2020.07月開催 「感情ワークショップ」ろけっとクラス

画像
タイトルはじまり目印

M. N. さん(40代以上/千葉県よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


「人が、感情的にわーってなるときは、『わかってほしい時』『助けてほしい時』『愛されたい時』」

ワークショップ・クラスが終わってから、何度も何度も、ノートに書きました。
そして、気づきます、「あ、わたしだって、同じ。」

だけれど、私から他人を見た場合に、他人が感情的になるのは、
「怒っている時」
「言うことを(口の力で)人にきかせようとする時」
「八つ当たりしたい時」
だと。

私に染み込んでいることは大きな誤り。
すごく未来が明るくなりました。


文節区切りの線

私が、感情に対して持っていた誤解はこれだけではありませんでした。
私が感情だと思っていたこと、感情に対して持っていた認識も、ことごとく誤っていました。

感情=身体。
なるほどそうだったんだ! 

こんな時に、勝手に日本人の知恵に驚き、漢字の奥深さにハッとさせられてしまう。
「身体」と書くのは、心身のこと。
本来は精神も含まれるということ。

気づいてしまえばなんてことないんだけれど、今まで、まったく気づかなかった。
いや、気づけなかったんだと思う。


映像で事故のシーンなんかを見ていて体が痛くなったりすることがあるなあ、と。
心と体のつながり。
感情は私の味方だったんだ。

感情は、私が次の一歩を決めてゆくためのサイン。
感情を否定したり、なかったことにしたら、人生の方向を見失う。

昔の人も、知っていて、そんな知恵を文字に残し後世に伝えているのかな。
こんなちょっとしたことに共感できるようになった自分の変化にちょっと嬉しくなりました。


文節区切りの線

我慢強い、負のストロークに慣れ過ぎている。
さらには、感じていることに時差があることも。

私は自分ではそんなつもりは全くないのに、周囲には我慢強く見えてしまう。
私が何事も結局は面倒くさく感じてしまうのもこのため。

自分ではどうしてそうなってしまうのか仕組みがまるで分らないことばかりだったけれど、そのからくりを知ったから、心が本当にぐーっと楽になりました。


ワークショップでのロールプレイで感じた正のストロークは、心身の内側からじんわり温かくなってくる。
癒しすら感じられた。

快とは、こういうこと。
実際に、あの時、私の身体はポカポカして、耳まで温かくなった気がしました。
ロールプレイを振り返りながら、正のストロークを増やしていく人生に、自分でも自然と興味が湧いてきました。


文節区切りの線

私は、感情に大きな誤解をしていたことがわかって、本当に安心しています。
今まで、感情をどうしてよいかわからず、自分の中で止めてしまっていました。

違和感のあるときは、不快なはずなのに、解決しようとしたり、仲良くなろうとしたり、好かれようとしてしまっていた。
すごく無理をして、がんばって、エネルギーを使って、いた。
それは、感情的にすごく間違ったことをしていたんだと学ぶことができました。

自分の大変な誤解に気づけたら、感情が本当は安心なものだと心から思うことができて、私は、私の身体にも興味が湧いてきました。

優しく教えてくださって、優しく気づかせてくださって、本当にありがとうございました。




タイトルはじまり目印

S. M. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


大きな大きな仕組みが身体の中を巡った時間でした。
過去の自分のことになぞるような感じでした。

わたしは「わたし」をこんなにも「確認」したかったんだなあ。
その欲求が温かく感じたのは初めてです。


文節区切りの線

「インナーチャイルド・ワークショップ(前期日程)」を先週受けたこともあるかもしれない。
その確認方法がほんとにほとんどマズイ方法しか習ってなかったんだ。

今までは負のストロークと闘ってたんだ、これをこねくりまわして自分の中に溜め込んで(確認)、ってしてたし、自分が相手の言うとおりの人間にさえ思えてしまって(これが人格否定)、そうじゃないと証明したくなったり。

