2021.12月開催 「冬の大勉強 & 大準備会[基礎編]」にちなんクラス

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タイトルはじまり目印

A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) にちなんクラス



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「ルール」と「マナー」の話から始まった今回。
この話を聞いた後に、今の職場から封書が送られてきた。

受診者様のアンケート結果を集計したものだった。
個人宛のアンケート結果は今までも個別に送られており、私のアンケート結果はありがたいことに喜んでいただけているものが多かった。

集計結果をまとめた中で、「受診者様からご指摘をいただいた情報・先生方へのお願い」という項目を読んで、今までなら流していたであろう内容に、今回は目が止まった。

その内容は
[1]受診者にお会いしたらご挨拶を
[2]マスク越しのため、声が小さく聞こえない
[3]説明を聞く人の身になって
[4]([3]の例として)受診者の「年齢のせいでしょうか?」という質問に対して、「そうです。みんなそうやって墓場に近づいているんです」と答える → デリカシーを持って会話をしましょう。
というものだった。


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「え、小学生向けの指導内容ですか?」と私は思った。
たとえば私なら[4]のような受け答えをするということは、絶対に考えられない。

なぜかというと、それによって受診者様が「えっ」と困惑する、あるいは傷つくであろうということが想像できるからだ。

「人が死に向かう、墓場に向かう」ということは絶対的な真実だ。
絶対的な真実ならばそのまんま伝えていいかというと、それはやはり TPO なのだ。
たとえば私なら相手の立場、表情などを読み取って、どのように伝えるかと決めていっているのだろう。

そうなのだ。そのくらい、マナーとか人の気持ちを理解できない人が、私と同じ職業の人間には多いのだ。
「人が死に向かう、墓場に向かう」ということは絶対的な真実だから、どういう状況でも口に出して構わないと考える人がいるのだ。


今までは、「うん、まあ、この職業、勉強はできるけど変な人も多いし、そういうもんだから仕方ないよね。そういう人、今までもたくさん出会ってきたわ」とスルーしてきたけれど、勉強会を受講した後では、これはスルーできない事実だと感じた。

つまり、そういった人の気持ちを理解できないタイプの同業者が私を搾取しうる、という事実だ。


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そこで、上記[1]〜[4]ができない人を思い出してみると、大変残念なことに、昨年まで働いていた職の最もボスに当たる存在の人間が、見事に全て当てはまっていた。

そうか、だから、あの組織はうまく回っていなかったのか、と、妙に納得してしまった。


「形重視」で、そこで働く人間がどんなに疲弊しても、何もなかったかのように「今まで通り」を要求するボス。
働き手が減っているから臨機応変に対応する、ということは全くなかった。
そしてどんどん人が辞めていくという悪循環。

人の気持ちが、わからない人だったのか…。
だんだん勉強会の内容が今までの自分の人間関係と繋がってきて、面白い。
面白いが、痛切すぎて笑えない。




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) にちなんクラス



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知識を得ないままであれば「おかしい」という状況に気づけないのだということを、強く感じた。
共依存の状態を自覚するようになり、回復を目指すということは簡単ではないのだと、分かってきている。

「きたるべき大事業のための、土台作り」をまさにやっているところなのだ、ということが、身にしみている。
だからこそ、今もやっているように、自分がコツコツと学び、自分を知ることを続けていくことが必要だと感じる。


「察する」という力で、明文化されないマナーを守ることができる。
今はどうやら、共生関係の相手を支えることに、私の「察する」力がたくさん投資されている…。

身近に起こっている状況や言動に、うわっ…という、とても嫌な感じを覚える。
知識を得ながら実際に起こっていることを見てみることで、そのような瞬間が増えてきているように思う。


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思い出される記憶の端々にも、あやしいところが見え隠れしている。
仮に自分が親であったなら、子にそのようにするだろうか(いや、しないだろう)、そうしたらどう感じるかと、「逆から考える視点」がとても新鮮に思えた。

