[ ONSA 通信 ]の続き |「予定調和」しないこと。こんなにも怖く、そして大切なことだった

画像
時間と命がメインテーマ、文筆業・藤沢優月です。


[ ONSA 通信 ]の続きというより、メールマガジンに「続く」になってしまいますが……。
2026年の目下、欧州に住んでいます。


そして、日々肌で感じること。
欧州の方々が、いわゆる「予定調和」……こうするべきだから、こうしなければならないといったふうに、半ば全自動で、脊髄反射で行動すること。

その割合は、日本人よりも、はるかに少ないように思います。





肯定的な意味で、「自分は自分」「人は人」。
自分の意見を、しっかり持っている感じ。

でもそれは、自我が強いとか、我を通す感じとは違う。
多分、教育なのだろうな……みたいな雰囲気を、大いに感じます。



学生さんなども、すごく堂々としています。
それでいて、とても感じがいいのです。





ひるがえって私は、良くも悪くも日本人。
ですので、たとえ欧州にいても、そわそわしてしまいます。

「予定調和」……つまり、こうするべきだから、こうしなければならないといったふうな、半ば全自動的な「何か」。

脊髄反射というぐらい、1回辺りを見回して、ルールを探してしまいます。

「今って、どうふるまうのが……正解?」






そして毎度、我に返る。

そうか。「予定調和」ルールなどなかった。

法と社会マナーに違反していなければ、自由なのだった。
そういう設定の国に、住んでいるのだった。


トホホ……。
(骨身に染みついた反復動作を痛感)





「予定調和」というのは、私にとって、着慣れたダウンコートのような感じ。

軽くて、ぬくぬくして、着ていることさえ忘れてしまう。
しかも、それさえ着ていれば、とりあえず、何も言われない。


だから、あまりに着慣れてしまうと、ちょっとまずい。
なぜなら、無意識に羽織っているものを、「自分の意見」みたいに勘違いしてしまうから。



まったく、自分の意見ではないのに。
ただ、その辺りを漂っている、「こういう時は、こうすべき」という「何か」に過ぎないのに。





「予定調和」を外れてゆくことは、だから、慣れない。
時に、怖くもあります。


だからこそ、大切なことでもあると思うのです。


自分で考え、自分で試す。
すると失敗も、それで重ねた経験値も、生きる力も、自分のものになるから。




私はやっぱり、これが好きです。
そして、とても必要だとも思う。

それでは、また。