私は、幼少期に悔しい思いをしてきて、そこから、自分の時間を立て直した経験があります。
ですが最初から、起こっていたことに、気づけていたわけではない。
「悔しい」とも思っていなかったし、むしろ、自分のせいだと感じていました。
そして、そんな私が、大人の入口に立った時。
何が起こっているのか、その全体像を、自覚すらできていませんでした。
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大人の入口の頃の私は、こうだったと思います。
「努力しても、努力しても、擦り切れそうな気持ち」
「満たされない」
不思議なのです。
確かに、できる。
設定した目標を、達成もする。
結果も出る。
周りも、喜んでくれる。「ありがとう」と言ってくれる。
周りは、幸せそうだ。
でもそれが、自分の幸せ(という感覚)とは、まったく繋がってこない。
「こんな気持ちを抱く自分は、どこかおかしいのではないか」
「私の気持ちが、貧しいのではないか」
「私は、すごく嫌な人間なのでは」
自分のことを、こんなふうに感じていました。
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そうして時が経ち、さまざまなご縁をいただきながら、ことの全容を把握するに至りました。
今は、自分と同じ経験をした方々を、サポートする側に回っています。
思うことがあります。
努力が、努力として積み重なるようになって、ほんとうによかった。
それは、かつて教えられたように、「魔法のような」何かではなかった。
そのようなものは、そもそも、存在しなかった。
そう教えた大人たちが、おかしな人たちだったとわかった。
その考えを、人生の土台にしていたら、私の人生が破綻してしまうところだった。
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長い、一段ずつの、努力の階段。
でも、今度は、積み重なる努力の階段です。
ご縁をいただいている「お仲間さん」。
時間をかけるなら、絶対に、こっちのほうがいい。
なぜなら、時間は報いる。
必ず。
時間は、裏切らない。
かけた時間のぶんだけ、努力が、着実に報いてくる。
このやり方のほうが、どこかの安っぽい「魔法」より、ずっと魔法です。
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それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。