基 13 |「個人の権利(=国民主権)」とは、”あなたの意思も尊重される” の意味

2022.01.13. UP

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ひとつ前のページの、「緊急事態条項」の説明。
もう、なんというか、見るからにやばいですよね……。


「緊急事態条項」が、見るからにやばいのは、わかった。
では、そもそも論として、「何がいちばんダメなの?」ということを、一緒に見てみたいです。


「緊急事態条項」が、いちばんやばいのは、こういうことだと思う。


「あなたという存在が、否定されること」
「あなたの人生も、否定されること」

「あなたの、個人レベルでのアイディアや、考えの否定」
「つまり、”個” としてのあなたの、存在否定」
「あなたは、国家のひとつの、駒に過ぎない」
「あなたが国家の考えに従わないなら、あなたは国家にとって、邪魔な存在」
「あなたの代わりは、山ほどいる。邪魔にされたくなければ、従順な駒になれ」

この考えを、私は本能的に、受け付けないです。
おえっとします。


文節区切りの線

適切に理解するために、ぐぐっと遠いところから、話をはじめてみたい。


たとえば、あなたの今日は、どうでしたか?
仕事は、忙しかっただろうか。
今日は、やったぞ! ということが、あった?
あるいは、気にくわないことがあったり、イライラしただろうか。

帰りがけに飲んだお茶が、ことのほか、おいしかったとか。
昼休憩の時のお弁当が、秀逸な出来?
「推し」が、今日はとりわけ輝いていたとか、あります?


あるいは、来週末に、みんなで集まることになった。
魚食べるんだよー、楽しみ楽しみ! みたいな感じでしょうか。





話を、もう少しだけ、後ろに戻させてください。
私(著者)は本を作っていて、ワークショップを運営しています。
当然のこととなるのですが、本を買ってくださる方も、ワークショップに来てくださる方も、悩みを持っている。

だから、本を買うわけですよね。
あるいは、ワークショップに参加して、共に学び、自分を知ってゆく。


「個人として、少しでも、よい人生にしたい」
「どうせ生きるなら、笑って、幸せに生きたい」

あまりに、人として、当たりまえの感覚。
当然のことです。


ところで、本の読者の感想を、直接的に聞けるチャンスは、著者は案外少ない。
でも、ワークショップのご参加者の方とは、ぐぐっと近い距離感になる。

たとえば、一緒にワークしていると、一緒に喜んだり、笑ったりする。

「これを、絶対に乗り越えたい!」
こんなふうに、がんばっている時には、ものすごい共感がある。
大きな山を越えた時には、一緒に「やった!!」です。





ひるがえって、あなたの日常もきっと、同じ感覚ですよね。

落ち込んでいる時には、誰かに話を聞いてもらうと、嬉しい。
たとえ世間的には、「取るに足らない」ものであったとしても(……ぜんぜん、そんなことない!)、悩みが解決したら、ほっとする。

目標がかなったら、嬉しい。
あるいは、誰かと仲良くできたら、嬉しい。

告白して、オッケーがもらえたら、とても嬉しい。
ちょっと気まずくなって、でも、互いに許し合えたら、すごく嬉しい。

あるいは、大切な人のお祝いを、みんなでできると嬉しい。
平凡だけれど、家族や大切な人たち、犬や猫たちが、健康であったら嬉しい……。



“生きている” とは、ささやかで、個人的なことの連続。
そして私は、これこそ、大切な価値だと思う。


あなたの「小さなこと」は、実は、一大事。
私たちはみな、それぞれ自分の「小さなこと」と向き合いながら、生きている。

それが、”生きる” ということ。
もっと言えば、それこそ、人生だから。


文節区切りの線

ひるがえって、この「緊急事態条項」が、なぜやばいのか。
それは、これら “小さなこと” の価値を、無効にしてしまうから。


ひらたく言えば、こういう考えでしょう。

「今は非常時ですから、個人のことより、お国の都合が優先です」
「あなたの考えや意思なんて、あなたにとってすら、二の次にしてもらわないと困ります


……え。待って。

国家の主役を、誰だと思っているのですか。
「国民主権」、つまり「主権在民」です。

重要ですから、もう一度、繰り返しますね。


民(私たち)の権利が主で、その権利を守るために、国がある
= これを、「国民主権」と呼ぶ
日本国憲法は、国のあり方を定めた基本的なルールで、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三原則を柱としています。
日本国憲法(衆議院)
日本国憲法の「三原則」とは?

