2022.09月開催 「境界線ワークショップ」きたみクラス

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タイトルはじまり目印

A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) きたみクラス



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私は境界線のイメージが、強固な塀みたいなものになっていました。
入れていいもの、入れたらまずいものがくっきり分かれていて、機械的に通す…いつの間にかそんな風に感じていました。

そうなってしまったのは、私は知識と現実が結びついていない、そして境界線についての理解がズレていたようです。

境界線の根本にあること「私は、何がしたいの?」ここがまるっと落ちてしまっていました。


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境界線が守るのは、私自身であり私の夢のための資源。
一発正解ではなく、修正しながら、自分で選んでゆく。
私はヨロヨロと、新しいこのやり方を試していきます。

日常に戻っても、ワークショップ中に繰り返し練習したチェアワークで自己理解を投げ出さないでしがみつきます。

ありがとうございました。




タイトルはじまり目印

Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加) きたみクラス



タイトル下の線


私は、境界線=自分をもつことだと、改めて理解した。

私はつい「境界線」というと「侵犯してくる人に対して引く」ことばかり考えていた。
でもそれより前に、何よりも「私が私を持つ」ことが大前提だと感じた。


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「私は何がしたいの? どう生きたいの?」
私はこの問いに、まだ答えられない。

私はずっとこれがなくて、だから他人と境界線問題が起きるたびに、いつも私が「負け役」になっていた。
それは「その場で自己主張できなかった」というスキルの問題以上に、私が「私はこうしたいから」という具体的なものを何も持ってなかったのが原因だった。

私は、そういうものを持ってなかったから、「ここは引き受ける? 断る?」を考えることすらしない。
それを引き受けるリスクがどれだけのものかも、判断がつかない。


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私は、ただ目の前の「不快なシーン・感情・相手の機嫌」だけを見て、「さっさと終わらせたい」と思って、自分を諦めることばかり選んでいた。

私はいつも「仕方ない、今回だけ」「これさえ終われば」と自分に言い聞かせていた。
でも私は、それをいくつもいくつもくり返して、今「過ぎた時間の割に、何も残ってない人生」を自分に背負わせている。


私は、小さなシーンでも、妥協してはいけないんだ。
私は「どうして私が諦めないといけないの?」を、もっと私に言ってあげる必要がある。

諦めを、当たり前になんてしてはいけない。
ささいな諦めも、ちゃんと物理的な結果として、私の人生に積み重なる。
私は、負債になる結果より、実りのある結果を自分で選ばないといけない。


文節区切りの線

プレワークを振り返ると、私はやっぱり「他人目線、他人重心」で生きていることに気づいた。

「これ、他人から見たらどうなんだろう?」→「きっとこうだろうから、言わないでおこう(こんな主張はよくない)」
私はそういうことばかり考えている。

でもそうじゃない。
私の人生、私が何に価値を置くかは、私が決める。


私が私の時間に価値を置かなければ、他人に無償でそれをとっていいと許可したことになる。
(だって、私が自分の意思で価値を置かなければ、それは「無価値=タダ」になるのだから)

私の考えや価値観は、他人と違っていてもいい。
これまでの「境界線ワークショップ」でくり返し聞いた「他人は関係ない」はこういうことか、と私は改めて感じた。


文節区切りの線

私は、私に染み付いている「他人重心、他人目線」の感覚を抜いていかないといけない。
私は、代わりに「私はどう思うか、どうしたいか」を徹底的に考え続けないといけない。

間違ってもいい、修正してもいいから、とにかく「もってみる」。
もってみないことには、それが私にとっていいのかどうかのフィードバックも得られない。


私はどうしても「失敗しないこと」「間違えないこと」に重きを置いて、結局「自分で何も選ばない」「自分の感覚や気持ちを曲げる」ことばかりしてしまう。
でもそっちの方が、本当の意味で、私は間違えるし、失敗する。

だってそれは、私のニーズや気持ちが織り込まれてないから。
私はいい加減、このおかしな世界観から抜け出さないといけない。


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私は、ワークショップ内のチェアワークで「自分の身体から湧いてくるものを、考えないで待つ」ができた。
私は、これでいいんだとわかった。

