平凡だけれど、真実と感じることを、書かせてください。
ほんとうに、平凡な言い草になり、とても恐縮ですが。
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「試練の時って、なぜ、存在するのだろう」
「なるべく障害なく、順当に生きられたほうが、いいに決まっているのに」
そんなことを、延々、考え続けた時期があります。
というのも、試練の時は、間断なく襲ってくるように思えます。
ひとつ終われば、また次のが来る……といったように。
いつ、終わりが来るのだ。
いつ、落ち着く……?
「ひとつずつの試練から学び、丁寧に向き合う」
そのような過程を、心底重荷に感じて、投げ出してしまいたくなることも。
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でも、ものごとは、いつかは落ち着く。
ひとつずつのことが、収まる棚に、おさまってゆく。
すると、やっと何か、意味のようなものが見えてくる。
結局は、必要なことだったと、理解できてくる。
重ねて、意味のようなものが見えるのは、後から振り返った時。
必死で進んでいる「その瞬間」は、ぜんぜん、意味が通らない。
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でももし、試練のようなものが、やってこないなら。
私はずっと、ぬるま湯の中にいたと思う。
そうして、逃げられる限りのことから、逃げていた。
だって、いつもと違うことをするのは、怖い。
予定調和の日常から、外れてゆくのは、落ち着かない。
挑戦するのは、何もかも未知で怖い。
失敗は、もっと怖い。
責められることも、怖い。
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でも、そうやって閉じこもり、自分だけの世界にぬくぬくと生きていたら……。
私の時間は、安全なものになる?
未来は?
人としての、成長は?
現実対応力は?
そうしているあいだにも、時は進む。
私の未来は、どんどん、危険にさらされてくる。
……私の側の、対応力の「育たなさ」によって。
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「試練」
それは、最初は気が進まない。
でも、それがなければ、重い腰が上がらない。
「仕方がない。やるしかない」
「少しずつでも、動くしかない」
そう感じたれたら、きっと、試練を正しく使っている。
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今まさに、現在進行形で、日本はきっと試練の中。
見えている人には、きっと、見えている。
私自身とて例外ではなく、またひとつ、成長の時。
そんなふうに、試練を使いたい。
それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。













