

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) みなみさやかクラス

私は、自分のことに、自分で責任をもつ必要がある。
私の責任範囲は、「私は、どう生きたいの?」という、自分の境界線の中だけである。
けれども私には、本来は負う必要のない、ゆがんでねじ曲がったものが、しみついているようだ。
私は、言葉で確認する以上に、その重さを体感しているように思う。
自分のことに取り組もうとするはずが、いつの間にかざわざわっとした感覚で「誰か」の存在を気にかけている。
そう気づくことが、たびたび起きている。

私は、社会に出るということは「自分もOK、相手もOK」を探すことである、と学んだ。
これは自分にはなかった感覚で、しっかり自分に刻む必要があると感じた。
私が無意識に思っていたような「大人になるとは、いかに『ノー』と言わないか」では、なかったのだ。
だからこそ、まず「自分がどうしたいのか」が必要になってくる。
それが自分にとってどういうことなのかを探ることと、それを基にして道を拓いていくことに、時間とエネルギーが必要になってくる。
これは、生きるうえでの大切な仕事だ。
それが妨げられたり、尊重されなかったりすることは、あってはならない。
そのような危険な状況からは離れなくてはいけない。
「ノー」という言葉は、自分にとって大切なものを守るために、なくてはならない言葉なのだ。

私が今「ノー」と言わなければいけない相手は、自分だと思った。
「少しくらい、いいじゃない」と甘やかす言葉で誘惑してくるのは、自分自身だ。
日常の些細なことであっても、それに乗ってしまえば、私は貴重な時間やエネルギーを失いかねない。
あとから自分を責めて反省してみせるのではなく、私はその選択に突入する前に、自分に「ノー」を表して、実行しなければならない。
私は、日々の習慣を地道に改善していかなくてはいけない。
自分のためになる習慣が、自分のことをより安全にしていく。
私はこのことを自分に教え、できるように練習を続ける必要がある。

私はこれまでのあらゆる状況で、簡単に「イエス」と応じていた。
なぜ、それができていたのか?
それは、自分が自分を尊重していなかったから。
「自分のこと」が、相手より優先するほどの価値があるものだとは、感じられてはいなかったから…。
相手の役に立つことや喜ばせることの方が、当たり前の優先事項。
まさに「自分はNOT OK、相手はOK」の状態だった。
私は、これがどれほど自分を傷つけることであるかを、全くわかっていなかった。
「いつでも周りが優先」。
育った環境で、暗にそう仕向けられたからといって、私はいつまでもそこにとどまっていてはいけない。

自分だけではなく他の人々も含まれて、ぐるっと囲まれている境界線の図が、たびたび思い出される。
私がつい持ってしまう罪悪感のようなものは、自分の範囲を越えて責任を負わなければと感じているときに、起こっている。
こうなったら相手がどう思うか、どう感じるか。
ではそのために私はどうするべきだろうか…。
私が力を尽くすのは、ここではない。
相手がどう感じるかは、私にはどうすることもできない。
私が感じることは、他の人にはどうすることもできないように。
…こう記してみて、私はいまだに、自分が泣き出しそうな震えそうな様子になるのを感じる。
私はまだ、自分を尊重することに慣れていないのかもしれない。

私は、自分の責任の感覚を、刻々取り戻す必要がある。
私は、自分の責任範囲だけに、自分の時間やエネルギーを注ぐのだ。
それが結果としては、自分にとっても周りにとっても、本当に誠実なこととなるはずだ。
私は、自分が幸せに生きるためのことを、考えていく。
そのようにして、もっと自分に誇りを持てるようになりたい。

A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) みなみさやかクラス

私は自分が子どものころに奪われていたものの大きさ、身につけていないことの恐ろしさをわかっていなかった。
私は安全に社会でやっていくルール、健康な人が学んでいることが何なのかも知らなかった。
自分を大切にする方法、自分を律して努力する方法。実際にやってみて失敗を繰り返すこと。
自分のためになる時間やエネルギーの使い方。
人との関係の結び方。
安心できる場所。
どれもワークショップで説明されるまで、知らないことだらけだった。
私は今からこれらを後付けで、身につけていかなくてはいけない。

