幻想の眼鏡を外す | 悪意[1]

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時間と命がメインテーマ、文筆業・藤沢優月です。


「自分に向かって、悪意(=悪い意図)が向けられている」
このことに気づくのには、勇気が必要。

でも、だからこそ、向き合わなければいけない、苦い経験なのだと思う。






というのも、こう、言われているじゃないですか。

「悪意のほとんどは、善意の仮面をかぶってやってくる」


悪意は、いかにも「悪」という感じで、やってこない。

……そりゃあ、そうですよね。


誰だって、自分を「悪である」なんて、認識していない。
誰もが、自分を「よい人」あるいは、「そうそう悪くはない人」と認識しているに決まっている。

これを書いている、私自身も含めて。



「悪意を向けてくる人・コトは、それを『悪』であると、認識していない」
ここが、悪意に気づきづらい、最大の盲点なのだと思う。


重ねて、これを書いている私も、例外なしに。





それでも、「悪意」というのは、確かに存在している。
それは、平たく言えば、「ドロボー行為」ということなのだろう、思う。



「そのことを、自分で、どう感じているか」
ということでは、ないのだろう。

というのも、「それを自分で、どう感じている?」とでも、問おうものなら。
「自分なりの理由があって、こうせざるを得ないのだ」という答えになるでしょう。

だから、仕方がないのだ。事情があるのだ、と。





だから、そんな議論とか、「どっちが悪い」という判断にはもう、ほとほと意味がない。
判断なんて、つきようがないのだから。

そう。誰にだって、事情がある。
それぞれの立場に立ったら、どちらにも、理由があるに決まっている。


「皆それぞれ、自分の事情がある」
「他人のことは、その人にしか、分からない」
「だから、他人の領域を、勝手に決めることはできない」





そう。だからこそ、要するに、境界線の問題になってくる。


境界線の問題。

たとえば、他人の境界線……他者の領域の中から、その人の持ち物・時間・資源を、盗もうとする行為。
自分なりの、身勝手な理由で。

シンプルに、これが「悪意」でなくて、何なのだろう。



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