日々是好日 |「オオカミが来たぞ !?」 備え、守り、自分で立ってゆく生き方[2]

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「時間」と「心」が活動テーマ、文筆業・藤沢優月です。
話は、1本前からの続きです。





ところで、いわゆる「オオカミ少年」の話って、ありますよね。

少年が、「オオカミが来たぞ!」と、いたずらで叫ぶ。

最初のうちは、村人たちは、少年を信じて対応した。
でも、オオカミの姿はない。
何度も繰り返されるうち、じき、少年のほうが「嘘つき」とわかってきた。


ある日、いよいよ、本物のオオカミが来る。
少年は、大声で「オオカミが来たぞ!」と叫ぶ。

けれど、村人は、「また例の嘘だ」と取り合わない。
結果、オオカミに食い殺されてしまう。


著者は、この有名な伝承というか寓話を、別の視点から見たいと思っている。




たとえばですけれど、寓話の中では、少年は「嘘つき」ということになっている。


でも、この部分を外して考えたら、どうだろう。
なかなか、深遠なものが見えてくる。


たとえば、
「オオカミが、あと10キロまで近づいた。気をつけて!」
「オオカミが、あと5キロ!」

でも、依然、オオカミの姿は見えない。
ちなみに人は、見えないものを、「ない」と考えてしまう傾向がある


たとえば、この状態をもって、「嘘である」と言えるだろうか。





「いや。5キロ先まで来ているなら、話は別では?」

……本当?


というのは、おおかたの人の認知は、おそらく「今日明日あさって」ぐらいの射程距離かも。
だから、5キロ先のオオカミは、依然、他人事かもしれない。

「日々、目のまえの日常で、せいいっぱいだよ」
「オオカミが、本当にこっちに向かってきたら、考える」
「もしかしたら、違う方向に、走り去ってしまうかもしれないし」
と。





これこそ、注意しなければならないこと。


なぜなら、見えなかったはずのものが、
「形として、見えるようになる」
これは、手遅れの段階

だって、その時点で、準備(備え)ができていないのだから。



「見えないものに対して、想像力を使って、備えておく」

これが、脳を大きく発達させた「人間」という種の、安全への対策。
逆に言って、この部分を生かせなかったら、対処のすべはない。





今、現在進行形で、急激に、このような状況が進んでいますよね。


形として見えづらい、さまざまな状況や情報。
それらはまだ、具体的な形には、なっていない。

でも、法案とか決定事項とか、メインストリームに上がってこないニュースとか、諸々データという形で、断片を知ることができる。


いわば、「5キロ先にいるオオカミ」の気配なら、刻々わかる状況。
だから、学んで、予防策を重ねて、備えを重ねている人たちも。



あるいは、「見えるもの」に注意を引かれて、丸腰になっている人たちも。

「姿がないから、大丈夫」
でも、ある日いきなり、オオカミが大群であらわれたら、どうするのだろう。


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