直してから受診に臨みたいと思います。

また、「今まで時間感覚がおかしかったことにほんとにようやく気付いた」こと、
「なぜ今まで気付けなかったのか、なぜうまくいっていなかったのか、その原因」についても個人的にはすごく大きな成果を得ました。

今更?! って、いう感じ、なくはないです。
むしろなんで今まで気付いてないの? そんなの常識じゃんよ! 何回言わせるの?! って言われそうと思いながらも書くと、
本来の時間のあり方、使い方としては、多分こう。

「”自分なりの目指すところ、得たいもの” が最初にあって」
「それに基づく “計画。いつまでにやるのか、どの程度時間をかけられるのかの目安” があって」
「計画を実現していくために、小さいタスクのブロックに分割していくんだけど」
「だからこそそのタスクは、”計画の実現” に必ず貢献するものであって」
「タスクの分割の仕方は、”自分だったら、これくらいの時間とエネルギーを要するかな” という観点で割ってよい」
(客観的な作業スケジュールだったら、「1時間あたり何ページ」とか「1時間あたり何件」とか、数値で示す。
それも、むちゃな立て方はしない。むしろ、少し余裕を持たせる)
「それとは別に、自分の手持ち時間は、しっかりめに把握しておく」
「タスクを、自分の手持ち時間の中に、”現実的に” 配置する。=これがスケジューリング
(非現実的・達成不可能・不健康な置き方をしない。休む時間も、遊ぶ時間も、雑用の時間もとる)」
「そして、日々は、”この時間はこれをやる時間だよ” って自分にリマインドして、やっていく」
「だから、”ここまでできてるから、全体進捗から見てどれくらい遅れ/計画通り/進み” って分かる。
遅れてるなら、どこで巻き直すか、完了時期を繰り延べるのか、対応を考えられる」
「”どこまで積み上がってるか、見て分かる”、だから安心できるし、進歩を感じられる」
「だから物事が進む、だから夢が叶う、だから嬉しい、楽しい、充実した時間を生きていられる」
「だから、手帳は親友だし、強力なサポーターである」

っていうこと。
何度も何度も言われてるけど、こういう言い方で今になってようやく腑に落ちる。

で、何が分かったかっていうと、
「今、全然できてない」っていうことが分かった。

・夢、憧れの構想をもつこと
・計画の策定
・タスク細分化…
特に、
「”ほんとにそれ、夢の実現に貢献してくれるタスク?” かどうかの見極め」
(貢献しないなら境界線をざくっと引くスキルも、同時に必要)
「”自分にとって現実的な時間量・エネルギー量” に基づく細分化の仕方」
・手持ち時間への配置…
特に
「”現実的に見て、その時間にそれ、実現可能かどうか” の観点に基づく配置の仕方」
・リマインドして、進めていくこと
・どこまで積み上がってるか、定期的、定量的に確認することと、その習慣づけ

上記全部、できてない。
特に、「特に」で示したところはすごく弱点だと思う。
それが発達障害のせいか、共依存のせいか、生育環境がまずすぎたせいかは分からない。三つ巴かもしれない。
(両親には、「時間感覚」に加えて「スケジュール」「PDCA」の概念も、多分ない。と今週思った。)
でも、ここの原因探しもしない。時間もったいないから。
とにかく、「あ、今、私は全然できてない」ってことが分かった。
しかも、それが自分にとって「大収穫だ!」と思えるようになったこと。
(第一声が「なんてダメな自分!!!」「今更何言ってんの!!! 遅すぎ!!!」じゃなくて、
「ああ、そうだよ、気付いてよかったね!!!」って言えたこと。)
大進歩。って思った。


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そりゃ、報告書も書けないよな…。「WBS や作業計画作って」ってさらっと言われても、できるわけないよ。と思った。
今までどうにかこうにか、色んな提出物を「間に合わせてきた」のも、
よく思い出せばどれも正直なところ、
単に工程の最初と最後だけ頑張って辻褄合わせてただけで、中盤はグッタグタに放置だったし。
その時だけのエネルギー一点集中でどうにか乗り切ってただけだから、
どこまで積み上がっててどれくらいできてるってまったく確認しようもなくて、そりゃ安心感もないわ。
定量把握、マイルストーン、とか言われても「?(きょとん)」ってなるよな…。
どれだけ時間術とか手帳術とか習ったってできないはずだよな…。
でも、このスキルこそが根本的に重要というか、生きてく上で必修のはずだよなぁ、と思った。
ほんとに情けないけど、現状こういう状態。
人生全体が「最初と最後だけ頑張って中盤グダグダ」にならないように、
気付いた今から、めげずに練習していく。

