

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) じょうみょうクラス

私には、怒りが「ある」。
見えなくても、見ないふりをしたとしても、適切に対処をしないかぎりは無くなりはしない。
怒りとは、想像していたような激しいものだけではないらしい。
ムムッ? となるくらいのささやかな違和感や、どうも愉快ではないなと感じることも、怒りのかたちの一つである。
そう学べば、私はずっと怒りにまみれていたのでは、と思えてくる。

受講後、私はなんとも言えない疲れを感じた。
(前日の別のワークショップ・クラスが、1年前ぐらいのように思えた)
頭がクタクタだとか全身がヘトヘトという感じとは、どこか違っていた。
自分の内部に感じる、どーんと重い感じが、消えない。
私のなかは、過去の怒りでいっぱいのようだ。
なみなみに満ちているビーカーの図が思い出される。
ここが埋まっていて、新しいもっと良いものが入る隙がないなんて、残念すぎる。
ただただ、この事実が迫ってくる。
「え、これ、どうするのよ…」と、誰に向けるでもないつぶやきがあふれるかのようだった。
見えなくても「ある」ものを、ごまかさず何の合理化もなしにのぞき込むと、このような重さになるのだろうか。

怒りとは、身体的なしくみなのだと学んだ。
本来は自然な要求として起こり、解決のための対処がされるべきもの。
私にとっての怒りは、混乱している。不自然な処理をしてきている。
ガマンする、耐える、なかったことにする、合理化をする…。
特に、私には、都合のよい解釈をつけて正当化することがごく自然に自動的に起こっているのを感じている。
私にとって、信じ込む、決めつける、というようなことは、混乱を収めるには有効だったのだろうと思う。
今回、自分にとってごく当たり前になっていたある関係性をも、疑う視点が出てきた。
私はこれを「それ以上は見ない、考えない」と決めつけていたような気がしてきた。

「だって、認めたら、あれもこれも現実的な対処が必要になるから」
見覚えのある言い訳だ。
思えば、これまでの回復の道のりには、大なり小なりこれが幾度も起こってきた。
自分自身との関係、家族との距離感、仕事について…。
これまでの経験からすると、私にとって、覚えのある言い訳や抵抗は、自分にとって対処が必要だというサインだ。
私は、これまでの合理化の賜物を、ずっと握りしめて生きていくつもりなのか?
それで、いいのか?
何をどう受け止め、どう動くのかは、自分にしか決めることができない。

私は今回、対処の練習のために、いくつかの怒りの記憶に触れた。
情景も身体の感覚も、ありありと思い出せることに驚いた。
本当だ…。
まったく、無くなってなどいない。
その環境からは離れているはずなのに、むくむくと湧き上がり渦巻くようなものを、今ここにいる自分が感じている。
これは、本当の本当に、ごまかしがきかないことなのだ。
私は、このことを知る、ほんの入り口に立ったのだと思う。

事実の重みのほんの一握りに触れただけでも、茫然とする。
けれど、私がやっていくことは、根本的には変わらない。
私が幸せに豊かに生きるための、力をつける。
練習をする。
問題の真の解決ができるように、対処を練習する。
解決の機会を与えていく。
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多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。