幻想の眼鏡を外す |「綺麗事」の響きに、ぞわぞわしてきたなら

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時間と命がメインテーマ、文筆業・藤沢優月です。
欧州の歴史ある街から、メッセージをお届けしています。



同じ経験の方も、いらっしゃるかもしれないのですが……。
私は過去に、いわゆる「綺麗事」しかないような環境に、育ってきました。


そこでは、耳ざわりのよい言葉が、好まれていました。
本音や本心は、隠されていました。

心からの感想を口にすることは、許されていませんでした。
本心に、少しでも勘づかれようものなら、反逆者扱いです。

「私たちの、この、安定調和した空気を、壊す気か」



私が過去に、所属していた世界。
そこから距離を取り、大人になった今だから、わかる。

その世界は、ろくなものではありませんでした。



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「綺麗事」

それは、本心を隠す、オブラートに包む、言わない……ということかもしれません。
なかば意図的に、おとぎ話のような世界を、共同作業で作ってゆく、ということかも。

たとえるなら、「100回唱えているうちに、ほんとうになるかもしれない」という感じに、似ているかも。



こう考えると、「綺麗事」って、麻薬と似ているように思うのです。

そこに共同参加して、自分の腕も、「綺麗事」の世界を支えるのに貸している。
そうしている時、ほんの少し、現実から目をそらせる感覚がある。

ふわふわとした、一種の仲間意識のようなものに、感覚が飲まれてゆく。
「みんな」でそうしていれば、もしかして、大丈夫になるんじゃないか、と。


–


ところで、いわゆる争い……戦争や、あらゆる種類の暴力。
公のものから、人知れず行われる、家庭内でのものまで。

そういったものと、麻薬……いわゆる薬物は、切ってもきれない関係にあるでしょう。


「とうてい、堪えられない」

そういうような状況に対して、ある種、麻痺するために。
薬物のもたらしてくれる、偽りの多幸感は、便利であるわけです。



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さて、もしそうなら。
この、「綺麗事」という、ある種の麻薬。その響きに、ぞわぞわしてきたなら……。 


それは、祝うべき瞬間のように思うのです。

なぜなら、その、ぞわぞわとした感覚。

それは、偽りの多幸感を振り払ってまで、現実という暗い穴を、覗き込もうとしている。
その、勇気の瞬間の瀬戸際にある、ということなのだろうから。




それでは、また。
また、メッセージを書きに来ます。