そして、「私にとって重要度:高、かつ、長期スパンで取り組む必要のある事項」こそものすごく苦手で、なんら手がつきもしないで放置され続けている理由も上記で分かるし、
ここは人的なサポートを適切に入れていかないと、独力では進まないかもしれない、っていうことも、分かった。

「行動過多、発達障害の可能性がある」の一言+自分なりに調べて自分の過去と照合しただけで、ここまで気付けたことは、我ながら本当に、ものすごい進み方だと思う。
でもそれもきっと、
長年積もった違和感、自分なりの試行錯誤、でもできないことへの悔しさ、半年間の Web.WORKSHOP の課題への取り組みなどなどが全部組み合わさってこそ、の今回の気付きだったと思う。
気付いたからこそ、それを大切に持って、今後も実地トレーニングを積んでいこう。

ご一緒してくださったみなさま、早めにズバッと本筋に切り込んでくださった藤沢さん、
本当にどうもありがとうございました。




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A. Y. さん(30代/東京都よりご参加) あでらクラス





今回の参加は3度目でした。
こうして同じクラスを何度か受けることで、初めて受けた時の自分と比べることができ、自分の成長を発見できました。そのことで、「練習をすれば、自分にもできる」という自信も、今回手に入れた気がします。
もう、このことだけでも、今回のクラスの大きな収穫だと思います。

チェアワークは普段からしていましたが、改めてクラスでやってみると、しっかりとチェアワークをした時の自分の体勢が普段のチェアワーク後のとは違うと感じました。
普段の生活の中ではやはり、安心しきれないのか、ここまで力を抜くことは「怖い」と感じているようで、そんな今の自分の状況をこのチェアワークで気づくことができました。
そして、やっぱりこのチェアワークは強力なツールで、正しいポジションはパワフルだと思いました。これからも、しっかり、たくさん、していきます。

わたしは、普段自分の境界線を守るための手段として、相手の胸ぐらをつかむような心持ちで相手に攻撃をする表現をしていました。そしてそれに気づいていても、怖くてそれを止められない自分がいました。
クラスで境界線を守る練習をしていると、力を抜き、自分に身を任せて境界線を守るという感覚がありました。もう力を入れてコントロールをしなくても、自分にはその力がある。と、自分の力を信じれる気がしました。だから、「よし、普段の生活でも、相手を攻撃して自分を守るのはもうやめよう。わたしは、もうできる。」と思えました。
失敗するかもしれないけど、現実の世界でできなくもないなという自信が出てきた気がします。

TEG のグラフをみんなで見合わせてみると、それぞれが全く違う形をしていました。
普段の職場でも、みんなの心の中は目に見えないことだけど、こうして、何一つ同じでないみんなが集まっているんだなぁと思いました。わたしは、知らず知らず、「みんな同じ」という感覚を持っていたと思います。
「同じ仕事をしているからなんとなくわかるでしょ。」
「日本人なんだからわかるでしょ。」
「この職場を選んだってことはある程度みんな趣向も同じでしょ。」
などなど。
改めて、「みんな違うんだ」そして、それが「あたりまえ」なんだ。
と認識して、心が楽になりました。
「同じでなければならない」というコントロールから解放された気がします。

まだまだ普段の生活で、境界線を越えられているのに、気付いてない場面ってたくさんあると思います。自分が望んでないのに境界線に入ることを許している場面もあると思います。なぁなぁになっている関係もあります。
こうした、曖昧にしている境界線を改めて、しっかり見直していきたいと思いました。そして、もっと精密で自分に合った境界線にしていきたいと思いました。




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R. K. さん(30代/静岡県よりご参加) あでらクラス





「境界線(バウンダリー)の知識は、いまの社会生活に役立ちそう」というのが本ワークショップの受講を決めた一番の動機でした。でもその期待は良い意味で裏切られました。というのも、やっぱり私も家族問題を抱えていて、毎日毎日(身体的な暴力ではないけれど)傷つけられていたのだというのがはっきりと自覚できたからです。現在の社会生活うんぬんという表面的なことではなく、根っこはやはり家族問題なのだということを改めて実感させられたワークでした。