単に、その人から離れればよい。
それだけのことができなかったなんて(自分への責めは入ってない、それができない環境だったんだから)。

感情にこだわりこだわり、分析し(あの人がこう言うのは…わたしがあのときこうだったから…云々…やっちゃってたよー)、そして消化不良で疲れる。をよくやってた。

感情は次のステップだったとは知らなかったし、離れても、また別の場所があるとわからなかったから。
ああ、あるんだなあ、ささやかで優しい場所。

こう書いてると、ほんとに高刺激が止められなかったんだとわかる。それでずっと自分を確認してたんだもの。
「くだらないこと」とわたしがしてたことは、とても穏やかで優しくて楽しいものだったんだ。


文節区切りの線

負のストロークを受けたときは、怒りや悲しいや嫌いや辛いや怖いやたくさん出てきて、涙まで出てきた。
それ以上にもっとたくさんの思いが出てきたけど、そのときは気づかなかった、チェアワーク後の衝撃。

チェアワークしてもう一度見てみたら、「うわあ、わたし、すごく囚われてて、巻き込まれてるじゃない!」ということ。その場から動けず、ただギリギリキリキリと耐えてる感じで(ほんとに、チェアワーク前はそう見えなかったのに)。

そこが今回その場で椅子からひっくり返るぐらいビックリしたこと。はああっ! となってしばらくほわーっとなりました。
自動反応は確かに異常でした。


文節区切りの線

その囚われも、歴史を見ると納得なんだ。
嫌いになって当然のことをされながらも、子どもだったわたしはついていくしかなかった。
気持ちと身体が合わない(そこで登場してたのが我慢だったんだ)、自分の中で合わないことばっかりだったから。

本来でない使い方をしていたからだ。
ああ、そうなんだ。


わたしはすでに実家を出てだいぶ経つけど、母からの言葉にモヤモヤ囚われることに気づいたのはそれぐらいからでした。
「なんで時に腹が立ったり、憎らしかったり、悲しかったりすること言うんだろう。」と、なんでこっちが傷つくんだろう。ってすごく疲れてもいた。
それは父が亡くなったことや、物理的に離れたことから、わかりだしたことだったんだとも思う。

どれほどノートに「嫌い」と書いたことか、わたしの修行が足りないから器が小さいからこんなことで惑わされるのかと思っていたし、そういうことを感じる自分がすごく惨めで惨めでしょうがなかった、けれど、そうじゃない。

うまく書けないけど、そうじゃない。この一言。
どこか別の場所から、静かで優しい力が出てくるのも感じています。

この世界との繋がりで、わたしを確認していくのなら、温かいほうがいい。いや、それがふつう。


人が感情的になるとき、も、子どもを見てそう納得できたこと以上に、自分が感情的になったときのことを思い出せば(それはあまりないことなんだけど)、ああ、そうだわ! と合点がすごくいきました。自分の中のことのほうがやはりすごくわかりやすい。


文節区切りの線

「本来」を知ると、とても落ち込みもします。そうできてこなかった時間がそこには重さを持ってやってくるから。

その重さは持とうと思う、それは次の時間を大切にする糧になってくれると思うから。
もしかしたら、「本来健康」よりも、マイナスだった分上乗せされて健康度上がるんじゃないかな、とも思えた。健康度が上がるということは、楽しさが上がるということかな。

優月さんを見てるとそう感じるから。いやいや、一般の健康な人よりも断然健康レベル違うって思うもの。
一般が100だとしたら、200はありそうやし。

競争でもないんだけど、もしそうだとしたら未来に希望がある。
だって、ふつうの人がふつうに行うものが、こんなにも楽しくて喜びのあるものだったんだー! って、感動が2倍ある感じだもの。
感じる幅を広げていきたいです。


文節区切りの線

今回、わたしはホテルのデイユースを利用しました。
ふだん縁のないものだったので、慣れてない、スマートにかっこよくチェックインもできず。

それでも、二週目に訪れたときは、そこが会場のような感じまでありました。
優月さんがいてみんながいる。また戻ってきたなあって。

終わった後は、部屋にありがとうって言ってドアを閉める。そこでもらった大切なものを持って帰るような感じでした。
それと、お昼休みにすぐにベッドに倒れ込めたのも利点でした。午後からの復活度が上がりました。