私は、日々のチェアワークでも、自分を「こうしろ」とコントロールしてたとよくわかった。
だから私は、それをやめる。
私は私の身体に全てをゆだね、私を感じる、知る。


このクラスは「身体のワークショップ」ではないけど、やはりここでも「身体」の重要性を感じた。
私は、アプローチの入り口が違うだけで、基本は全部つながってるんだなと思った。
境界線問題の解決は、「境界線を引く(そのための言い方)」がメインじゃなく、「身体、姿勢」なんだ。


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「私はいやです」というワーク、私は最初は、言いつつも筋肉がそわそわして落ち着かなかった。
でも私は、チェアワークをしたら自然と身体と筋肉が感じられたし、自然と揺るぎない声が出た。
私は「私はいやです」って、当たり前のことをただ言ってるだけなんだと感じた。


かつての私は、そういうことを口にすると「こんなこと言って、私はいやな奴では」「こんなこと言われたらどうしよう」「その時はこう言って…」と、自分が主張したいこと以外のことをぶわーっと考えて、全然今ここにいなかった。
(そのとき、自分が何を言ってるのか、言いたいのかも正直わかってなかった)

私は、今回のワークで「そんな余計なことは考えなくていい」「私は今、私のニーズ、気持ちだけを言う。
それだけ」と思えた。


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私は、もっともっとチェアワークをする必要がある。
数だけでなく、一回一回の「質」にこだわることもすごく大事だ。


私は、チェアワークもしないで「うまくいかないんです」と言ってても、何にもならないんだなと自分のことがよくわかった。

私はチェアワークしてから感じる、考える習慣をとにかく練習する。
ワークショップ・クラスが終わってから少しずつ実践していて、いい感じだ。


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ワークショップ・クラスが終わって、改めて私は、自分の原家族のことを考えた。
私は、私の境界線をもつことがまったく許されず、相手の機嫌次第でいつも侵犯され、とてもつらかった。

私がその中で身につけた対処法は「とにかく相手と揉めず、穏便に過ごせるようにする」だった。
それは子どもの私が、これ以上傷つきたくなくて、必死で生み出したものだった。

私はそのまま大人になり、人とのやりとりは「いかに揉めず、穏便に進めるか」が重要だと思うようになった。
私は「それ以外はダメ(よくない)」という価値観に疑いを持たずに生きてきた(0か100かの考え)。


でもワークショップで話を聞いて、人と人が揉めることはあるんだな、それは普通のことなんだなと私は思った。
(もちろん「積極的に揉めよう」とかはしないけど)

二人の人間がいたら、価値観は違って当たり前、摩擦やズレが起きるのは当たり前。
だから私は、それを「私が悪い」とかせずに、「そういうもんなんだな」と受け入れる。
そのうえで、私の意見や気持ちも言える、聞いてくれる人と関係を結んでいこう。


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今回も私は、たくさんのことを学ばせていただきました。
優月さん、スタッフの皆さん、お仲間さん
ありがとうございました!!




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) きたみクラス



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私は、現実的な対処で、自分の現実を変えていきたい。
私は、現実とは「0か100か」ではなくそのあいだもちゃんと存在する、ということを、もっと覚えていきたい。
私は、極端なやり方で自分を窮屈にするのではなく、自分が自分のために何ができるかを考えていきたい。


文節区切りの線

「考える」ことを、手順通りにていねいにやっていく練習は、とても大切な学びだった。
今回のワークショップ内でのチェアワークはとても心地がよく、自分の普段のチェアワークはこんなふうにはなっていなかったと思い知った。

重力にまかせること、身体に自分を明け渡すこと。
一つずつの手順をていねいに。あとから行うことのことは一旦考えず、とにかくそのときの「今、ここ」に集中する。
ゆったりとした静けさに包まれ、自分の存在がどっしりと感じられて、とても気持ちのよい感覚をもった。


私は、自分のなかからやってくるものを受けとるということは、とてももどかしいようにも感じられた。
つい、また頭の中でのぐるぐるが始まりそうになる。
いつまでかかるのだろう、何か出てくるのだろうか、こんなことでもいいのだろうか、どうする「べき」だろうか…。