休日出かける時にたびたび祖母から浴びせられる「今日は誰と出かけるの?」とか(一人で出かけることを伝えた後の)「一緒に出かける人はいないのかね?」等々の何気ない言葉、食事をした相手が結構年上の人だとわかった後の母親の「もっと若い人と飲みに行けばいいのに」という言葉には、「早くいい人を見つけて結婚してほしい。そしてこの家を守ってほしい」という意図が隠されているように思います。
今までは「年頃の独身女性なんてたいがいこんなこと言われてるんだろうし、たいしたことじゃないんだよね」と流そうとしてきたけれど、私は毎回本当に傷ついていたんだ、とはっきりわかりました。

これは、「よくあること」で片付けられる出来事では決してなく、真剣に向き合う価値のある問題なのだと思います。
これからは、その痛みをきちんと受け止めて、私は境界線を無視した行いをされているのだと自覚しよう、そして自分自身をちゃんと守ってあげようと堅く誓いました。


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エゴグラムテストの結果=「A が高い」=「うそっこ大人」もああ、本当にその通りだな、と納得させられました。
今までずっと無理してきたんだな、私…。ほんとに疲れちゃったね。
私は、この境界線ワークショップの前に対面式「変容(トランスフォーメーション)ワークショップ」と Web. WORKSHOP「コース0/STEP.1」をそれぞれ1回ずつ受講し、うすうす私も家族問題を抱えているかも…と気付き始めてきたものの、目に見える形での暴力や暴言があったわけではないので、完全に認めることが出来ずにいました。
もしかしたら認めることで家族を裏切っているような気持ちになるのが怖かったのかもしれません。
でも私はやっぱり自分のしたいことがいまだに分からないし、楽しいという感覚もいまいち分からない。そしてなんだか寂しい…。
これはれっきとした症状なんですよね。

たとえまわりに「ぜいたくだ」「頭でっかちだから/ちょっと哲学的な面があるからそう思うのよ」と言われようとも、今そう感じることは、紛れもなく私にとっての真実なんです。
こんな風に思えるようになっただけでも、前進出来たかなって思います。

私にとって私以上に大切な存在はいないし、私を守れるのも私しかいない。また、問題を認めることは家族を責めるということではないし悲劇のヒロインぶることでも決してないこと…多くの気付きを得ることができました。
ほかの誰でもない、私が私自身のために動くことに対してとても大きな勇気をくれたワークショップでした。

余談ですが、ワークショップ冒頭に、「いずれお嫁にいかなきゃならないもんね☆」という優月さんの言葉に、ちょっと泣きそうになりました。私もいつか、問題を整理して回復したら、本来の私と一緒に歩いてくれるパートナーを見つけられるんだろうか、という不安と、見つけたい、私もほんとうの幸せを絶対つかみたい、という思いがこみ上げてきたからです。
優月さんの仰るとおり、時間は意識しないとあっという間に過ぎてしまいます。限られた時間の中で、回復のために全力を尽くそう。これが、ワークショップ終了後の、今この瞬間の私の思いです。

最後になりましたが、一緒にご参加された皆さん、皆さんと貴重な時間を共有できたこと、とても嬉しく思います。皆さん本当に優しくて美しかったです。
そして優月さん、ありがとうございました。今後とも、あたたかい見守りを、どうか宜しくお願いします。




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H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) あでらクラス





あでらクラスみなさま。
ワークショップ当日のクラスでは、おつかれさまでした。
優月さん、スタッフさん、今回もまたお世話になりました。
ご迷惑もおかけしました。

「治す」ことが最優先。

「人に時間を使わない…人に時間を使わない…」、「私の人生は私が守る…私の人生は私が守る…」。
このふたつを「考えてる」と気がつけるたび、念仏みたいにとにかく唱えて「意識」を戻しています。

すぐに拡散して、飛んでしまう、嫌だ。
いま私は、仕事中にちょいちょい話しかけられるのも、不快です。
「忙しいの」と言いたい。

今回は、知識ではなく、「私」と絡めて「境界線」を理解することが、私のテーマでした。
私も、今回のクラスで、すすめるだけの一歩ができたと感じます。
おつかれさま、私。

すげーがんばりましたって言いたいです。
今回もがんばったなあ、私、です。

変化するから、回復に取り組んでいるから、溝さらいのカゴを上げるからひどい症状も表に出てくる。
これは毒なんだと捉えて、だから、ぜんぶ私に必要な成長のプロセスなのだと思おう。
まだ混乱のなかにいるので、戻ろう、それで、そこから進もう。