起こっていたことやいまある状況が「おかしい」ということに気づけないままでは、私は自分にとってよくない方向へと、さらに進んでいってしまう。


私は旧いやり方で、「おかしい」を解決しようとする。
極端な考えを持ったり、自分の落ち度と責めたり、問題をすり替えたりして、つじつまを合わせようとする。

そして「足りていない」自分を埋めなくてはと、安心安全とは向きの違う、斜め上の「達成」方向の矢印に沿って、盲目的に自分を駆り立ててしまう。


それらは、本当の解決ではなく、まったく私自身のためにはならないことなのだった。

「おかしい」「自分のためにならない」ということに気づいたからには、自分が自分のために、これからの行動を変える必要がある。
そして、自分に何が起こっていたのかを、もっと知っていく必要があると感じる。


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“i – message” 「私は」という意識を、しっかりと持っていこうと思う。

私はどう感じるのかを、私が、受けとめていく。
私が何を優先にするのか、どう行動するかを、私のために一つ一つ選んでいく。


私は「私」として、成長し、堂々と生きていく。
そのために、知識を取り入れること、自分を知っていくことを、コツコツと続けていこうと思う。




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T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) にちなんクラス



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今回も、核となる部分を勉強することができたことをありがたいと思う。
自分や自分の周りで起こっていることの本質を知ること、きついことだけれど、それは避けては通れないことだから。
それを何度でも心に刻み込む。


客観的に事実を知り、起きている現実に向き合うことは厳しくもあるけれど、本当は温かいと思う。

変えられないものは変えられないけれど、変えられるものは変えていく、そこに希望があると思う。

本当に一歩ずつでしか進めないけれど、その一歩を記して、これからも向き合っていきたい。




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) にちなんクラス



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わたしへ
わたしは今まで全てが上手くいくこと、完璧にこなせること、非の打ち所がないことを目指して生きてきたような気がする。
わたしはだいぶ、勘違いをしてきてしまったな。と思うんだよ。

わたしが意気込んで目指すこと、心が燃えるような気持ちになって目指してきたことは立派で完璧で人が羨むようなかっこいいことだったよね。

そしてそれは到底叶いっこない造形だった。
なぜなら一つも具体的じゃなかったから。だからとってもとっても苦しかったね。


そうじゃなかったんだー。わたしがほんとに求めていたことってそれじゃなかったんだ。
わたしは安心したかったんだと思う。ほっとしたかったんだと思う。
それも心から、あー疲れたーって言ってバフっとふかふかのお布団に身を投げられるような、そんな感じ。

ずっとずっとそんな「安心感」を追い求めて生きてきたんだ。
それなのにそれとは逆方向へ逆方向へと向かって来ちゃったんだな。
わたしくたびれちゃったよね。


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わたしは「時間軸」を奪われてしまってたんだな。
恐怖で固まって安心感が奪われたら時間軸は姿を消す。
そしてどんどん苦しくなる。

気づけなくてごめんね。


時間軸がなくなるってことはプロセスを失うってことでもあった。
それは安全とは程遠いよね。まるで違う生き方になっちゃうよね。

そんなこと人間にはできない。
段階を踏まずに物事を進めることなんかできっこないんだよな。

今のわたしは目指すものがあることを安全と感じている。一歩ずつ小さく進むことに誇りを感じている。とてもいいとおもう。


有限ということにも思いがおよぶ。
現実的なものの見方は生き方としては習ったことがないんだよね。

グラデーションがなかったとはそういうことだった。
たくさんのものが抜け落ちていた環境だった。そこで強烈に支配されて右向け右が習い性になっていってしまった。


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わたしが生きて来た場所では戸惑いがたくさんあったよね。その戸惑いがどうして出来上がったのかがまた一歩クリアに見えた気がする。

見過ごされて来たものがなんだったのかがわかって来た。
心や優しさや機微。暮らしの中の文化。豊かさ。分かち合う微笑み。
丁寧さやゆっくり順番にやること。

何かを大切にすることとその気持ちを汲むこと。上手くゆかないことを内包できる力。
葛藤を抱える力。受け止める広さ。黙って見守ること。
はっきりとした肯定的なNO。包容力。

たくさんたくさんの大事なものが見落とされ見過ごされないがしろにされていた。


安全度がまた高まった。勉強するってとても大事。とてもありがたいこと。
学ぶこと、知ること。それも実は取られちゃってた。
苦しかったね。
よくここまで来られたよね。わたしがんばったー。

