2025.11月開催 「トラウマケア・ワークショップ」さきがけクラス

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タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) さきがけクラス



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私は、自分の問題を本当に解決する方向へ進みたい。

そして、それだけに甘んじずに「私が幸せに生きること」を目指していきたい。
それがまだどういうことかはわからなくても、私が進むべき道はそっちだ。


トラウマとは、私が想像していたものではなかった。
自分をなぐさめるために使いたくなりそうな、「きっとこれはトラウマだから…」というような意味では、なかった。

「ひどく傷ついた記憶」でもなければ、くり返し思い出すことによる「つらい気持ち」でもなかった。


気持ちの問題ではない、ということ。
理解が異なれば、それに対するアプローチも結果も、全くちがったものになるだろうと感じた。


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私は、トラウマとは生化学的な反応である、と学んだ。
仕組みを知っていくにつれ、これは大変なことだ、なんて不自然な状態なのだろう、という思いが湧いてきた。


トラウマの中核症状を確認してみると、自分にとってはごく当たり前、「常態」であったことが並ぶ。

無力感や無感覚、どこにも行けないような感じ。
身体の健やかさがどんなことかもよく分からない。

でもとにかく何とかしなければと、自ら加速度を上げて(いま思えば)危ない状況へ、突進していく。


つまり、ひょっとするとこれまでの私(そして、対処しなければいまだに)は、トラウマのかたまりだったのではないか…。


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腫れ物に触るような心地、とでも言いたくなる。
怒りについて学んだときと同様に、「え、これ(この私の状態)、どうするのよ…」という全身の力が抜けそうな感覚を、改めて味わった。

同時に、「このままであっていいはずがない」と疑いなく感じた自分には、少し驚いた。
あれこれと察しがつき始め、これは私が引き受けなくてはいけないことだ、ということも感じられた。


このままでいてはいけない。
おかしいものは、おかしいではないか。


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必要があってためた熱が、適切に放出されないまま凍りついてしまう。
生命として、不自然な状態が起きていた。

小さな子どものからだにそのようなことが起こっていたと想像すると、いたたまれない気持ちになる。
(そもそも、闘うか逃げるかと熱をためなければいけない状況が、頻発していた…? 新たな疑問である)


命として、危険なことだ。ぞっとする。

それがどうやら、自分の身に起こってきている。
私は私を、救わなくてはいけない。


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私が感じていることは、ほとんど私のものではないかもしれない。
たとえば身近にあった近親者が投影したことや、本来は彼らが感じるはずのことかもしれない。

そのような言葉を受け、自分に疑いの目が出てきたことも、衝撃的だった。


私はいったい、何を感じてきたのだろう。
私が本当に感じていることとは、一体何なのだろう。

トラウマかそうではないかの区別とともに、「これは、私の感じるもの」「これは、私のものではない」という区別をしていくことが、自分をさらに理解して守っていくことにつながっていきそうだと感じた。


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トラウマとは、生存本能にもとづくもの。
生きのびることができるよう、必要が生じた際に、体内で必要な働きを起こす。

そう考えると、生命の仕組みとは、なんて不思議で貴いのだろう。
畏敬の念のようなものも感じる。


私の命は、生きようとしてきたのだ。
トラウマは、これまでの私を生かすためには必要な働きだったのかもしれない。


でもこれからは、別のやり方で、自分を守っていけるようになりたい。

そのためにも、学びを続け、自分の力に変えていく。
次の必要な対処に進めるように、準備をしていく。

私は、自分の命の神秘をもっと味わってみたいと思い始めている。