まずはいつものとおり。
「できない」ことより、「できた」ことを、認めていこうと思います。

それに「できるようになってきている」、そういう「変化」にも気がついてあげようと思いました。

まず、みんなで輪になって「イエイ!」という時。
それから、自己紹介をする時。
今回は、自分の肌から5センチくらいのところに、だいたい私の感覚がありました。

これは、カウンセリングで「落ち着く」練習のひとつとして紹介してもらったストレス低減法の呼吸瞑想で、私は静かに呼吸に集中するということが本当にできなくて困っていて、そこで YOGA で教えてもらった、まず体が生きてる感覚を感じるところから集中していく、という練習をしているからだと思いました。

チェアワークは、もう4年くらい毎日トイレでやっていることになるのでは……。
ブレインジムのペースという基本の動きは、2年半くらい?
YOGA は2年。
この呼吸と体の感覚に集中する練習は、1年半。

待ってるから。
私と一緒に、諦めないで、芯のある「私」の感じを、私は掴みたい。

私は、「私」に会いたいのです。
どうしても、私は、私に会いたい。
「私」を、感じたい。


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これまでがどうだったかというと、どうしても周りの感覚しか、私は感じられていなかったように思います。

「違い」が分かりませんでした。
ほんのり、本当に、ほんのりだけど、「違うこと」が分かった感じ。

私にとって、どれだけの成果かって、これは、すごいことじゃないか。
本当に、すごいことじゃないか。
がんばってきてよかったなと、書いていて、涙と鼻水が一気にあふれてきました……。

これ、『未来日記』には、メモもすることにも気がついていなかった事です。
ふと今書こうと思って、書かないと、気がつけなかった「変化」だ。

やった! って、ハイタッチしたいくらいの気持ちになってきたけれど、喜びすぎて、浮かれて、油断する(調子にのる)のも私の特性。
(たぶん、特性と言うのが適当だと思う、これを知っておくのも、大事な「私を知る」ということ)

腰くらいの高さのところで、指を握って「グッ」として、「よし。」。
おヘソよりちょっと下のところに「キュッ」と力を入れて、小さくガッツポーズする感じ。

……絶対この方がいい。
今後も、「やった!」ということに気がついたら、こうすることにしよう。
密かに、小さく、でも確かに、私のなかで喜ぼう。
これも、きっと、すごくいい練習になる。


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それから、もうひとつ、大大大大大大成果があります。
「自分を守る」という感覚が、「こうか……」と、モヤモヤとした漠然とした何かの中から何とか掴もうと、私が手をのばして、吟味して、掴もう、感じられる何かにしよう、と確認している感じがあること。

いつもみたいに、辞書もひいてみました。
守るって、大切にするってこと。
私を大切にするって、もっとも重要な存在として丁寧に扱うこと。

「やりなさい」「これくらいできるでしょう」「できないなら知りません、あとはご自由に」と圧迫される感じ(むかしからずっとある)から「分かってる、やらねばならない」という感覚とは、別の次元の意識です。
書いていて、また心臓が縮みあがっていますが、チェアワークすれば戻ります。

鍾乳石みたいに感じるほどゆっくりだけど、すこしずつ、私のなかに落ちているものがあるから、変化しているのだと思いました。
これも、ちっちゃく「グっ」とガッツポーズです。


だけど、落ちていく先がよどんでいる……。
そういうイメージもあります。
これが、問題。
解放したい、掃除したい、いらない……。


言葉の裏側のメッセージ(非言語メッセージ95%)も拾えました。
「根っこはそんなにたくさんない」というのは、こういうことなのか、と思いました。

「どうでもいい」「好きにしなさい」「勝手にしなさい」「お好きに」「ご自由に」「やればいいでしょ」
…言うとおりにできないあなたには興味/関心がない。

「いらいらする」「いい加減にして」「勘弁して」「もういい」「ごめんなさいね」「そんなこと言っていないでしょ」
…できない/分からない、あなたが悪い。

「自分ばっかり」「どうして~」
…できない/分からない、あなたはダメだ。

「よく言うわ」「よくやるわ」「バカじゃないの」「何してるの」
…あなたは間違っている。

「おかしいんじゃないの」
…あなたは異常だ。

「信じられない」「うそばっかり」「冗談でしょ」「どうせまた~でしょ」「そんなこといってまた~」
…あなたは信用に値しない、あなたにはできない。

ぜんぶNOです。
私は、そうは思わない。

練習では、「あなたって本当に信じられない」って言ってもらい、私は、(感じる前に、数拍の間があるのは、普通はそうではないらしい)「痛い、悲しい、つらい、熱い(目の間がモワっと熱をもっていた、怒りかな)、ひどい、ムカつく(受け入れられない)」という感じを拾いました。

