

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) やめクラス

「自己肯定=ない」と見たときは、衝撃的だった。
私は、「それ」がほしい。
「その状態」であれたら、どんなにいいだろう。
条件なしにありのまま存在していいと、自分で認められたなら…。
でも、それは「ない」のか。

ワークショップ・クラスを経て、私は、ついさっきまでそう願っていたことが奇怪に感じられるようになっていた。
「自分が存在している」という事実があるだけで、肯定も否定もない。
言うなれば、願うまでもなく最初から「ある」。
この感じが、徐々に自分に沁みわたってくるようだった。

私は長い間、自分の存在を、そのままでは感じられない状態にあった。
育った環境では、自分がもともと存在するという事実を(悪気はなかったにせよ)無きものにされてきた。
相手の存在の方が優先で価値があり、自分の方が軽いもの。
私は、一定の条件を満たすときだけ存在してもいい。
暗にそう教わり、それを信じ込み、自分でも自分をそのように扱ってきた。
そのように教わったことにも、自分が身に着けた通りにせっせと実践していたことにも、やり場のない思いがこみ上げてくる。
おかしい。
この仕打ちは、いったい何なのだ? あまりにひどいのではないか?

私には、自己主張も「ある」。
ワークを通じて、しがらみのない、全体性を失う前(私にとって1歳半ごろ)の自分に尋ねてみたら、ごく正直な反応が返ってきた。
たとえば、いま気になり始めていることには、身を乗り出してのぞき込むような、身体ごと寄っていくような感じ。
「なになに?」と興味津々だった。
育った環境に存在した親の方針に対しては、後ずさりして柱のかげに隠れようとする自分。
また取り組みたい季節の手仕事は、飛び跳ねて大歓迎。
自分のことと、自分以外のこと。
自分の中に迎え入れたいことと、そうではないこと。
私は、このもともとあるはずの境界を、自分で確かめながら、覚えていく必要がある。

私は、将来のイメージについても、漠然としながらも、今の自分なりに答えていた。
重くて難しくて、厄介なこと。
数々の苦難を乗り越えて納得を得られるよう説明して、押し通さなくてはいけないもの。
そのようなイメージであった自己主張が、私にはもともと「ある」のだ。
私は、自分の答えを新鮮に感じると同時に、ずっと前からいる自分に、ただ再会しただけのような心地もした。
私は、この自分と相談する。
この自分が教えてくれることを、信じる。
自分が喜ぶことや進みたい方向へ行くにはどうしたらよいのかを、私が具体的に考える。
それを、素直にやっていく。

現実として今ここにいるのは、自分のことに責任を持つ「大人」になりきれていない、今の年齢の自分だ。
数十年分の損失をかかえている自分。
自分のことにかけられる時間、本来あったはずの時間を、すでに失っている自分。
「何かがおかしい」に対しては、そこに至るしくみがあったのだと、理解も深まってきている自分。
けれど、「わかる」と「できる」の大きな差を感じるほどに、誰かが憐れんで助けてくれないだろうかと内心では期待してしまいそうにもなる自分。
良く見せようと取り繕ってもしかたがない。
私は、今のこの自分でしかない。
でもどんな状況であっても、私のために行動できるのも、この自分しかいない。

私はおそらく、これから自分のもっと深い部分に触れにいく。
蒸し返したくはない記憶も、改めて手に取らなくてはいけないのだろう。
「怒り」と名のつく感情や、もっと深い悲しみも、あるのだろう。
私は、自分にあるものを信じて、自分のために挑戦をしていく。
これまで持ったことがないような緊張感も、味わうのかもしれない。
どんなに怖くとも、ときに無謀だとか億劫だと感じられたとしても、私は必要なプロセスを自分で通らなくてはいけない。
私が目を向けていなかっただけで、ずっとここにいる自分。
私は、この自分とやっていく。
自分の人生を、作っていく。