もらったものをやっていく課題はたくさんですが、ほんとに大きな大きな夏の始まりになりました。
ありがとうございます。




タイトルはじまり目印

Y. S. さん(40代以上/長野県よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


ワークショップ・クラス後、しんどい一週間だった。
猛烈に胃が痛くなった。体がよじれるかと思うほどの強い痛み。
ゆっくり休むことにした。

からだの声は、とても大事だ。仕事に行こうとしたが、止めた。
私にとっては、からだと繋がっていることが大事だった。

からだの悲鳴を尊重した。以前の私には難しかったことだ。
自分のニーズより、他者のニーズが優先だった。
私はようやく、私のニーズを尊重して行動できてきたようだ。


文節区切りの線

子供の頃は、私のニーズどころではなかった。感じないようにして生きていた。
感じていたら、とても生きてはいけなかった。

そして何も感じないようにすることで、私が本当に何をしたいのかも、わからなくなっていった。いつも迷子のようだった。
目的がわからないまま彷徨っているような感じ。
歩いても歩いても、達成感は得られなかった。


私が経験した、解離という状態。この影響は今も大きく残っている。
生きづらさの原因にもなっている。そして私は、そうやって私を守ったのだと、私を誇りに思う。

この一週間、過去の出来事で感じていたことをリアルに思い出した。
子供の私には、これを感じるのは無理だ、と思った。と
ても苦しくて、やりきれないような感情。感じていたら、生きていけなかっただろう。


私は、私にできる最大限のやり方で、私を守り続けていたのだと思う。
私は何も出来ない無力な存在だ、と長いこと思い込んできたが、それは嘘だった。私は私なりのベストを尽くしていたのだ。
だから解離の影響に苦しんでいても、今から(というか今だから)できることをやっていけばいい、と思った。

これは、私にとっては、勲章のようなものだ。
ただし、非常時に必要なものであって、平和な時には必要のないものだと思う。
今は平和だ。だから少しずつ、解いていこうと思う。


文節区切りの線

どうして今のような状態になってしまったのだろう、私は沢山のものを失ってしまった、と、しばらくの間、後悔し続けていた。

そして今。私は、学びが深まれば深まるほど、私のからだに対する感謝も深まるばかりだ。
私の身近に、本当に近くに、私を全力で守ってくれる存在があったのだと、嬉しくて泣けてくる。

回復の道は、時には歩くのが辛くなることもあるけれど、歩き続けることで、私は私自身との信頼関係を修復している気がする。
そして、これから何があっても生きていけそうな気がしている。
自分を信頼できるというのは、とても幸せだ。私は長い間それができなかった。


文節区切りの線

ワークショップ・クラスで、お仲間さん達と一緒に、ご当地グルメの話題で盛り上がった。
とても楽しい時間だった。
今はワークショップで練習をしているけれど、きっとこうやって自然に楽しめる日がくるのだろう、と思った。

ワークショップで、そうするためのやり方を学んだから。
まだできないこともあるけれど、一つ一つ、取り組んでいけばいいと思った。


回復の方法はある。そして私は、学べるのだ。

そして、この「心地よい感じ」を沢山経験していこうと思う。

今回も実りの多いワークショップとなりました。
ご一緒させていただいた皆様、本当にありがとうございました。




タイトルはじまり目印

M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


わたしへ

おつかれさま。
正直、頭がまとまらずボーっとしているね。
それでも、今、感じることを書いておこうと思う。


文節区切りの線

ワークショップに参加してわかったことは、自分はまだ「負のストローク」をベースにして生きていたということ。
正直、とてもショックだった。

そして、今もおそらく恐ろしく我慢し続けているということ。
健康な人が我慢できないことを自分は我慢できてしまう。
そして、その中でなだめ役を無意識にしてしまっていたことに気づいた。

今、思うと「これくらい、全然ですよ。」ぐらいの勢いで。
それが、我慢だとも気づかなかった。
それくらい「負のストローク」が当たり前にあったということが今回わかった。


文節区切りの線

ワークショップのワークの中で「罪悪感」「怒り」の感情による「負のストローク」を体験した。
それは、私にとってはとてもなじみのあるものだった。

「罪悪感」を感じさせるのは父、「怒り」をぶつけられるのは母。
すぐに「あ、これ知ってる…」と思った。
すんなりそう思ってしまった自分が悲しかった。

自分がそういう環境に置かれていたことを再認識したこともショックだった。
私の傷はどれほど深いのだろう…と思った。


そういうことを知ると、自分がうまく感情を表現できなかったり、それ以前に感じることすらうまくできないことは、当たり前な気がした。
回復するということはそんな簡単なことではないのだと、今さらながら愕然としたし、今の自分の状況に納得もした。
悔しいけど。