もどかしいけれど、私はこの自分の声を聴くという時間を、積極的に持つ必要があると感じた。
私は、身体の感覚もふくめ、自分自身のことをもっと信頼したいと思う。


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「私は嫌です」と言おうとするとき、練習と分かっていても私はとても居心地が悪かった。

何度か繰り返し、身体の感覚を高めていくうちに、私の声は自然と大きくなっていて驚いた。
いつの間にか、呼吸も落ち着いたままで堂々と言葉にできていた。


私は、自分の主張をするときにぐらつかない自分であれるように練習したい。
以前であれば私は、それを気合いと根性で鍛えていかなければ、と考えていたと思う。
私はいま、現実的に練習を重ねることで、もっと自分の味方になりたいと感じている。


文節区切りの線

「境界線」は、概念としてもつだけではなく、自分のための行動につなげる必要がある、という理解も深まった。

ワークショップ内でのシェアを通して、私は今年の春に境界線をひとつはっきりさせたことで、自分にとって明らかな変化があることを、改めて思い出した。
自分が自分のために行動を起こしたことが、自分への信頼を回復することに確実につながっている。


私にとって何が大切かがわからないと、私はそれを守ることができない。
境界線のなかに何を入れて何を手放すのか、私はどうしたいのか、を知っていく必要がある。
私は、「誰か」ではなく自分にもっと詳しくなるため、自分の時間やエネルギーをかけていかなくてはいけない。


文節区切りの線

私は、「自分がわからない」「どう決めたらよいのか、何を選べばいいのかわからない」と感じることが、増えているように思う。
以前はそのことに、ただ焦るばかりだったような気もする。

けれど今は、少し違った感覚もある。
私は、「自分のことをよくわかっていなかったのだ」ということは、わかってきたのかもしれない。
私は私を、もっと知りたい。


文節区切りの線

自分にとっての答えは、いつでも私のなかにあるはず。
誰かが教えてくれるとか、いつかやってくるとか、ひたすら待つようなものではない。
誰かが良いと言ったから、とか、誰かにとってこれが都合がいいから、というものでもない。

「私は」どうしたいのかを、私が自分で見つけていかなくてはいけない。

私は、自分のことを自分で決めていい。私には、それができるはず。
私は、自分のいちばんの味方として、練習を続けていこうと思う。




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T. M. さん(40代以上/石川県よりご参加) きたみクラス



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今回のワークショップで、私は自分のことを話す機会をいただきました。
そのときは上手く話せなくて、私は、私のことが整理しきれていないのだ、と思いました。
だから、ワークショップ・クラスが終わった後も、自分のことを振り返っていました。


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数年前のワークショップで、こんな話がありました。

自分を苦しめる、必要でないやり方、価値観を、自分の境界線の外にだす。
そうすると、新しい生き方が、入ってくる。


あの時は頭の中でしか想像できなかったことを、私はひとつ実践していました。

私は、それまでの人生で最大の武器としてきた「長所」を捨てました。
その長所は「生き延びるために身につけたもの」であって、本来の私ではない可能性が高い、と知ったからです。
私にそれを教えてくれたのが TEG でした。

客観的データは、思い込みや執着から自分を切り離して、生きグセや悪い習慣を知るきっかけをくれます。
私の場合は、「捨てる力」を一緒に与えてくれます。


文節区切りの線

例えば、データ中に飛びぬけた値になっている箇所があるとする。
それが「私が苦しくなる理由らしい」と知る。

知ると、「じゃあ、このグラフの値を減らせばいいのでは?」という発想になれる。
とても単純だけど、私にはこれがとてもよく効く。


もちろん、なくすのは簡単ではありませんでした。
グラフの値を知ってから、日々の行動を振り返ったり、いるのかいらないのか検討したり…。

「捨てる」と決めて行動にでてからも、色々な気持ちを感じながら過ごして、今、ようやく捨てることができたな、と実感しているところです。
5年近い月日がたっていました。


その期間中、物理的に離れたことはとても大きかったと思います。
もうひとつ大きかったのは、「捨てる」と決めた自分の決意の強さだったと思います。

私は、次の場所では同じ生き方を絶対にださずにいました。それだけは、徹底して気をつけていました。
次の場所で同じことを繰り返していたら、今の自分はいなかっただろうと思います。


