「できない」「無理だ」「失敗」……。
これら、あまりになじみすぎた価値観。
「私には、無理だ」
「できっこない」
「今まで、できた試しもなかった」
「どうしたらできるのか、わかりもしない」
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この記憶を、よくよく、よーく辿ってゆくと。
源まで辿り着くと、ふと、こんな記憶に行き当たったりします。
「挑戦する前から、あきらめていた」
……いえ。
もっと言えば、このような記憶にすら、行き当たるかもしれません。
「挑戦する前から、あきらめさせられていた」
「勝手に決めつけられ、勝手な判断で、機会をもぎ取られていた」
–
さらに、よーく観察してみると、一種、身勝手とも言える考えに、行き当たることも。
たとえば、当時の周り……たいていは大人が、めんどくさがっていた。
もっと言えば、なにごとにも、否定的な姿勢であった。
あるいは、具体的に、教えられなかった。
手段を、探してあげられなかった。
「自分には、無理である」
「だから、あなたにも、無理だろう」
こんな、身勝手な考え(=当人は無自覚)で、こちらの可能性にまで、天井を設けられた。
勝手に、可能性をちょん切られた。
–
「大人たるもの、完璧な大人であれ」
「すべてに、間違いがない人間でなくてはいけない」
こういった、「0か100か」「白か黒か」の極端な考えに、陥りたいわけではない。
そうではなく、他者の可能性までちょん切ることは、まったく別枠の話。
自分ができないからといって、他人まで「できない」と、積極的に決めつけるのは、どう考えてもおかしい。
そして、それなら、あきらめる理由にはならないですよね。
だって、あなたの側に、あきらめるに相当する、理由がないのだから。
–
現在進行形で、まさに今、ワークに取り組んでいる最中の「お仲間さん」。
重ねて、あきらめる理由には、ならないと思います。
また、あきらめる気も、さらさらないと見ています。
そして、それがいいと、確信しています。
なぜなら、ひとつ挑戦し、ひとつ、行動するたびに……。
あなたは確実に、「できる」に変わっていっているから。
こんなに希望があって、力強く、心躍ることを、やめる理由はないですから。
それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。














