2025.08月開催 「境界線ワークショップ」えいこうクラス

画像
タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


私は、「非言語で圧をかけてくる人」の要素を学ぶほどに、自分のこともよく見えてくるのを感じた。

この「圧」を、自分自身にも大いに感じる。

言っていることとやっていることの不一致。
暗にいつも、良いものを与えてくれそうな人や場所をさがす依存性。

「察して動く」が当たり前であるとともに、「察してもらう」も当然のように期待している…。


身近だった環境や人々のほとんど、そして自分自身がこの状態であり、気づくことが難しかった。
学びと体験が少しずつ重なることで、この「おかしさ」の理解も深まってきた。

私は、実際に起こっていることを、正直に見なくてはいけない。

それによって、現実的な対処も変わる。
自分自身の態度を改めることも、関係性を作る前に相手を見極めるということも、実際に必要なことなのだと学んだ。


文節区切りの線


今回とくに大きな発見だったのは、事実をまっすぐ見るか見ないかによって、「全く違う方へ進んできた/しまう」のでは、と感じたことだ。

私の境界線の位置は、ゆがんでいる。
私のやり方は、よくない。

それに対して、「だから私はダメな人間なのだ」と帰結すると、出口がない。
「ダメ」を改善するべく迷宮のなかであれこれと手を尽くしてみるものの、疲弊するばかりになってしまう。

一方で、「やり方が良くない」という事実を直視するなら、必要な対処を学ぶことで、現状を動かすことも可能になってくる。


文節区切りの線


私は、「おかしい」と感じる力すら、奪われてきた。
自分も幸せになっていいし、自分で自分を幸せにしなくてはいけないとは、教わらなかった。

代わりに、たとえば親からの「自分たちを満足させてほしい」という非言語メッセージを身近にし、その環境で通用する処世術を身に着けた。
人格を否定するかのように感じる「親を悪く言ってはいけない」に従えば、自分の側を曲げざるを得ない。


文節区切りの線


しかしひょっとすると、やり方が良くないと認めることは、それとは違うことなのではないか。

自分が感じてきたことや陥っていた状態が、事実として存在する。
私は、この事実に対しては、もっと怒らなくてはいけないのではないだろうか。

…なんてことをしてくれたのだ。
これから学ぶことになる「怒り」に対しても、自分にとって大切なステップなのではないかということを自然と感じるようになってきた。


私にとって、「ノー」と伝えるということも、相手に対する人格否定であるかのように感じていたのかもしれない。

ここにも「非言語の圧」がありそうだ。
相手に暗に期待しているために、それが外れるとがっかりする。相手の期待を裏切ってしまうのではと、心を痛める。


文節区切りの線


今回学んでみて、自分の感じ方の変化に驚いた。
私は、たとえ「冷たくなった(=便利ではなくなったの意)」と言われても、以前よりも動じないかもしれない。

「便利である」ということには、もはや価値を感じられないから。
相手ががっかりするかしないかは、私にはどうすることもできない。


私は、自分に誠実であることの方が大事だ。
そのためには、行動を変え、「ノー」を示す必要も出てくる。

自分に誠実であるからこそ、相手にも誠実でいられる。
私は、その価値観を共にできる関係性をさがしていきたい。


文節区切りの線


私は、チェアワークを通じて、自分の輪郭を確認した。
「このからだひとつ」「ここだけに責任をもつ」そう聞いて意識をしてみて、こんなに小さいのかと、不思議な気持ちになった。

でも、けっして軽いわけではなく、ずっしりと重いような濃いような、価値あるものが存在するのを感じる。


私はこの範囲(=境界線)を超えるとき、私の身体はなんらかの形でそわそわしているな、と気づいた。


たとえば、この範囲を超えて手を伸ばし、自分を「大きく」「立派に」みせようとしているとき。
(焦りや不安を感じやすい)

自分にとってはさほど大切ではないものが、侵入してくるようなとき。
(違和感をごまかし、正当化をしやすい)

あるいは、どうにもできないはずの、他人の感情ばかりを気にしているとき。
(無駄に疲れる)

いずれにしても、私の息は徐々に乱れる。なんだか苦しくなる。


身体からのサインは、きちんと存在しているのだ。
意識を向けるべきなのは「非言語の圧」ではなく、大切なことを知らせてくれる自分。

私は、この自分にどこまでも正直であろうと改めて思っている。




タイトルはじまり目印

H. M. さん(40代以上/福島県よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


今回のワークショップで一番衝撃を受けたのは、自分が生活の中で他者に対して無言の圧をかける行動をとっていたという事実に気づいたことでした。

私は子どもの頃、母親の無言の圧が嫌で嫌でたまらなかったという経験があります。
口では「〜しなさい」とは言わないけれども、それをするべきだという態度で私たち子どもをコントロールしてくることが本当に嫌でした。

