Pay Forward

M. K. さん(40代以上/福岡県よりご参加) はつたかクラス
そもそも私は感情と身体を持っていて、「今」を生きているのだと確認した。
世の中のルールや見えない決まりごと、私に欠けている豊かさのあたたかいイメージについて確認した。
私は生まれ育った家族の中で子供らしい扱いを受けておらず、役に立つことでそこにいるられるということを学んでしまった。
大きい欠けがある状態で、それらを切り離して、存在しているための誤った努力をしてきたんだと思った。

私はまだ自分にとってちょうどいい豊かさ、安全の感じがわからない。
私はまだ適切な世の中の渡り方を知らない。
私はまだどのくらいの努力が普通なのかがわからない。
今は切り離してしまった身体を観察して、確認する習慣を身につけているところだ。
私はどうしたいのか、何が欲しいのか聞いて自分の感情を確認する練習をしているところだが、お返事は今のところだいぶゆっくり受け取っているところだと思う。

これから、はじめればいい。
もうできないこと、取り返せないものはある。
今私を生かしてくれているこの身体、私と一緒にいてくれた感情に感謝して、私から離れずに学び続けていきたいと思った。

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) はつたかクラス
私は今回のワークショップで人間関係の基礎を改めて学び、今の自分の気持ちや課題が、以前よりくっきりとしてきたように感じた。
私の人間関係構築のベースは、母のやり方そのものだと感じた。
母のそれは父の暴君に対し、ひたすら我慢して、感覚を麻痺させて、嵐が過ぎるのを待つやり方だった。
心中は不明だが、恐らく「徳を積めば幸せになれる」と解釈をねじ曲げて現実対処を行わず、逃避を繰り返してきたのだと思う。
その処世術を受け継いだ私の人間関係は、一言で言えば「苦しい」がデフォルトになっている。

私は、原家族の中で母のやり方に加えて、その場の何とも言えない嫌な空気を変えなければと、わざととぼけたことを言って(たまに外して父の逆鱗に触れていた)、父が怒り出す前に何とか食い止めるのが、自分の役割だと思っていた。
ハリポテの、その場の一瞬だけの安らぎみたいなもののために「動け」と訓練されてきたように思う。
偽りの「愛されキャラ」を演じすぎて、いつしかそれが自分の性格だと細胞レベルで刻まれた。
自分が何をやっているのか、何をやりたいのかも不明で、本当の自分からどんどん遠ざかっていく。
苦しいのは当たり前だった。

私はよく、誰かに強く暗に圧をかけられると、直ぐに自分の意見をひっこめ、時に無かったことにし、更に自分の意見を否定までしはじめる。
また、不穏な空気感になった時は、いてもたってもいられなくなり、自分のせいなのだろうかと、罪悪感の様なものを感じてしまう。
新しい人間関係を築く時は、相手が求めていそうなキャラを演じ、はじめはその場に応じて対応できたつもりでいても、そのことで段々自分が苦しくなっているのに、加減が解らなくなる。
そもそも演技なのか本当の自分なのかの区別がつかなくなる。
演技だと気が付いた時には既に「仮の自分」で関係性が始まっていて、最後は苦しくなって離れる。
でも内心、どこかでほっとしている自分もいるし、やっぱりそうなるよね、いつもこうなるよね、と納得しようとしている自分がいた。

本当は、私は寂しかったし、どうしていつもこうなるのか理由が知りたかったし、温かい人間関係を構築したかったのに、その気持ちを無視していた。
私は、人としあわせを「分かち合う」感覚が解らないのだ。
教えてもらわなかったし、自ら学んでもこなかった。
だから私はその感覚を「分かりたい。感じたい。知りたい。」と思った。