文節区切りの線

そして、逆に「正のストローク」もワークで体験した。

雑談をした。
楽しかった。
自分が今まで思っていたものとは違う気がした。

リラックスできて、あたたかくて、安心できて、楽しかった。
なんだか、くすぐったい気がした。

私は雑談ですら「うまくやらないと」「その場しのぎ」と思っていたのだと思う。
思うと、そこに感情はなかったように思う。
「ただ、それっぽく振る舞う」をしていたように思う。

書いていて、それは「負のストローク」しか知らなかったのだから、当たり前だったのだとやっと今わかった。
「正のストローク」の世界を知らないんだから、それを信じられなかったのだから、見よう見まねは当たり前だったんだ。

出来ない自分を責めていた。
ごめん。

これからは、「正のストローク」の中で生きる。それをベースに生きていく。
練習する。
そして、自分の感情を感じることも練習する。
まず「感じちゃまずい」と無意識に抑えてしまうことに気づく。


文節区切りの線

最近、日々をうまくやっていくことに重心がいっていたと思う。
なにか、少しずれている気はしていた。

自分の本当の感情「私はどうしたいの?」が置いてけぼりになっていた。
本当にすぐに忘れてしまう。
「でも」「だって」に紛れてしまう。

今回も、それをワークショップで思い出させてくれた。
毎回藤沢さんに「あなたはどうしたいの?」と真正面から聞かれ、ハッとして「あ~…。またやってしまってた…。」となる。

「そのためにワークショップはある」と言われるけれど、毎回繰り返されるやりとりに自分を情けなく感じる。本当に「トホホ…」だ。
と言いつつ、それをとてもあたたかく感じる。
安心して軌道修正にとりかかれる。

「ひとりじゃない」から出来るのだと思う。
とてもじゃないけど、ひとりでは荷が重すぎる。


文節区切りの線

クラスでご一緒したみなさん、オンラインだったので集中できるか心配していましたが、始まってみればしっかり集中できました。
みなさんのお顔を拝見してすごく心強かったです。
優しい空間をありがとうございました。


藤沢さん、今回もやさしく、ビシーっとありがとうございました。
スタッフのみなさん、オンラインでも安心できる空間をありがとうございました。

今回はまだまだ基礎の部分が弱いということも再認識できて、ある意味気分も新たに腹がくくれた気がします。
またそこを分厚くしていこうと思っています。

ありがとうございました。




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


ちゃんと頑張っているわたしへ。

まず最初に、よくやっているということをちゃんと確認しよう。
勇気がある。だからここにいる。そのことを忘れないでいよう。
今はみんなぐちゃぐちゃに見えるけど、何年か後に振り返った時に、今よりも少しでも余裕が出てきてるといいよね。

知識として学ぶ。これがわたしにとっては必要な通り道なんだと実感した。
そうでなければ理解することも体得することもできないんだなぁって。


文節区切りの線

生きるって誰だって、誰だって大変。
自分だけが苦しいんじゃない、自分だけが大変なんじゃない。
だけどそれでも、わたしにとっては生きるのはしんどかったよね。

ここまでの人生をその時々のベストを尽くしてなんとかして自分を守って生きてきたんだって思えた。
そしてみんなどんな人も同じようにそれぞれにいろんな大変さを抱えて生きてるんだ。
そのことをつい忘れてしまうけど、みんな同じなんだなぁ。

きっと今苦しいのは、今までの守り方を変える時がきたからなんだよね。
だから苦しいんだよね。


文節区切りの線

一番の大きな収穫。それは「自分のことは自分でします」そのことを親からは教えてもらえてなかったんだっていうことに気がついたこと。

その価値観は家にはなかった。すっぽ抜けていた。
だから今もわたしはそう思えていないってこと。
だから社会に出ることも怖かったし、社会のルールも冷たい気がする。
わたしにはレベルが高く感じてしまう。