しかも、母親自身は自分が圧をかけているということに気づいていないし、それを指摘しても、絶対に認めることはありませんでした。


文節区切りの線


そんな母親の姿を見て、私はそんな話も通じない、無言の圧をかけるような人には絶対にならないと心に決めていました。
そして、このワークショップを受けるまで、自分が無言の圧をかける側になっていたとは全く気づいていませんでした。

お仲間さんのシェアを聞いて、あれ? そういうことなら私もしていると気づき、そんなつもりは全くなかった自分の行動が実は無言の圧であったということに気づくことができました。
そして、それが健やかな境界線を持たずに生きているということなのだということも理解することができました。


文節区切りの線


自分が無言の圧をかけている行動をしていると最初に気づいた場面は職場でのことでしたが、落ち着いて考えると、その行動はもちろん職場に限らず、家族の中でもやっていたことが見えてきました。
夫に対して、子どもに対して、私はやっているつもりはさらさらないままやってしまっていたのです。

現在19歳の娘が昨年私に話してくれたこともまさにそれでした。
娘は子どもの頃、服を買う時、本当は別に着たい服があっても、私の望んでいるであろう服を選ぶことが多かったそうです。

私は「好きな服を選んで」と口では言いながら、言葉ではない何かやその時以外に日常的に発していた言葉などでコントロールしていたのだと今はわかります。
そして、それは洋服選びのことだけにとどまるわけもなく、子どもたちに関わる全般のことにしてしまっていたのだと思うと、娘や息子に与え続けてきた悪影響がどこまで浸透しているのかと恐ろしい気持ちになりました。


文節区切りの線


あれだけ自分ではそうならないと心に決めていたのに、そして、そうならないために十分気をつけてきたつもりだったのに、自分の中にまともな価値観が育っていないということはこういうことなのだと思いました。

まともじゃない考え方でいくら頑張ってもまともな結論、結果に辿りつかない。
とても残念ですが、その事実を受け止める必要があるのだと思います。


そして、自分にはまだ気づけていない健全でない部分がまだまだあるということを念頭におき、注意深く自分を観察したり、他者の力を借りたりすることでそれらに気づき、改善していかなければならないと思っています。


文節区切りの線


今回のワークショップで、自分の境界線を感じてみるというワークがあったのですが、実際に意識を向けて確認してみて思ったのは、「私の責任範囲って、たったこれだけだったの?」ということでした。

この部分に集中して、これをしっかり守っていくことが私のすべきことと教えていただき、これだけでいいなら嬉しいし、心が軽くなると感じました。


これまでの自分が、いかに責任範囲外のことに勝手に意識を向けていたのか、そしてそれをいいこと、しなければならないことだと思っていたことに気づけました。

そんな自分でいることで、同じような感覚の人たちに居心地の良さを感じてしまったり、境界線がちゃんとしている人たちに違和感を感じてしまったりしていたこともわかったので、今後自分の境界線への意識をととのえ、境界線がはっきりしている人や場がしっくりくる自分になっていきたいと思いました。


文節区切りの線


その他、自分自身がこう生きたいとしっかりと考えているつもりのことが、とても曖昧でふんわりとぼやけているということ、そして、それが具体的でないことには実現させようがないこと、こう生きたいという自身が望む生き方を進めている人の物事の捉え方や計画の立て方が自分とは全く違っていることに気づくことができました。

また、学んだこととして、人との関係の始め方、不健全な関係をどうほどいていくかの具体的な考え方や方法、自分の境界線を守っていくためのお誘いの断り方やそれにまつわる罪悪感やネガティブな感情への考え方や対応、健全な言語コミュニケーションを取って健全な関係を築いていくことが可能な人の割合や自分はその人たちだけを見極め、選んで自分の人生を作っていくことが大切、ということがありました。


文節区切りの線


どの学びも重要すぎて、この機会に学ぶことができてありがたかったです。

この学びを人生の早い段階で得たかったと思いました。
今後自分の生活で実践し身につけることで、日々の感覚が全く変わっていくと思います。

自分が親としてこのようなことを子どもたちに教えてこられなかったので、まず自分が身につけていき、子どもに自分自身の在り方や言葉で伝えられるようになりたいと思います。

優月さん、ご参加の皆様、今回もたくさんの学びをありがとうございました。




タイトルはじまり目印

M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


自分にとって痛い気づきが、自分や自分の周りを認め守ることになることを理解してきた。
その痛い気づきに無自覚でいること、無自覚でいたことが、恐ろしく思うし、過去のことは謝ることしかできない。