一方で今の私は、当たり障りのない良い意味での表面的な人とのコミュニケーションは、以前と比べれば大分とれるようになってきた。
(練習してきた)
でも、「もっと仲良くなりませんか」という空気を感じると、自分もそうしたいのかそうではないのかを問う前に、大きく壁を作り閉じてしまう。
むしろその方が楽だと感じる。
今までは、それは自分が距離を縮めたくないとうことなのだろう、と都合よく解釈をしていたが、ただ単に思考停止していただけではないのだろうかと思うようになった。

自分はどういう関係にホッと安らげて、どういう人達となら居心地の良さを感じて、これからどういう関係性を築いていきたいのか、そういうことを考えてこなかったのではないか。
それには自分は何が好きで、何に興味があるのか、何が得意で、またこの先の時間をどう過ごしていきたいのか、自分のことを理解していなければ解らない。
「自分はどう生きたいのか」と、結局はこの問いに繋がる。

私は、自分がどういう人たちと縁を持ちたいのかを知りたい。
周りをよく観察して、得られなかったものを学びたい。
そして自分の感覚を感じられるように身体を整えたい。
アドレナリンの効いた「ワクワク」がきたら、一旦立ち止まって考え、自分の感覚を大切にし、自己対話を繰り返したい、そう思った。

A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) はつたかクラス
私の原家族の生き方は、しあわせになるとは真逆の人生を破壊する生き方でした。
私はいい人であれ、他人に奉仕することが良いことだ。そうあるべきだと教えられてきました。
それは親にとって都合のいい存在であるためだった。
私に自分の機嫌を取らせて、自分のために働かせるためでした。
私は親から他人に乗っかって何とかしてもらう、それが問題を解決することだと、暗に教えられてきました。
私のデフォルトは、健全な世界と全く違いました。
このズレを変えていかない限り私が何をしても、おかしいままなのがわかりました。

私は物事の大きさ、時間のかかり方が自分ではうまく把握できないのがわかってきました。
ワークショップ・クラス中に予想した自分の考えたテーマにかかる時間の誤差が、正しくは想像の10倍以上でおどろきました。
私はその規模の問題を、簡単に解決できると思ってしまう自分に恐怖を感じました。
私は1人では到底、この問題に取り組んで行くことができない。
手助けが必要で、そこにつながることが今一番のテーマだと思いました。

私にはやらなくてはいけないことが、山のようにあります。
多すぎてパニックになり、不安に駆られて、簡単な解決策に飛びついてしまいがちです。
まずそれをやめたいです。
入るを制す…飛びつかないように、記録することで注意していきたいです。

T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) はつたかクラス
私は誰かに親切にしてもらったり、好意的なことを言ってもらうと、いたたまれない気持ちになる。
私は何を返せば、何を差し出せばいいのだろう、とつい思う。
そして、共依存的な反応をしては自己嫌悪。
そんな自分が悲しくて、でもどうしたら健康的な関係が築けるのかが本当に分からなかった。
お互いに豊かになる人間関係とは縁のないままに育った。
今は憧れだけど、私は豊かな人間関係を築けるようになりたいと強く思う。

私はいつも、何かに手を出してから、そのあとで帳尻合わせをしようとしてきた。
何とかなるという甘い見込みで、後先考えずに手を伸ばす。
自分なりに考えたつもりの時もあるけれど、結局は脊髄反射だった。
何とか調整しようとするけど、キャパと合わないからパンクする。
あれもこれも…という思いが強くて手放せなくて、時間が全然足りなくなる。
できないことが多くて不全感でいっぱいで、自分責めか、火事場のバカ力を発動させる。
その瞬発力も年齢と共に難しくなり、そもそも元から無理があったとようやく気が付いた。
私は何かを捨てること、優先順位を付けることが苦手だった。

私は最近ケガをして、色々間引いていかないと無理と身をもって知った。
物理的に時間的にもできないことはできない。
回復を優先するには、それ以外を諦めていくしかない。
そうやって、私は自分の限界を知って、日々手放すことを学んでいる最中。