人を気遣う心。優しい心。それは全然拾われなかったんだな。
誕生日を祝ってもらったことがない。一切記憶にない。それってやっぱり変だよね。
なのにさ、幸せな家庭だと思っていた。そう言わされていた。とてもショックだ。


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わたしは基本を甘く見ていた。正確にいうとなぜそこが基本なのかがまだまだ見えていなかったと思う。

世の中はどういう構図になっているのか、わたしの立ち位置はどこなのか。
そういうことに疎いままでいることはできない立場にわたしはいるよ、ってことだと思った。

そして何よりもその構図を理解して俯瞰することができるところにわたしはいるんだよ、っていうことでもある。
(目を覚まそう!)
今回はそんな声が聞こえた。はっとしたよ。
目を覚まして自分の人生をこの手で生き始めよう。怖いけど、すぐにうまくいかないけど、それでも。


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心して、意識して、いつもの流れに巻き込まれないように見切ることができるようになること。
だってわたしには見通す力があるし何よりも巻き込まれる筋合いがないんだもん。

わたしは見えない側じゃなくて見える側にいる。親の都合にあわせて錯覚させられて来ただけ。
それを理解するには構造や構図が見えて来ないとだよね。

基礎で学んだ知識はわたしの安全にものすごく寄与する知識の土台になる部分だよ、ということ。
そこに無自覚でいるままでは自分を守れないから。


賢くなり知識をつけて、学んで、自分の賢さを自分のお守りに変えてゆくんだ。
まさに、目を覚ますこと。クリアな頭で考えられるようになること。酔いから覚めること。
目覚めよ! わたし。
関係に酔ってる場合じゃないよ。あの〇〇劇場の世界からは一抜けしよう。

体を動かし心を動かしちゃんと疲れてぐっすり寝てスッキリ目を覚まそう。
自分で考えるクリアな頭のために。ポエムではない正確な知識のために。


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わたしは世界を知ろう。と思った。そしてそれはわたしがずっとしたかったことなんだ、っておもう。
星までの距離や天気の仕組み、社会保障制度。
どんなことでも興味を持ったことをわたしは知っていい。
知る権利がある。わたしは勉強したい。


月や惑星を観察し始めてから、空での位置をなんとなくわかるようになるまでには時間がかかった。
分かってきたのも無理に分かろうとしたからじゃなくて気になっていつもみてたから。
興味があったからだった。
だから興味のあることに素直に気持ちを向けていければ大丈夫。


相手と、自分。お互いに別々の心がある。その素晴らしい関係性とは程遠いところで生きて来させられた。
自分ルールを押し付けられても我慢して頑張ってしまう癖。えいやって自分を押し込めてしまう癖。
そういう無理や我慢を押し付けてくるひとと縁ができてしまうこと。
自己主張ができないこと。
全て i – message を取られてしまったがゆえ。

「わたし」がなければ「相手」も発生しない。
そこにわたしはいないから。そしてわたしはずっといないことにされて来たから。


文節区切りの線

自分がされたことを自分自身が娘にすることを想像した。涙が止まらなかった。
わたしは声を出して泣いていた。
こんなこと許されてはならない。許してはならない。

わたしは誰か「できない人」のフォローをするために生まれて来たわけじゃない。
わたしの人生はわたしのもの。わたしが生きるためのもの。

親が寂しくないように気を使ったり、親が社会に迷惑をかけないように気をつけるのもわたしの仕事じゃない。
そんなことに責任を感じる必要はない。
わたしは自分の考えを持って、自分の人生を決めていっていいのだ。
そしてそれは自分で実現するのだ。失敗したり痛い思いもわたしのものなのだ。


文節区切りの線

失敗してもいいよ。転んでもやらないよりずっといいって今は思っているでしょ? 
恥ずかしいよりは怖いけどやってみたいって思っているでしょ。
そして何よりも、できる分だけでいいって言ってあげられるようになって来たよね。


転んでもいいっていうより、転ぶしかない。学ぶには。
そして本当にそれでいいんだよ。

疲れたらたっぷり休んでできる分だけ進んでいこうね。

一緒に学んでくれたお仲間さん
ありがとうございました!

優月さん
エッセンスのような知識をいつもありがとうございます!


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