「大飛躍への本番」”練習してものにする” | チャレンジのきろく/2025年09月27日開催

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タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加)



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質問[1]
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。



私は、今回の Dream Quest WORKSHOP で、目標を現実にするために必要な「行動する」ということが具体的にどういうことなのかが、前回よりくっきりとしてきたように思う。

自分がそれまで試してきた0か100かで導き出した行動は現実的ではないし、自分には向かないことばかりだった。
だから動機は「怖いから」とか「これしかないから」という理由だけで、ただ単に突き動かされていただけなように思う。

本当はピンときていなかったのに、「ガマン」と「がんばり」で残りの自分の大切な時間をのりきろうとしていた。
これまでの自分は、こんな風なやり方で大きな決断をしていたかと思うと、本当に恐ろしいなと改めて思った。



目標のために考え続けることと、それに伴う具体的な行動を手帳に落とし込んでいくこと。
それと並行して今やっておきたい事務的なこと。

それらを書き出しただけでも気が遠くなり、「怖い」と言って感慨にふけっている時間は全く無かったということに気づかされた。


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私は、自分にとっての駿府城(目標)は正直まだ程遠い。
その一方で、昨年よりも半年前よりも、その目標の輪郭がはっきりしてきている。

どういう具体的な行動をとれば良いのかが、朧気ながら少しだけ見えてきたように思う。


外側は何も変化がないけれど、変な意味不明の焦りが大分減ってきた。
だから今日も、予定を書いてそれをやっていくし、できなければできるように調整していく。

進捗や詰まったところを、報告、相談して修正していく。
そういうことを繰り返しながら、また次の一年も出来れば楽しんで進んでいけたらいいなと思う。



質問[2]
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。



私は、身体を整えること、毎日の生活(食事を含め)をきちんと回せる力を身に着けたい。
私は、静かに暮らして自分にもっと耳を傾けたい。

私は、今まで自分がしてきたこと、自分の手についてしっかり考えたい。
私は、私らしい生活と、人生を歩みたい。それを考え続けたい。


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私は、出来ない時や詰まった時、「どうしたら出来るようになるだろう」と考える方が気持ち良いと思えるようになった。

自分の手について考える時、何か新しいことを考えるのではなく、今までやってきたことにフォーカスするようになった。
だから今まで以上に、過去のことを振り返るようになり、その時は昔の自分に優しい目と気持ちを持てるようになった。

いつからかは解らないが、気が付いたらそうなっていた。


ずっとこの自分の無茶に付き合ってくれていたのだ。
だからこれからは、今以上に私らしい道を歩んでいきたい、そう思った。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加)



タイトル下の線

質問[1]
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。



私は、自分が選択した時間を、本当に生きることになる。

この重大さを、私はまだわかっていなかったのかもしれない。
そのことがわかってきた。


私は、その時間を実際に生きる。そこで、感情を体験する。
体験することが自分が望みと合っていないならば、なんて不幸なことだろう。

逆に、自分が欲しいものを得たり、そのために全力を尽くしたりできるなら、どれほど豊かで幸せなことだろう。


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私は、自分が心から望むことを欲し、選んでもいいのだ。
そして、そのためには自分で動かなくてはいけないのだ。


だから、問わなくてはいけない。

私は、どう生きたいのか?
したい感情体験は、何だろうか?


自分から出てくるものが曖昧なうちは、どうしたらいいかも検討がつかない。

練習を重ねてみると、「具体的」とはこういうことか、というイメージが少しずつ見えてくるようだった。
新たに「わからないこと」「考えるべきこと」も現れてくる。


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今回学んだことは、自分がいつの間にか目的地を見失っている、ということだった。

例えで示されたように、私は目指すお城にたどり着くまでに、城下町であっちの店やらこっちの人々やらに引っかかってしまう。
自分の都合ではないものに気をとられ、時間もエネルギーも消耗する。

私は、自分の望む条件のものが「見つからないのではないかと考えること」に、大いに気をとられていた。
(この「きろく」を書いている今週にも、たびたび起こりそうになっている…)


ある程度は妥協もしなくてはいけないだろう。
ラクに手が届きそうなもので、「満足ということにする」しかないのではないか。
そもそも、望むこと自体が間違いなのでは…。


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徐々にずれていき、危うく私は自分の希望をねじ曲げ始めそうになる。


「誰か」の望みは実現し、「誰か」が満足することはあり得るかもしれない。

けれど、ねじ曲げたうえで行き着いた感情体験を、私は本当に得たいのか? 
「心待ち」と思えるだろうか?

よく、考えなくてはいけない。


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私は、自分の悪癖に対処し続ける必要も改めて感じた。

私は、「相手の都合」のために生きているわけではない。
私が責任を持つのは、「自分が生きること」だけだ。


私には、時間習慣を整える練習がますます必要なのだと感じた。
計画を立てる力も、実行する力も、鍛える必要がある。

特に、やり方を知らないことや自分の苦手なことには、本当にいちいち時間がかかる。
でも、それが普通。
(この理解のためにも、時間がかかっている)


だからこそ、必要なことへ時間をかけていく。
私は、自分の望みを見据え、そのための時間を生きる。



質問[2]
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。



私は、自分の「手」を使って自分を食わせていけるようになりたい。
「手」を持つために、学びたい。

その時間やエネルギーを確保しながら、当座の自分も食わせられるようになりたい。
もっと大きな目標にも、向かっていける力をつけたい。


形としての望みは、「手」であったり、「収入」であったりするかもしれない。
でも、それ自体にはきっと意味がない。

私にとって大切なことは、望むような感情体験を、味わっていくこと。

私は、自分で自分の身を立てることで、誇りや自信を感じたい。
そこへ向かうあいだも、成長を感じ、誇りに思える信じられる自分でありたい。


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約1年前の自分の足場を思い出してみると、私はすでに、いまの自分が誇らしいではないか。

もっと、自分の人生のことを進めたい。
そのような欲も出てきたと思う。

私は、ガタガタしながらも少しずつ進んで、生きる力をつけていきたい。
そのプロセスを歩む「楽しさ」を、心から味わえるようになりたい。