それでいて、「後味の悪くならないこと」を、今後もっといろんな場面で自分ができていけるようになりたい。

まず一つできた、そうしたら、この感じで次もいきたくなる。
この感じが大事だと思った。


文節区切りの線


止まる、自分の責任の範囲=身体を感じる、考える。
わたしの責任の範囲はここまで。

身体という見えるものだから、わたしにとってはやはり意識しやすい。
それを都度都度止まって確認していくこと。

自分の責任の範囲、それは、わたしにとっては、奪われないことだけではなく、人の方へ手を出さないこと、だと感じた。
また、勝手に他人の範囲と共有しないこと、だと感じた。


小さい頃の縄跳び遊びを思い出した。「お入んなさい。」と二人で一つの縄跳びを飛ぶ。
勝手に共有し共有され、勝手に幻滅し幻滅される。
縄の回し方が速いとか、入るタイミングが悪いとか。

その前に、自分の跳び方を知っていこうと思う。
それは癖のある跳び方をしているのだと思う。そういう自覚を持っていく。一人で跳ぶ。


文節区切りの線


自分の状況や周りはすぐには変わらないし、それが普通だけど、今まで自分だけでは見えてなかったものを知って、「あぁ…」と身に覚えのあることを思い出し結びつけ(いろんな思いはここで巡る)、自覚していくことにする。

決して「じゃあ、そうでないものになろう」とか「明日からそうしない、生まれ変わる。」という決意は要らなくて、むしろ余計で、自覚、ということが一番現実的だと思った。

今回もありがとうございました。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


私は今回のワークショップで、健康な人たちと縁が持てるのは、先ずは自分自身が誠実でいなければならないという、書いてみれば当たり前のことを自覚することができた。

毎回の定点観測リストのコミュニケーションの欄に、書き連ねていた事柄を、相手に求めることではなく自分に変換して見返してみると、自分がいかに傲慢だったかが見えてくる。

自分は棚に上げ、出来ていないことを相手に求めるって大人として一体どうなのだろう、と。
でも同時に、自分のことであれば自分で変えることができる、という安心感が持てた。


文節区切りの線


・いつも体調が良くて美味しくご飯が食べられていて、穏やか。
・何か起こった時、自分の意見があり、且つ皆で一緒に考えられる。

・これが好き、めっちゃ好きというものがあり、それらをそれぞれが楽しんでやっている。
・境界線が明確で、多く詮索しない。
・物々交換(スキルも含む)が出来る。

上記のような人間関係の中で生きられたら、きっと楽しい。

だから先ずは自分が taker にならないよう、三毒をまき散らさないよう、心身共に整えることが最重要なのだなと思った。


文節区切りの線


全ては自分から。
自分で動いて、自分で何かを得て、そうやって自分が自分を成長させる。

結局それが、一番の近道。
今回も、基本の大切さを学びました。


ご一緒してくださったお仲間さんへ。
今回もありがとうございました。
また別のワークショップでお会いできることを楽しみにしています。




タイトルはじまり目印

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


私へ

ワークショップから1週間過ぎたね。
たった1週間前の事なのに、もうずっと前にあったことのようにも感じる。

現実の時間は、こんな風にいつもあっという間だ。
強制的にでも立ち止まって自分を省み整理することは、私に取って必要なことだよね。

正直自分の中で落ちきったのか分からないけれど、「1週間経った今の時点で拾えたこと・感じること」を書いてみよう。
まとめてみることで、新たに気付けるかもしれないから。


文節区切りの線


今振り返っても、ワークショップで学んだことは大前提の基礎で、本当に大切で実際身につけないといけないことだと感じる。

当日は、正直なところ「納得」しかなかった。
それでも、その中に「痛い」「認めたくない」…そんな気持ちもこの期に及んで湧いてきた。


でも、今迄その時分からなくても受入られなくても、後になって「言ってもらえて良かった」「今なら分かる」ということが沢山あって、それが少しずつでも私を前に進ませてくれた。
今回も、ここで止まらずに気付き続け、軌道修正し続けよう。


文節区切りの線


今回とても心に残っている言葉がある。
「必死なだけ」

引っかかりのあった人たちを振り返っても、私自身を省みても、そう、「必死なだけ」なのだと思う。

そして、同時に人はきっと誰でも必死で、そうでない人はいないのではないかと思う。
そして、「必死なこと」は私自身にだけ関係あることで、他の人には関係はない。


文節区切りの線


私が生きたい人生を生きるには、良い人たちとつながってゆくには、まず私がちゃんとする必要がある。

その為に、人の手を借りながら、コミュニケーションを身に着ける。
欲に負けない。

先の時間を安定して生きられるよう、今のスキルを見直し学ぶ。
そして、現実の等身大の「私自身」を出発点に計画し行動し、軌道修正し続ける。

何度も確認したい「私」の境界線だね。


文節区切りの線


数年前は、「受け身」と言われても、どこがそうなのか分からなかった。
今は、なぜ自分がそういられたのか分からない。

いつの間にか、
「やるもやらないも出来るも出来ないも、全て自分に返ってくるもの」
「全て自分次第だし、自分で引き受けるもの」
どこまで理解できているか分からないけれど、そう思っている。