私が仕事でこの1年悩まされていたことは、整理していくと「私がなんとかしなくちゃいけない」という無意識が根底にあった。
そのことに最近やっと気が付いて、自分に集中することを思い出しては、責任はあるべき場所に戻している。
強い意志で境界線を引いてみると、私は今までなぜそこに手を出そうとしていたのだろうと思えてくる。
負わなくてもいい責任をせっせと、時に滑り込んでまで拾っては、私は自分の存在を確認しようとしてきた。

私は自分の人生があまりに積み上がっていないことに、度々愕然としている。
あまりにも何もなくて、泣けてくる。
つい先日会社で参加した人生キャリアを考える研修でも、自分がいかに受け身でいたかを思い知った。
参加者は自分の人生を真剣に考えていて、イキイキ楽しそうだった。
他のメンバーが長期的に考えている中で、私はどうしても近視眼的になりがちだけど、それでも自分がやってみたいことを話すのは楽しかった。
私の考えはまだまだ拙くとも、主体的に生きる楽しさを垣間見る。
そうやって、一つずつ丁寧に拾って考えていくことが、次の私に繋がってゆくのだと思う。

私は自分の人生を一つずつ積み重ねていきたい。
自分に何もないことを嘆いたり、人を羨んだり、投げやりになったりではなく、自分に集中して小さくても今の私にできる何かを積んでいく。
どんなに時間がかかっても、私は私を生きることを諦めたくない。
今回もありがとうございました。

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) はつたかクラス
私へ
なんでだろうね?
この1週間、過去へ旅をしていたような気がする。
長かったような、あっという間だったような不思議な感覚。
ここ数年「今とこれからに集中しよう・未来の為に今の問題を解決しよう」と決意してやってきたのに、もう「言い尽くした」と思っていたのに、過去とのつながりを強く感じて驚いた。

「私の義務」のリストを見て、心の中で「えっ、これだけ?」という声がした。
(実際は「これだけ」のことをするのに四苦八苦しているのだけれど)
今まで何度も聞いたはずなのに、初めて聞いたかのように感じて驚いた。
私はまだ、目に見えない何かを背負っていたのか?
原家族にあったのは「問題がある」→「嘆く」「誰かが何とかしてくれるのを待つ」だった。
前向きで解決志向なものは何もなかった。

やりたいことの中には、やれること・やってはいけないことがある。
そして、やれないこともある。
全ては出来ない。
時間がかかる。
聞いて、はっとした。我に返った。
そもそも、「入らない」「やらない」という選択肢があるのか。
なぜだろう? まるで初めて知ったような衝撃があった。
だから、入る前に止まって落ち着いて考えるのか。
その前提として、「私」と「私の境界線」が分かっていないといけないのか。

「あれっ?」と気付く。私のデフォルトには「選択する」が抜けている。
今さら気付いて、愕然とする。
私は、本当に驚くほど何も知らない。
それを出来る体で必死にやってきた。
それが、私だ。

残念ながら私の限界・境界は、とても限られている。
時間をかけてそう理解してきたけれど、どうしても落ちてしまう穴がある。
周りの状況や「そうありたい・あったらいい」に合わせて、「あわよくば」と時間に詰め込んでしまう。
あふれた分が時間を侵食し、身体がおろそかになる。
「まずは目の前の1つ」と分かっているはずなのに、「あれもこれも」と手を付けて中途半端になる。
そこまで時間をかけなくていいことに、時間を使っている?
行動がずれる。
…私の奥底にあるのは、焦りと恐怖かもしれない。

なぜだろう?
私には「自分に来た球は、全て打ち返さないといけない」というマインドセットがあって、単に状況に反応しているだけになってしまう。
「何事もがまんしてやり通せば、出来るようになる」「限界をもっては進歩出来ない」という、冷静になれば無茶な標語が顔をだす。
(機会がないと・書いてみないと、何となく自分がそう思い込んでいたことに気付けないのが、我ながら始末に負えない)
そんな時、切って・止まって・身体全体で考えるという基礎が吹っ飛んでいる。