わたしはまだ、全部やってもらえるはずなんだと信じて疑わない子どもの心のままでいるからなのかな。そしてそういう時期を得ることなく大人になったからなのかな。

「いつになったら自分の番?」
多分そんな風に素朴にきょとんとしている。

だけどね、ごめんだけどね、もうわたしの番はこない。
一生待ってても来ないんだよ。
わたしはもう、自分のことは自分でするのが当たり前の年齢になっているんだよ。すでに。
そしてそうできるし、そうすることが一番自分にとって優しいんだよ。


文節区切りの線

わたしにだけ見えないルールをみんなが知ってると思えてならなかった。
そしてそれは正しかったね。

本当にそうだった。わたしには知らされることのなかったルールがやっぱりあったよね。
みんな生きてる。そこにいますね。っていうこと。

お互いを大事にしながら、生きていきましょうや、っていうこと。
存在を認めるっていうこと。
そしてわたしも、ありのままのわたしでいて、それでいいっていうことも含めて。

「あなたはそこにいますね。」
「はいいます。あなたもそこにいますね。」
これが本当に基本で、きっとずっと最後まで基本なんだなっていうこと。

色々ありますよね、って。なかなか思うように生きませんなー。ってそんな風にひと時を温かくわかちあって、生きている。
分かち合うべきはそういう平常の時間、感情のやり取り。


重くて苦しい感情のやり取りが人生のメインなんじゃないんだ。
そこは丁寧に隠して、自分で処理しているんだ。その方が平和だから。

わたしはそこをぶちまけたり正直にならなきゃいけないぐらいに思ってきていたのかもしれない。
でもそうじゃなくていいんだきっと。


文節区切りの線

人と繋がりたいのに、つながることができない。
それは当然のことだったって思う。だってルールがまるでわかっていなかった。

つながりを持つ意味合いがまるで違っていた。
救われることが「目的」になってたんじゃないかと思う。
そういう風に鍛えられてきてしまっていたのだと思う。

お互いに「在る」ことが前提で、それ以上のことはきっとおまけなんだよね。
それでも自分の弱さを認められたときに優しさが感じられたりする。そういう自然な心の動き。
もたれるのとは違う。

相手が目的になるのはやっぱり不自然なんだ。
わたしは目的を取り違えていた。


文節区切りの線

両親から求められてきたような関係性はすごく重くて深すぎてくたびれて当然なんだ。
わたしがそこから一秒でも早く逃げ出したかったぐらいなんだから。

そのやり方をずっとしていたら、離れたってうまくいかなくて当然。ボトムラインを一人の人に託すようなことが目的になっちゃっていたかもしれないんだ。

そんなことを今まではまるで気がついていなかった。
それが普通、当たり前だったから、今までのわたしは。


そうではなく、いろんな場所から自分の栄養が吸収できたらその方がいい。
安全だし、お互いにも辛くならない。
そういう風に生きた方が、みんなが楽なんだよね。

本当にそれでいいんだ。
今まではそれをものすごい圧力で封じられてきていたけれど、色々なものに興味を持っていいし、癒されていいんだよね。

ほっとする時間もあってもいいんだよね。
自分がほっとしたいから自分の時間を持つことも、都合を優先することも、本当にしてもいいことなんだよね。まだ怖いけど。


文節区切りの線

一対一の相手がそれをしてくれることがそもそも前提になっているかのような、最初っからあてにしてる。それをわたしは当然だと思い、大切だと思い、自分も相手に対して当然そうしなければならないと思い、忠実に守ってきた。
結構耐えて、大きな懐で相手を受け入れていた。
そこまでするのは、大きな、大きな勘違いだったのじゃないか。

今まではわからなかった。
知識ってすごいよね。大事だよね。


文節区切りの線

すごくショックだけど、わかって本当に良かった。
いろんなことのつじつまがあってきて、いろんなことのつじつまが合わなかった理由がぴったりとわかる。

わたしの言動、わたしの捉え方、やり方。
全てとは言わないけれど、多くの部分がこの世のルールと違う次元にあったたら辛くて仕方なくて当然だったよね。

それに加えて、わたしには考えるな、感じるな、見るな、聞くな、質問するなのルールがあって、問題を「解決」できないんだ。
解決のために具体的に知る、探す、考える、動く、がフリーズしてしまう。