何と言ったらいいだろう?
なんだか悪い夢からさめたような気がしている。

これを一時のことにしないで、これからの行動で本当に自分のものにしていこう。


最後になりましたが、今回もどうもありがとうございました。




タイトルはじまり目印

T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


ワークショップの中で聞く話に心当たりがありすぎて、私は何度もイタくて苦い気持ちになった。

私の行動のベースには常に欲があると、日々感じている。

学びの場に参加して知識を得て自分の身を守る一助とするという動機はよいけれど、助けてもらえないかな、あわよくばと、乗っかろうとするのは違う。

ほとんど無意識の欲を見つけてはがっかりするけれど、気付くようにはなってきた。
自分でやると決めないと、私は何も進まないとも思う。


文節区切りの線


私は完璧に振る舞うこと、一見できているように見せること、誰かの真似をすること、そんなことにばかり気を取られていた。

空っぽで薄っぺらな自分。
その幼稚さに、マトモな人は関わらないだろうとも思う。


同僚が周囲の人を振り回す様子を見て、強弱の差はあれど、自分にも同じような時があると感じていた。
時間の感覚、スケジュールの置き方、周りへの配慮。

私も周りに圧をかけていることがある。
私は他人を通して自分を見ている。


文節区切りの線


ワークショップ・クラス後の一週間、私は自分のやりたいこと、やらなくてはいけないことがあると思うと、仕事を終える時間も今までより意識している自分に気がついた。

仕事で相談の電話をしたいとの話は、今は忙しいと断った。
これまでも十分過ぎる時間を費やしていて、本当にキリがないと思った。

私には差し迫った業務もあって、そもそも付き合う時間はない。
そう思うと、きっぱり伝えられた。

正さない、コントロールしない、理解させようとしない。
私はずっと不毛なことを必死にやり続けていたと思う。

それを手放そうと意識している。
かりそめの安心にエネルギーを費やすのはもう止めたい。


文節区切りの線


私は歯科の予約を入れている日は、予め決めておいた終業時間で、予約に間に合うよう余裕を持って仕事を終えられる。
明確な目的があると、私はそれに沿って行動している。

私の人生にとって大切なことが明確なら、私は優先順位をもっとはっきりできると思う。
自分がどう生きたいのか、私は日々もっと真剣に考え続けたい。

私はすぐに忘れてしまうし、ゆっくりしか進めないけれど、自分なりに油断せずに取組んでいきたい。


今回もありがとうございました。




タイトルはじまり目印

A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) えいこうクラス



タイトル下の線


私は自分の境界線を勘違いしていた。
チェアワークをして自分の身体の輪郭をなぞったとき、私は自分の輪郭が思ったより小さく感じた。

私は普段自分の境界線が、自分の輪郭より外に伸びていた。
イメージを膨らませると、私は誰かに何かを頼むとき、それが仕事でもプライベートでも相手の後ろに何かをのせていた。

デフォルトが二人でひとつの境界線にしようとしていた。
私は自分の境界線があやふやで、かわりに他人の境界線も出入り自由に考えていた。


文節区切りの線


私が思う優しい人のふるまいが、非言語で圧をかけているものだった。
私はコミュニケーションの取り方が、健全な方法と大きくずれていた。

私は自分のことを圧を掛けられている側と思っていたが、むしろ圧をかけている側だった。
私が今まで気づかずにふるまっていたのが、とても恐ろしい。

私は子どものころ母親から、笑顔で圧をかけられて怖い思いをしたのに、同じことを他人にしている。
私の行動を振り返ると母親と同じようなやり方をしていて、デフォルトでの振る舞いは他人を操作しようとしていた。

私は他人を観察していい人の振りをして、助けてくれそうな人を探すことばかりに、力を注いでいた。
私は行動の軸が、私を幸せにしてくれる他人に探すことになっていた。


文節区切りの線


私は言葉ではっきりコミュニケーションをとることをしてこなかった。

私はズバズバはっきり言われる方がこわく感じてしまっていた。
ただ説明されると、自分の方が異常なのがわかった。

私は察してコミュニケーションになじみすぎている。


文節区切りの線


・自分のやること

私は自分が何かを始める時、ぐるぐるした時に、自分の基準が「誰が私を幸せにせてくれるの?」になってないか問いかける。
私は私の境界線がわからなくなるので、チェアワークの時に輪郭をなぞって意識する。

私は非言語の圧ではなく、具体的な言葉のコミュニケーションの練習をする。
あいまいな表現をやめて、自分で数字を決めて伝えるようにする。

自分との約束を守る。
守れるレベルの約束ができるようにする。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。