特に私の今のテーマは、時間と自分を律することだ。
ワークショップで行ったワークで、私は自分にNOと言うことを決めた。
私は自分を律して、自分の誇りを取り戻さなくてはいけない。
私は自分に対して真剣に生きなくてはいけない。
ありえない夢みたいな自分で出来ないことを、神頼みするのはやめる。
私は手帳に真っ当で現実的なスケジュールを立てられるようにしたい。
そのために修正する時間をとる。
ライフスキルを身につける時間を作れるようにしたい。

M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) みなみさやかクラス

今回の「境界線ワークショップ」では、わたしは、3つのことを同時に感じていた。
自分がされてきて今に至ること。
自分がしてきてしまったこと。
それによるこれからのこと。
全体像がわたしは見えにくいほうだが、それら3つのことは痛みと共に整理されてきたと思う。

次にできることは、止めること。
どうしようどうにかせねば…で焦り出すことを止める。
これが一番ろくなことにならない。
何度もやってきて、ようやく気づけた。
わたしにできるのは、引き受けること。
そしてすることは、自分のことをやること。自分の問題を見ていくこと。
それと、間違いそうになるが、健全な生き方を子どもにしてもらうこと。ではない。
こう言うと誤解を生むかもしれないけど、頭知識だけで自分が何が教えれるのか、教えれないだろう。ということ。
子が健全に生きれるようになれば、自分はいい。
それでは過去にされたことと同じだと思った。
親は動かず子が思うようになれば親もできたかのようにされる、あの感じだ。
あなたは痛みを感じてよ、それを引き受けてよ、それをやってよ、でもぶちまけないでよ迷惑だから、と自分が言う、わたしはそれに応えていくこと。

また、NOに含まれる割合に衝撃を受けた。
初めて、NOという静けさの中に重みと深みを見たように思った。
わたしのは、当日指摘されたように、人の境界線の方まで入ってしまっている、うるさいNOだった。
その一つのNOの中に、日々作ってきたその人の小さなたくさんの大切なものを想像すると、自分はなんて軽かったんだろうかと思った。
その小さいものをさぼってきたのに、それにも気づかず、いきなり大きいものを手に取って、それで答えられるわけもなかったのだと気づいた。
また、わたしがやっていたことは、その大きいものを、わからないからあなた答えてよ、だった。
今きつくて辛いところだけど、同時に、ようやく今居る位置がわかってきたことで、少しづつ取り組んでいけるように思っています。

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) みなみさやかクラス

私は今回のワークショップで、自分が自分のことだけを考えられる子どもだった時間に、母から自身がやらなければならなかったことを、押し付けられていたのだと、はっきりと認識することができた。
また、「愛情とは一貫性」ということを再度学び、悔しさを感じた。
それと同時に、常に相手のことを考えられるような時間と気持ちの余裕を、いつも持ち合わせている自分でいたいと思った。

私の母は、家族以外の誰の口からも、いつも「いい人」という言葉が出てくる人だった。亡くなる前に通院や入院した病院でも、最期にいたホスピスでも、看護師や医師の口から「〇〇さん(母)の方が辛いのに、いつもこちらに気遣ってくれるようなお母さまでした。」と何度も言われた。
事実、そうなのだと思う。
家で態度が豹変するわけでもなかったし、引いて見て考えれば家でも外でも同じように、「いい人」のように私の目には見えていた。

でも一方で、人として自身の考えや意思、こう生きたいはなく、自分のこともよく解らないような自信のなさ、どこか困惑した表情をしていた人だった。
だから、そんな母を見て私は無意識に、「父の対応は私の役割だ」と思わされてきた。
特に母を守らなければ、という自覚もなく、私は私のことを考える代わりに、父の機嫌をどう上げておくか、父の地雷はどこなのか等を、常に先回りして読み、緊張して毎日を過ごしていた。
そんなくだらないことに私の膨大な時間が使われたと思うと、今はただただ悔しくて、とても空しい。
そのお陰で私は、自分のことも、どう生きたいのかも、そして境界線も持つことができなかった。