人を信用するな、という縛りもあった。
必要があっても頼ることもできなかった。今までは。

周りはみんな敵で、奪い合わなければならない。取られないように強くあらねばならない。この世の人々はみんな悪いから、自分が変えてゆかねばならない。
正しい行いをして変えてゆかねばならない。

なんていう理不尽な重荷を背負わされているんだろうか。
無駄な戦いを強いられているんだろうか。
でもこれからは違うよね。


文節区切りの線

わたしは優しくされるとどんどん甘えてしまうけれどそれでどうなるかというと深く傷つくんだ。
そこにはその人が自分のために存在するんだという、大きな、傲慢な勘違いがある。

そんな風にこの世界はできていないのに、そういう幻想に支配されちゃってる。
それが目的になってしまうんだ。
そうやって鍛えられたから。そう思い込まされてきたから。そういう風に存在させられてきたから。

それは間違っているんだね。大きく間違っている。
その捉え方はどこか根っこから大きくずれている。

世界は自分のためにあるんじゃなくて、自分は世界の一部なんだ。
分かちあってるんだ。
分けあって助け合って、生きているんだ。それなのに。

根っこを腐らせるような優しさに慣れきっているんだ。
依存させられること、依存すること、束縛に慣れきっているわたしは。
だから束縛されると苦しいのに安心して普通の優しさには傷ついてしまう。
普通の距離感に深く傷ついてしまう。どこか軸がずれてしまってる。

それは辛くて当然だった。
そりゃそうだよ、とても痛いと思う。
それでは辛い。やっぱり何かが、おかしいんだよね。


文節区切りの線

みんながやっていることの、意味と意義とがわかってからもう一度みんなのやり取りを覗いてみたら、本当に納得できた。
それまではみんなが一体何をしているのかが、全然わからなかった。
本当にわからなかった。
だから水を差すようなことも、ずれたことも言っていた。

仕組みがわかったら本当にショックだ。
わたしがこれまで蓄積してきたものはほぼみんな、その目的の役には立たないと思った。


文節区切りの線

自分の家の異常さが、そして自分の汚染度があまりにひどくて目眩がする。
ここから立て直してゆくことなんか到底無理なのではないかと思えるぐらいの、かけ離れた感じ。

けれどルールだってきっと一個一個確かめていくしかない。
自分の古い感覚をたよらないで、きちんとした知識から学んでそれをできるようになるまで練習して自分のものにするしかない。

きっと剣道習ったりピアノを習ったりするのとおんなじで、急に名曲は弾けないよね。
そうでないと自分に厳しくしすぎてしまうよね。

そしてできないとしてもそんな自分をこの世にいてはいけないって否定するのは、家で覚えた変なやり方だ。
役に立たない価値観だよね。
そんな風に自分を追い詰めて追い立ててしまうから、だからもう生きるのがイヤになってしまうんだよね。

それにね、剣道やピアノみたいにうんとうまくならなくってもいい。
ちゃんと基本ができたらそれでいい。
交通ルールがわかるだけでいい。きっとそのぐらいシンプルなことなんじゃないかな。
だからちゃんと確認してゆこう。一個ずつ。


文節区切りの線

今までやってきたことが全部間違ってた、なんて、とても大きな喪失体験だよね。
ガラガラ崩れるような感じがして当然だよね。

でも間違った土台の上にどんな家を建てても傾いてしまうけど、土台をちゃんとすることができたなら。
小さな家でいいから、自分にとって居心地のいいのが作れれば。そう思おう。

うまくいかないことをこれ以上繰り返さないために、基礎を学びなおそう。
やり直そう。最初からくみなおそう。


困ったことがあったなら、解決すればいい。

そんなシンプルに見えることすら、わたしにはすごく難しいと感じてしまう。
やったらできるのに、やりたくない。
できないかもしれない。また失敗するかもしれない。
でもやらなかったら、ここから抜け出せない。だから、やるのだ。


文節区切りの線

もうこれ以上何も出せないのに、まだ尽くそうとしてしまう自分がいる。
そういう人間関係の結び方しか知らないんだ。わたしは。
でもね、もうやめる。やめよう。ちょっとずつ見切ってゆこう。
できる。一個ずつなら、きっとできる。

