[ ONSA 通信 ]の続き | 心臓の刻むリズム、呼吸のリズム[2]

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あらためて、「経済」とは、何ぞや。

当地はこのような状況ですから、気軽に宅配便・郵便を走らせて、買い物をするような環境でもない。
ポチったところで、この有様ですから。

当然、生活の優先順位や、時間・お金の使い方が、変わってきます。





この環境で暮らしていると、たとえばモノと、モノの管理に費やす時間が、あきらかに減る。
減らざるを得ない。

そして、モノを買う時、重々考えるようになる。
「本当にそれを、運ぶ価値があるのか」と。


買う前に、立ち止まって考える、というやつですね。
これを、環境に強制される形で繰り返していると、生活の中心が、「モノ」ではなくなってくる。





代わりに、こんなものが出現してきます。


たとえば、郵便局に出向く途中に、素敵なカフェを見つけました。
都市の中に、いくつもある公園のひとつに、くっついているカフェ。


公園の敷地に、パラソルとテーブルが出してあって、木々の下にも、テーブルが設えてある。
太陽の光も、パラソルではなく、基本的に、木々が遮ってくれます。

ちょっとぐらいの雨でも、濡れずにコーヒーが飲めそう。

「いい場所を見つけた。次にきた時、ここで、2時間仕事をしてから帰ろう」





そうして、2度目の、無駄な道のりの帰り。
荷物をトートバッグで運びながら、ひと休みを兼ねた、仕事です。


木漏れ日の下で、風に吹かれながら、ひたすら資料をまとめる。
すると、じき、誰かが話しかけてきます。

後ろには、大きな秋田犬。クリーム色と白のしっぽが、くるっと巻いています。
私が日本人であると見当をつけ、話しかけてきたのでしょう。





ここに生きていると、「効率」という言葉を、へし折られるような状況ばかり。
でも、こうも感じるのです。

いわゆる「経済発展」というものは、それに対して真面目であるほど、ブレーキが効かなくなるのかもしれない。



そうすべき、それが正しいと思い込み、突進する状況になってしまうのかも。
それが、「思考停止」と言われる状況かもしれないと、気づくこともなく。



私自身もかつて、半ば刷り込まれるようにして、「正しい」と信じていたこと。
それは案外、正しくないのかもしれない。

正しいことは、もしかして、身体のリズムなのかもしれない。
心臓の刻むリズム、呼吸のリズムに、スピードを合わせることなのかもしれない。


そして、その速度で「じゅうぶんよい」と、自主的に決めることなのかもしれない。
ここまでで、じゅうぶんだ。じゅうぶんよい、と。






この地で時間を送りはじめ、500日余。
何が正しいのか、いよいよ、わからなくなってきました。

そしてそれは、私の人生にとり、とても、とても喜ばしいことだと感じています。



それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。