自分のことなのに、自分のことが解らない。
これがこんなに苦しいなんて、私はずっと理解できていなかった。
もう、何度「来世に期待」で、この回復作業から離脱しようと思ったか解らない。
それでも今私がここで、これを書いているのは、絶対にしあわせになりたいから。
人生の最期に楽しい人生だったなって思いたいからだ。
だから、今日も明日も明後日も、私は私のためだけに生きていきたい。
(他人はどうでもいいという意味ではなく)私は、私を見つけたいです。

ご一緒してくださったお仲間さんへ。
今回もありがとうございました。
また別のワークショップでお会いできることを楽しみにしています。

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) みなみさやかクラス

私へ
何でだろう?
当日の話を聞いて、メモを振り返って、「もっともだ」「自分のことだ」と思っていたのに、いつもに増して「落ちてくる」のに時間がかかった。
ワークショップの内容に関係あるのかないのかも分からないような出来事・してきたことを含め、とりとめもなく過去のことが蘇ってばかりで何も書けなかった。
そんな自分に戸惑っていた。
今回、「自分を省みること」が出来たかもしれない。
今までも何度も振り返りをしてきたはずなのに、今回は特に自分のしてきたこと・していることが鮮やかに見えた。
家を出たのが大きいかもしれないけど、今振り返ると、私は「自分を省みることの少ない身の丈に合わない生活」をしていたことが実感として良く分かった。

私は罪悪感に訴えかけられることに、今でもとても弱い。
過去に「出来なかった」になっていたことがある。
思い返すとほろ苦くて、引っ掛かりを感じていたことだったけれど、それは自分で原因を作っていた。
自分に必要な時間を与えず、時間管理も出来ず、そこそこしか時間をかけていないのに結果だけ求めていた。
脱線もしていた。
やることがどうこうという前に基本的なことが出来ていなかったし、やり方がまずかった。
そんな自分が本当に恥ずかしい。
私は本当に無知で未熟だったと、学ぶほどに感じる。

私は、先の大きな目標にだけ注目しがちだ。
その大きさや遠さに怖じ気づいたり、やる気を失ったり、出来ない自分に焦ったり…。
そんな時間が勿体ない。
書いていて気付いたけれど、これって「遠くの星を目指す」になっているってことじゃないか?
私(の頭)は、どれだけ「遠くの星」を目指すのが好きなんだか。
我ながらあきれもするし、性懲りのなさにちょっと笑えてしまう。

そうじゃなくて、どれだけ急がなくてはいけなくても、自分の足元の確認が必要。
自分の客観的な姿を見て、受け入れて、軌道修正すること。
今目の前の小さな目標・課題のクリアに集中すること。
小さくても行動すること。
ごみを出さないこと。

私は私の手に負える・合っていることをして、安定して自分を食べさせて行きたい。
その為に、優先順位付けもうまくなりたい。
計画を立てて日々の時間に落とし込むことが苦手だから、出来るようになりたい。
私は、弱い人間だ。
でも、私の身体も心も時間もお金もエネルギーも、誰に対しても何に対しても明け渡してはならない。
どんなに仕向けられても。
「私自身」に対しても。

自分をあやうくするのも、良くするのも自分。
「私はどう生きたいの?」をするために、まず私が私に「それはいけない。NO」を言えるようにならないといけないし、言わなくてはいけない。
私はまず私に厳しく、本当の意味でやさしくありたい。
こうやって振り返り確認する機会が持てたことはありがたいね。
このチャンスをちゃんと活かしていこう。

H. M. さん(40代以上/福島県よりご参加) みなみさやかクラス

今回のワークショップでも前回の「境界線ワークショップ」に引き続き、境界線を守って現実を生きていくために大切なことを教えていただいた。
その中で、自分は親にそれらの大事なことを全く教えてもらっていなかったことを知り、さらに、自分自身が親として子どもに絶対に教えてあげなければいけなかったそれらを教えることができていなかったことに気付かされ、大きな衝撃を受けた。