文節区切りの線

「境界線ワークショップ」は何度もでていて、そのたびに TEG をとっています。
いびつだった TEG の値がひとつ、だんだんと変わってくると、今度は別のいびつな箇所が気になりました。
TEG の示す値は、「私が今、苦しいと思うこと」の理由と、また一致しました。

TEG などの検査結果、手帳に記録された日々の時間の使い方など、客観的に見られるものは、自分の課題をありありとあらわしてくれる、と改めて感心しました。


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私の今の課題は、「がまんして、他人や状況にあわせてしまうこと」と「熟慮せずに行動、決断してしまうこと」のふたつをやめることです。

ワークショップ・クラスでの「NO」の練習中に言われた、「これが終わったらちゃんとやろう、次からやろう、じゃないよ。今、やるんだよ」という言葉が身に染みています。

私は1週間、この言葉を胸に過ごしていました。
私は、「断りたいな」と思うことがでてきても、「断ったらなんて思われるだろう」「そもそも、なんて言って断ろう」と、うじうじ考えているうちに、「NO」と言うことが面倒になって、「今回ぐらい、いいかな。別に大した案件じゃないし」と思ってしまっていました。


「このぐらい」じゃないんだ。こういうことなんだ。
これを、断るんだ。
流される自分に「NO」をだす。
相手にも、正直な自分の気持ちを伝える。「NO」と言う。
そうでないと、私は一歩も進んだことにならない。

自分が持っている悪い思考が、浮き彫りになりました。
よし、これならまた、捨てられるかもしれない。
このクセをキャッチしたら、このクセに徹底して勝つことだ。


文節区切りの線

きっと、やれる。
たぶんまた、数年越しの作業になるのだろうけれど、「ひとつ、できた」という自信が私を支えてくれています。

徹底した日々の積み重ねが、自分を必ず変えてくれる。
「やってしまった!」というときもあるだろうけど、そのことに気づくこと。
そのとき、修正がきくのならば、妥協せず、必ず修正を試みること。

また、日々、歩んでいこうと思います。




タイトルはじまり目印

T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) きたみクラス



タイトル下の線


「境界線ワークショップ」は何度も参加しているけれど、私は今でもその場ですぐに OK していた。この場で Yes という方法、無理矢理でもなんとか帳尻を合わせる方法を、全力で考えていた。反応以外の何ものでもない。
私はとにかく波風立てず、全方位に顔を立てようとしていた。


他人は何の気なしに私に振ってきて、OK ならラッキー程度の感覚。私は断りたくても、相手に悪いかなともやもや考える。でも、相手はそんなこと気にもしていない。言うだけ言ってみる位のレベル。
NO といえばあっさり引く。

私だけが、自分の中で延々とぐるぐる。どう思われるかな。何で私がそんなことに時間をとられなくちゃいけないの? 私忙しいんですけど(イラっ)。
私はどうしたいかをちゃんと考えて、伝えればよいだけなのに(簡単じゃないけど)。それが本当にできなくて、私はどれだけ自ら便利に使われてきたことか。自分で自分が痛い。


文節区切りの線

プレワークで何度も実感したこと。
私はその時その時で相手の反応を見て、なんとか察しようとして、ない時間を無理矢理空けようとしている。

勝手に色々忖度して、自ら境界線を相手に合わせている。自分ではなくて相手が中心だった。
断ったりここまでできると決めて対応すれば、相手はあっさりそれで納得すると、身を持って学んだ。


私はもう上司の代わりにリーダーシップを発揮して、本来私以外が対応するはずの問題解決に時間を取られたくはない。私が肩代わりするのはうんざり。

私は本当に無意識に動いて立ち回ってしまう。物分かりのよい大人を秒で演じている。
ワークショップ・クラスの後、咄嗟に反応している自分に何度も気がついて、泣きたくなった。


そうやって気付いていることを認めて、私はどうしたい? を考え続けよう。
もやもやしていることは吐き出して、その後に続けて、自分がしたいことを書き出していく。
その練習を重ねていこうと思う。

今回もありがとうございました。


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ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

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