行き詰ってそこでなよなよ止まってしまうのはもうやめることにした。


文節区切りの線

わたしはまず、自分の部屋の居心地を良くすることにした。
自分が快適に過ごせる空間を確保したい。そこでしっかり休めるようにしたい。

心配と不安と焦り。それに駆り立てられての人間関係がもう身体が拒否するレベルでしんどくなってしまってる。
そのことに正直に向き合う。
わたしはわがままに映るとしても、それでも自分の都合を優先したい。
今ここの自分の都合を優先して決めたい。

これは今のわたしにとっては決して簡単なことじゃない。
すぐにも、身体は勝手に人をつなぎとめるための行動に走ってしまう。

その人がいなくてもわたしの人生にそこまで大きな支障があるとは思えないのに、ものすごく怖く感じてしまう。
自分のペースを守る、たったそれだけのことが。


文節区切りの線

わたしは人間関係の結び方を間違ったように覚えてしまっているようだった。
会話の目的もまるで誤解していた。

そして人を受け入れるレベルも、そこまで深くなくても良いのに、だいぶ深く踏み込むのが当たり前になってしまっている。
だから相手にも自分にもしんどいはずで、疲れるはずで、ヘトヘトになってるのに休めないから余計に苦しくなる。
もうダメっていうぐらいに。それでもそれをやめることの方が、今はまだ怖いのだ。

しかもやめるなら全部やめなくちゃって思ってる。
もう少しフレキシブルに、今、ここ。を大事にしていきたい。

怖いけどでも、もう身体が勝ってきた。物理的に不可能になってきた。
なんの言い訳もできないし、つじつまも合わない。説明もできない。

ただとにかく苦しくて、もう動けない。もうこれ以上合わせられない。
自分が今しなかったら相手は離れてしまう、そう思うと本当に怖いけど、本当はそっちは本筋とは関係ないことだから、きっとゆっくり距離を置いてゆけると思う。そういう自覚を持ってれば。


文節区切りの線

わたしはまたこれでひとりぼっちになってしまうような気がして本当に恐ろしく感じてる。
ただそれでも、もう自分自身を守ってあげなければ。
他に誰もそれをする人がいないのだから。

そう。そのことが一番わたしが誤解していたことだった。


誰かがいつかやってくれる。

それは大きな間違いだった。

それをするのはわたし。
そしてそれは、気合いとか念じるとか頑張るとかの精神論ではなくって、具体的な効果のある、所作であって、ちゃんと現実の中で工夫すること。
つまり「できること」「実現可能なこと」なんだ。

現実と向き合わない限り、わたしには安心が作れない。
現実の中にしか安心が育たないからだ。


文節区切りの線

今はものすごく怖くて、ひとりぼっちな感じがして、心細くって、またみんなから変な人として距離を置かれて、小さくなってしぼんでいくような気がする。
わたしだって友達が欲しかった。
ただ、楽しい時間を過ごせる友達が欲しかった。それだけだったのに。こんなことになってしまった。
でもみんな、実はみんなそれぞれに違っているんだよね。

今わたしがやってることの中のやっぱりおかしくて、目的が取り違えている部分をちゃんと変えることができなかったら、このまま一生閉じ込められたままの人生を歩くしかなくて。
それはもう耐えられないから、だからなんとかしたくて。

今はとにかく、自分の家の中に自分が快適に過ごせる空間と時間を確保すること。
それから薄くて浅い人間関係を作っていくこと。
できることはひたすら「雑談、雑談、雑談。雑談に始まり、雑談に終わる。」怖くなったら、不安になったら、「とにかくチェアワーク、リラックス、今ここ。」を唱えながら過ごそうと思う。


文節区切りの線

仕事についても、わたしには大きな誤解があったとわかった。
この世界を分かち合うに当たって、わたしには何ができる? どんなことならできそう? これが正しい質問なのではないかって思う。