「やればできる」という言葉は、一見ポジティブで良いことのように受け取れる言葉だけれど、これをベースに子どもに接することがこんなにも残酷なことだとは思ってもみなかった。
私は、この意識をベースに育てられた。
親が見ていたのはあるべき理想像で、そこに存在しているままの子どもである私の実際の姿ではなかったと思う。
「こうあるべきなのにできていない」、「努力が足りない」という非言語メッセージを常に親が放ち続けていたように私は感じていた。
そして、残念なことにその意識は私の中にも根付いてしまっている。

「自分の限度や限界を理解し、自分に合ったことをする」
聞けばそれを大切に生きないと辛い状況に陥るであろうということが簡単に想像できる。
けれども、そんな発想は自分には全くなかった。
自分に対しても、子どもに対しても自分なりにその時々でベストを尽くしてきたつもりだけれど、その行動のベースにあるそもそもの考え方が境界線を大事にするものになっていなかったということがわかった。
適切でない考え方で、適切でない手段を熱心に頑張っても、それは良い結果につながるわけがない。
私は健全でない考え方や方法を固く握りしめて、そうしているとは気づかないままに長い年月を過ごしてきてしまったということに本当に遅ればせながら気づき始めた。
自分が子どもの頃から感じ続けてきた、母親が主張してくる正しさ、理想、正論に対する、なんか違う、そうじゃないんだよ、そこじゃないんだよという違和感、けれどもそれが正論であるが故にそれを受け入れるしかなかった状況のおかしさ、そこで何が起きていたのかが少しずつわかってきた。

また、自分がずっと「私はどう生きたいの?」ということについて自分の中から湧いてくる思いがなく、未来の自分が全く想像できず、未来に希望を持てなかったということが、自分が自分の境界線の中のことに取り組むべき自分のエネルギーや時間や意識を他に向けさせられていたこと、本来自分の役割じゃないことを求められていたことに由来していたことを知り、子ども時代に親が提供するべきことを適切に与えることの重要性を強く感じた。
親は子どもを子どもとして生きさせてあげなければいけないし、子どもが自分の境界線の中のことに安心して集中して取り組める環境を与えてあげなければいけない。
けれども、自分が親の立場で子どもにそれをしてあげられたかと振り返ると、できていなかった場面がいくつも思い浮かんだ。

特別な問題が表面化することのない明るい家庭を子どもに提供できたと思っていたけれど、それは子どもたちの頑張りに支えられて成り立っていたものだったようだ。
私だって一生懸命頑張ったと言いたくなる気持ちも出てくるが、そういう気持ちが出てきている時点で、親として必要な意識が十分でなく、そんなつもりは全くなかったものの子どもよりも自分のことしか考えられていなかったという証拠なのだろうと思う。

境界線を守っていくための「NOを言うこと」に関して、私がこれまで思っていたそれとは全く違うものであることがわかった。
「NOを言う」には、「私はどう生きたいのか?」を自分の中に持っていないといけないこともよくわかった。
この「NOを言うこと」を人生の早い段階から身につけられていたら、どれだけ自分の人生が快適だっただろうと思った。
そして、私はまだそれを身につけてはいないので、これから練習をして自分のものにしていく必要がある。
知ることで、具体的な努力の方向性が見えてくることには希望を感じる。

今回のワークショップでも、自分がどれほど「大人として身につけているべき感覚や知識、スキル」を身につけていないのかを知ることができた。
今回知った以外にもまだまだ多くの知るべきことがあるのだと思う。
自分がわかっていない、できていないという残念な事実を知っていくことには、とても大きな心の痛みを感じる。
悔しい、悲しい、情けない気持ち、なんで自分がこんなことにならなきゃいけないんだという怒り、子どもの将来に対する不安などさまざまな感情が自分の中にいっぱいになる。
そして、事実を明らかに見て、受け止めていくことに抵抗がありすぎて、それらに蓋をして目を背けて何も問題はないように取りつくろいたい、そこに目を向けることから逃げたいような気持ちも生まれてくる。