最近、「決められない」(決断に時間をかけること自体はいいことだけれど)「進まない」「気持ちはあるのに、憂鬱になってしまう」と、気持ちだけ焦って空回りしていた。
そして、出来ないのは行動が足りないからだと思っていた。
でも、そうじゃない。きっと逆だった。
私は又自己流になっていた。

私は、又「あれもこれも」と手を出そうとしていなかったか?
脱線してはいなかったか?
目先の楽しみに気を取られてはいなかっただろうか?
必要なことに時間をかけられていただろうか?
逆に、あまりかける必要のないところに時間をかけて(かかって)はいなかっただろうか?
(そもそも無理なく進めていれば、憂鬱になったり、良くない動作はしないで済むんじゃないだろうか?)

私の時間・お金・エネルギー・能力・キャパには限界がある。
それがあるから、私は人に対しても自分自身に対しても境界線を引かないといけない。
その為に、私自身と私の境界線をもっと理解することが必要だと思う。
私は、何度でも基礎を確認し、自分に問い続けないといけない。
我に返れる機会が持てて、良かった…。

ゆっくりと今に戻って感じることは、私の今の問題の源が私自身にあろうと過去に学んだためにならない習慣であろうと、私はそれを1つ1つ解決していくということ。
そう思っていても、私は何度もずれるし間違うだろう。
でも、その度に、「入る前に」気付いて止まって軌道修正していく。
そう出来る環境に自分を置く。
これが私のやることだ。
最後になりましたが、今回も貴重な時間をありがとうございました。

H. M. さん(40代以上/福島県よりご参加) はつたかクラス
今回の「基礎勉強会」でも、共依存についてのお話を詳しく聞かせていただいたが、自分にとってとても耳が痛く、心に衝撃が大きかった。
1年前の勉強会では、意味が今ひとつ理解できなかったことも理解できるようになってきた。
これは伝えていただいていることを、自分ごととして受け止められるようになってきたからなのだと思う。

会の中で、共依存とはこういうことなのだという具体的な説明や、普通の健康な人はこういうものだという説明を聞かせていただき、それを知るごとに自分がどんな人間として生きてきたのかがわかるようになってきて、残念で苦しい気持ちになった。
そして、それを知ることで、自分がなぜ、自分のことをよく思えなかったのか、信頼できなかったのか、恥ずかしい存在だと思っていたのか、堂々とできなかったのかが、腑に落ちた。

自分が親から受け取ってきた人間としてのあり方、生き方は、根本から違っていた。そのため、自分が持っている考え方、処世術、人との関わり方は、自分も周りの人も幸せにしないとても残念なものだった。
しかも、その世界にとっぷりと浸かっているため、自分を客観的に捉え、誤りに気づくことができず、改善できないままに子どもにもその姿を見せ続けてきてしまった。
それがどんなに大変なことか、私はその重大さをもっと深く理解していく必要がある。
日々くたくたになるまで頑張っていたのだからそれでいい、仕方ない、ではなかった。
それとこれとは全く話が違う。

「家族は一番気をつかって丁寧に接しなければいけない存在」ということを教えていただいた。
私は頭では家族を一番大切にしているつもりでいたが、実際の行動を見ると、私が一番に気をつかって丁寧に接していたのは、家族ではなかった。
自分が気をつかうどころか、家族、しかも子どもに気をつかって支えてもらっていた。
そして、そのことに全く気づいていなかった。本当に情けない。
そもそも、自分をくたくたにし続けるような生き方をする人間が、子どもを健全に育てられるのか、そこを冷静に判断できなかったことが本当に悔やまれる。

今後、私がやってしまったことは取り返せないということをもっと深く理解し、受け止め、償っていけるよう、真剣にそれと向き合い、できることをやっていかなければならない。
今回も、貴重な学びをさせていただき、本当にありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。