そして普通は親はそうやって子どもを導くんじゃないだろうか。
何かを成し遂げるような、業績を残すようなことをいきなり求めてきたりしないのではないか。

わたしはそうではなかった。全くそうではなかった。

世界の意味も社会の意味も、お金の意味も、仕事の意味も
わたしにとってはまるで違うものだった。
だから当然お金も仕事も社会も自分とは結びつかないでいた。
切り離されてる感じだった。ずっとずっと長いこと。


文節区切りの線

わたしは社会に戻りたい。
わたしを現実としてちゃんと受け入れてくれている今の世界でわたしもその一員であると、ちゃんとやれてるって自分でも納得できるようになりたい。

切り離されて、隔離されて生きてきたわたしの、それがささやかだけど大切な夢です。
自分はルールもちゃんと守れるし、自分のことも相手のことも同じように大切にできるよ。
そう言えるようになりたい。

今はまだ、やらかしだらけで失敗だらけでも、もう怖がって失敗したことさえ認められないような自分じゃないから。

ここまでこれたのは、勇気があったから。だよね。




タイトルはじまり目印

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


私へ

何を書けばいいのか、今とても戸惑っています。

当日聞いた言葉の1つ1つが、胸に突き刺ささっているね。
私の心の中に、確かに “レモン” が落とされてしまった。
前に戻ることは、もう出来ない。
そう分かっていても、同じ強さで引き戻そうとする気持ちもあって、とても苦しい。


文節区切りの線

私にとって感情は、思っていたものとは違うものだった。

「感情」と聞くと、今、とても複雑な気持ちになる。
たった一言で書けることなのに、なんて大きなものなんだろう?


感情って、単に「感情」「感情と聞いて連想するもの・役割」に留まらないものだった。

うまく書けないけれど、処世術以上のもので、この世の大きなルールだと感じた。
シンプル? だけど奥深い。

私は、いつもこういうことを聞きたかった。
だから、このワークショップに何度も参加したんだろうな。


文節区切りの線

温かい世界観に触れたせいか、後でふっと気づいた。
私にとって「人=私をおびやかすもの」になっていて、今はもうそんなことはない場が多いのに、私の中でアップデートされていなかったかもしれない。
温かい関係を求めながら、私は反応で逆のことをしてきたかもしれない。

私も「存在を肯定しあうこと」がデフォルトになりたいなぁ…。
じゃなくて、なろうね。


文節区切りの線

言いたいことも消化しきれないことも沢山あるけれど、プレワークをやっていて良かった! と思ったことがあったね。
前回まではネガティブな感情ばかりキャッチしていて気がめいっていたけれど、今回は前に比べてポジティブな感情を感じることが増えたし、種類も増えた気がした。

「親しみ」「嬉しさ」「好奇心」「快」「満足」「愛しさ」…。
私の感情はすごく不器用だけど、それでも
「私は、ここにいる」
「私も、私の好きで得意なことで認められたい。仲良くしたい」
と教えてくれた。

今はこれだけ書くのが精いっぱい。
私の為に勇気を出して参加して、精一杯やってくれてありがとう。


最後になりましたが、今、この時期に「感情ワークショップ」を受けられて、本当に良かったと感じています。
ありがとうございました。




タイトルはじまり目印

T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) ろけっとクラス



タイトル下の線


いろんなことを気づかせてくれた「感情ワークショップ」。

これまでワークショップで学び、体感し、改めて再び学ぶ感情。
感情は身体ということや、感情って何? について、本質がようやく落ちてきた感じがした。


そして、私がこれまで苦しんできたことが条件付きの肯定や罪悪感ということと深く深く関わっていることが、私の過去の体験とつながったことで、理解が進んだように思う。

そして、いかに私が負の刺激に慣れすぎているかということが、今の生活からも見えてくる。

私の人生に起こった内容は重く苦しいものであるけれど、こうやって自分への理解が深まりわかっていくことが楽しい。
ここまで、歩んできた自分にびっくりだ。


文節区切りの線

それから、こうして得た気づきをこれからも大切にしたい。
私が感情を感じ、うけとめることは以前に比べできるようになってきた。

安全な場所で繰り返し、自分自身の感情を表現できるようにもなってきて、私が私を受け止めるのがやさしくなってきた、と思う。
こんな自分を少しずつ誇りに思う。


今回もたくさんの気づきを一緒に共有できたクラスのみなさん、優月さん。
ありがとうございました。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。