けれども、心底自分を生きている感覚がない現状から脱していくには、そこから目を背けずに、確かに見て、消化して、具体的な行動を一つひとつ小さく進めていくしかないのだろうと思う。
「現実は少しずつしか進まないのがリアル」私にはその感覚を持つことができていない。
少しずつしか進まないということにもどかしさを感じて、ひとっ飛びになんとかしたい自分がいるのがよくわかる。
そんな自分を認めつつ、新しく学んだ適切な方法を愚直に進めていけるよう自分を励まし応援しながら律していきたい。

T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) みなみさやかクラス

これまでも勉強してきているが、今回、事前のガイドをより意識して参加したことで、当日のワークショップ・クラスに集中することができた。
私にはとても痛い内容も多かったが、頭の中の変なノイズがなく、エネルギーを無駄に消費しなかった。
この経験は大きいと感じた。

それから、私は、今回の学びを通して、私の前提の理解が大きくずれているということに気づいた。
初めての気づきではないけれど、以前より理解ができるようになってきたと感じている。
変えられないものを変えようとすることとか、油断しないと言い聞かせても、私の場合はそもそも油断するものであるとか。
「今日はちょっとくらいいいじゃない?」という、誘惑。
その誘惑は私から消え去ったり、治ったりすることはないということ。
その理解の出発点が違えば、その先の進む道も大きく違ってきてしまう。
違ってきての、今だ。
その現実をそう簡単に変えることはできないこともわかりつつある。
だけれど、やはり私は諦めない。諦めたら、終わってしまうから。

T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) みなみさやかクラス

今回私が気付いたのは、まず小さな単位で変えてゆくということ。
私は大きすぎるカタマリで変えようとしてしまうけれど、小さな単位で考えることを、ワークショップの中で教えてもらった。
確かに私は壮大に思えることも、やるべきタスクを大まかな項目に分けて、その中身をさらに小さく分解して、一つずつ片付けていけば、いつしか片付けられると最近分かってきたところ。
途方に暮れたり、闇雲に手をつけたりしても、時間ばかりが過ぎて焦っていることも多かったけれど、自分に合った方法で取り掛かれば私にもできると思えてきた。

そして、私が最近ダメージを受けていたことは、相手側にも相応の問題はあるけれど、結局は私の境界線の問題だと気が付いた。
私が責任感でなんとかしようとしている内に、つい相手を正そうとしていたことにも気が付く。
ワークショップで学んだ後、私は自分の限度や限界を確認することが増えた。
休みの前日に急遽作成することになった資料を、限られた時間で何をどこまで作るのか。
自分なりに考えると、意外と冷静にここまでやれば十分と思えて、作業も無事に終えられた。
上司からの依頼にも、現状と私の手持ちの時間を確認して、これなら対応できるという提案を返した。
自分の限度を超えて、イライラしながら無理な仕事をするのではなく、自分の境界の中でできることをする。
私は自分のキャパを超えて何とかやりこなそうとしていたけれど、身の丈に合わせて引き受けることで気持ちが楽で軽やかにいられる。
そのスタンスをいつでも忘れずにいたいと思った。

ワークショップの中で身体のNOをキャッチしてみると、私はゆっくり休みたいと言っていた。
自分の責任の範囲を明確にして、決めた終業時間は死守して、その後に散歩の時間を確保したいと思った。
反故にしがちだった散歩に行くという自分との約束を守ると、私はとても嬉しい気持ちになる。
私はそういう時間を増やしていきたい。

自分が本当にしたいことを優先するために、自分を律していく。
ついつい目の前のことに気を取られたり、他人をどうにかしようとしてしまったりするけれど、気付いては自分の中心に戻っていくのを練習して習慣にしたい。
本当にしたい事や大事な用事があると、今余計なことをしてるヒマはないと一心不乱に集中している時がある。
人生で本当にしたいことを優先させるために、日々の小さなことで練習していけば、私にもできるようになるかもしれないと感じられるのは温かな希望になる。
私はまずはスケジュールに入れて、一つずつ小さく挑戦していきたい。
今回もありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。