この「国民主権」「基本的人権の尊重」を、一気にぶっ飛ばしたら、……相当まずくないですか?


もう少し噛み砕いて、見てゆきたい。

事実として、世の中には、いろいろな都合の人がいます。
外側から見たら、想像もできないほどの事情を抱えている方だって、いらっしゃる。

そして別に、それらを全て「ぶちまけない」と、日本に存在して “ダメ” なわけではない。


生きるとは、あいまいで、不確定なこと。
それでも、迷いながら、刻々ひとつずつ決めながら、生きている。

それぞれの事情を抱えながら、譲り合ったり、はんぶん目をつぶったり。
時には、そっと助け船を出したりしながら、私たちは暮らしている。


どうできるか、できないかは、その時々で、話し合って決めればよいこと。
だって、「その事情を抱えた人」も含めて、全員が、国の主役と決まっているのだから





ところが、この「緊急事態条項」。別名、「国家緊急権」。
昔の言葉で言えば、「治安維持法」。

この精神を、さらに詳しく説明するなら、こういうことでしょう。


「緊急事態に、国民がどうしたいかなど、いちいち聞いていられない」
緊急時に「政府が決める」ということは、そういうことですよね。
言葉を変えれば、国民の意見は、「要らない」ということ。


でも、考えてもみてください。

緊急時だからこそ、多様な意見がなければ、本来いけない。
多角的にものごとを見なければ、緊急事態を、安全に回避できない。

むしろ、反対者の意見こそ、大事だったりする。
それも含め、総合的に聞かないと、リスクに対処できない。


これこそ、私たちが80年前、犯した過ち。
一部の人たちが、「自分は正しいのだ」と “思い込んでいる” ことだけで、国民全体を巻き込み、盲目に戦争に突入してゆきました。

多くの平凡な命が、駒として、奪われた。

やりたいことも、好きな人も夢も、望む人生も、きっとあったのに。
あなたや私と、同じように。





この「緊急事態条項」の精神は、同じあやまちを、ふたたび繰り返そうとしている。


「政府が、いちばん賢い。最善に対処できるに決まっている」
「だから政府が、国民にとって “何が最善か” を決める」
「その際に、国民の意見はいらない。多様性もいらない」

「反対者なんて、しょせん異端でバカ。ものごとの全体像なんて、見えちゃいない」
「異論自体を、禁止します。緊急事態ですから、めんどくさいので」

「異論を受け入れる場・ダブルチェックする場も、いらない」
「個人は黙って、国家/政府が決めたことを、受け入れなさい」


「いやいや、そこの著者さん。待って、それはあなたの思い込み過ぎで、オーバーだよ」
「そうまでは、言っていないでしょう」
……と、言えるかな。

なぜなら、これこそ今まさに、現在進行形で起こっている考えでは?
だから、弁護士会はじめ、たくさんの有識者や国民が、全力で反対してるのでは?


「国民全体への影響のために、(科学的なエビデンスが極めて怪しい)ワクチンを打つべき」
「全体への迷惑を考えたら、個人の “小さな” 要望や希望など、取るに足らない」

「子どもの未来への、影響が心配? だから打ちたくない?」
「あなたの子どもの、たった1人の勝手な選択で、周りがどれだけ迷惑するか」

「ワクチンが安全か? 原料 “黒塗り” の是非なんて、緊急時には、取るに足らないこと」
「学者や医者が『データ』『エビデンス』と騒いでいるが、彼らには、何も分かっちゃいない」
「ああ、”陰謀論者” ですから、その人」

「国が『大本営発表』するワクチン情報以外は、陰謀論で、異論で、偽情報で “デマ” です」
「政府発表以外の “デマ” 情報に、惑わされないで」

「黙って、国家方針に従いなさい」
「医師も看護師も、あなたの自論はいらない。黙って従わなければ、免許を剥奪するぞ」


これが日本で、そして世界で今、起こっていること。
だからダメだと、私は思います。


「あなたもまた、一人の国民として、その考えや意思も、尊重される」
この「主権在民」の考えと、真逆の方に、行ってしまっている。

過去と同じ過ちの方向に、ぐんぐん迫っていると思っているから、私は「反対」。
賛成しません」という言い方ではなく、「緊急事態条項」には、明確に「反対します」。


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