幻想の眼鏡を外す | 自分が「ない」時、時間は「ある」。自分が「ある」時、時間は「ない」

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時間と心がテーマ、藤沢優月(文筆業)です。


2025年の10月も下旬。
欧州著者地方は、秋と冬が、共存しているような日々。

ご近所のどこかからは、薪の香りが。
暖炉に火を入れる瞬間が、今年もいよいよ、やってきたのでしょう。


あなた様は、どんな時間をお過ごしですか?





タイトルの件ですが、もう「それです」としか、言いようがない。
これは、実際に体験した人にしか、わからない感覚。

経験のない人はきっと、文の意味すら、わからないでしょう。
ですが、経験を経ると、この事実の重さで、頭を殴られるような思いです。






そうなのです。
自分が「ない」時。どうしてあんなに、1時間や1週間、1ヶ月や1年という時間に、いい加減でいられたのだろう。


開けっ放しの、水道栓のようなものでした。
閉めることなく無駄使いした時間は、もう、戻ってこない。

そして、流れてしまった時間は、透明で「無料」などではなかった。
知らないうちに課金されていた水と同じように、実は、莫大な料金が請求されていた。





その証拠に、一転して、自分が「ある」になった時。
この、莫大な料金の存在に気づきます。

頭を横殴りに、殴られるような衝撃。
使える水の残量は減り、代わりに、見知らぬ請求書が積み上がっているのです。

しかも、とうてい払い切れるとは思えないほどの金額。
あげく、自分で作った借金ではないという理不尽さ。




日々、この事実と向き合っている「お仲間さん」。


愚かで馬鹿なことに使われてしまった、かけがえのない時間。
勝手に積み上がり、払わざるを得ない請求書。

腹立たしいことですが、事情は、みな同じ。
ここに縁を紡いでいる誰もが、この理由で、自分の時間と真剣に向き合っています。






文字通り、二度と戻ってこない、命の時間です。
もうこれ以上、妥協はできない。


今週も、自分に集中しながら、1滴の時間すら惜しんで向き合いたい。
重ねて、きっと誰もが、そうしているはずです。



それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。