そうか、これを「日常」でも拾えるようになると、安全につながるのか。
これが分からないことが、危機が分からない、ということか。

どちらかというと、それが全く分からないわけじゃなくて、現実の世界でのその使い方を、私がモヤモヤしていて、具体的に把握できていなくて、活用できていないのでは、と思いました。
(知っているはずなんだけど、応用ができていないのだと思う……)


パーソナリティ障害のケア……治療? を受けられるところを探すこと。←これが私を守ることだから最優先。

それから、DV、心理的暴力・恫喝、ダブルバインド。
ギャンブル依存、宗教依存、勉強ももうすこしずつ進めたい。
(私を責めるのではなく、私を守るため、です。)
それをしていかないと、私の原家族の裏側の理解につながらない気がしています。

「言うとおりにしろ、さもなくば」

さもなくば、何だろう……。
過去の何があって、私は私を縛っているんだろう。
何に私は足をこんなに取られてコケているんだろう……。

さもなくば、侵入してぐちゃぐちゃにしてやる?

表向き笑顔でハツラツとさえしているのに、得体の知れない何かある雰囲気。
父も、母も、私のなかにもまだまだあるから、こうなるのだ。
気持ち悪い、怖い、ネットリしてる、怖い、イヤだ。
怖い。


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ワークショップの翌日は疲れていたので眠れたけれど、その次の日の夜は恐怖と緊張で身体が覚醒しっぱなしで、何回緩めようとしてもうまくいかず、ほとんど眠れませんでした。
次の日の仕事も眠いはずなのに、眠くなくて、これが、いつも、私の身体に起こることだと思いました。

こんなに、こんなに、私は怖かったんだ……。
ものすごい見えない暴力のなかで、私は生きていたんだ……。

「何かへん」
「何かおかしい」
「違和感がある」
「この人はなんか危ない」
「この人は本当にまずい」

この肌感覚は感覚なので、私もわかる。
過敏かもしれないけど……。

静かに、感じてみると、そうすると、それを感じないひとって、私の周りにいないかもしれない。
(それは、私とまったく同じひとはいない、ということかもしれない)

いかにしたら、私の油断を回避してゆけるか。
まず、この感覚を無視しないことが、最大のポイントだと思いました。

去年の冬からずっと強く感じていた「外側に向かわない、私に集中する」ということへの、ものすごい心の抵抗が、此度の失敗で私のなかでおとなしくなりました……

回復を「私のまいにち」に組み込むことが、2年くらい前の私のテーマでした。

今度は、もうすこし具体的に……。
私が油断しないための、私の日常の時間を守るメンテナンスの仕組みを、私の習慣に組み込むことがテーマです。

問題発生のプロセスをチェックして、私のどこが弱いのか、穴なのか、確認しよう。

確認したら、どうしていこうか考えよう。

習慣にすることも、最近は、小さなことだけど、食事をしたら、そのまま放置せず、お茶碗を洗えるようになりました。
その前は、シャワーを浴びたあと、タオルで浴室を拭くことを習慣にしようと思って、これも、できるようになった。

仕事でも、進捗表を「こまい…」と思いながら、なんだかんだいって、これをつけておかないと後で余計に面倒なことになると分かっているので、放り出さず、もうすぐ8年になる、つけている。

だから、できる。
やろう。

自助グループいっている。
ウェブワークしている。
本も読んでいる。
カウンセリングも、行ってた。

それだけじゃダメだった…。
「私の欺瞞、嘘、秘密」に私が気づくこと。
これが、いちばん、いちばん、いちばん、大事。
「嘘、秘密」それが依存症の根っこです、命取り。


「人に時間を使わない」
「私の人生は私が守る」

今回のワークショップで、ここからつながる何か感覚の糸口を得たのなら、これが「つながって」、「できる」までやろう。

もう、私は、本当に、日々、練習あるのみです。
まず勝手に口から出てくるくらい、反復しよう。

それから、たくさん呼吸して、静かに体の感覚を感じよう。

できる = 腑に落ちて、身について、当たり前になるまで、やるのよ。


後半の時間に、だんだん過敏性腸炎のようなお腹が過剰に動いてキュルキュルしていたのが、チェアワークをしたら、スッとお腹の動きが止まったことに、驚きました。
体が崩れるとまた動き始めるのだけど、もう一度チェアワークしたら止まる。

私の体も、驚いていたのではないかと思います。
これも、すごくいい体験だったように思います。

本当にまたお世話になりました。

また命拾いしていただいてしまったけど、全くまだ予断を許さない。
心掛けて、ひとつずつ、やります。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。