あらためて、「経済」とは、何ぞや。
当地はこのような状況ですから、気軽に宅配便・郵便を走らせて、買い物をするような環境でもない。
ポチったところで、この有様ですから。
当然、生活の優先順位や、時間・お金の使い方が、変わってきます。
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この環境で暮らしていると、たとえばモノと、モノの管理に費やす時間が、あきらかに減る。
減らざるを得ない。
そして、モノを買う時、重々考えるようになる。
「本当にそれを、運ぶ価値があるのか」と。
買う前に、立ち止まって考える、というやつですね。
これを、環境に強制される形で繰り返していると、生活の中心が、「モノ」ではなくなってくる。
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代わりに、こんなものが出現してきます。
たとえば、郵便局に出向く途中に、素敵なカフェを見つけました。
都市の中に、いくつもある公園のひとつに、くっついているカフェ。
公園の敷地に、パラソルとテーブルが出してあって、木々の下にも、テーブルが設えてある。
太陽の光も、パラソルではなく、基本的に、木々が遮ってくれます。
ちょっとぐらいの雨でも、濡れずにコーヒーが飲めそう。
「いい場所を見つけた。次にきた時、ここで、2時間仕事をしてから帰ろう」
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そうして、2度目の、無駄な道のりの帰り。
荷物をトートバッグで運びながら、ひと休みを兼ねた、仕事です。
木漏れ日の下で、風に吹かれながら、ひたすら資料をまとめる。
すると、じき、誰かが話しかけてきます。
後ろには、大きな秋田犬。クリーム色と白のしっぽが、くるっと巻いています。
私が日本人であると見当をつけ、話しかけてきたのでしょう。
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ここに生きていると、「効率」という言葉を、へし折られるような状況ばかり。
でも、こうも感じるのです。
いわゆる「経済発展」というものは、それに対して真面目であるほど、ブレーキが効かなくなるのかもしれない。
そうすべき、それが正しいと思い込み、突進する状況になってしまうのかも。
それが、「思考停止」と言われる状況かもしれないと、気づくこともなく。
私自身もかつて、半ば刷り込まれるようにして、「正しい」と信じていたこと。
それは案外、正しくないのかもしれない。
正しいことは、もしかして、身体のリズムなのかもしれない。
心臓の刻むリズム、呼吸のリズムに、スピードを合わせることなのかもしれない。
そして、その速度で「じゅうぶんよい」と、自主的に決めることなのかもしれない。
ここまでで、じゅうぶんだ。じゅうぶんよい、と。
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この地で時間を送りはじめ、500日余。
何が正しいのか、いよいよ、わからなくなってきました。
そしてそれは、私の人生にとり、とても、とても喜ばしいことだと感じています。
それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。













