2021.12月開催 「冬の大勉強 & 大準備会[一般編]」すだちクラス

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タイトルはじまり目印

M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) すだちクラス



タイトル下の線


本来あるはずの形にわたしはなりたいと強く思う会でした。
ただただ「丸」になろうと思う。

へこんでいるその形に本来入るものは、数回ではめて丸になる大きなピースではなくて、とても小さいカケラのようなものだと思う。
そのための日々の小さな結晶集めをわたしは止めたくないです。
20ピースや30ピースのパズルじゃないんだから、時間がかかって当たり前だよね、そう思っています。


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なんてものに巻き込まれたのだろうかと何度でも思う。
わたしが相手にしていたのは、そういうものだったのかとまさに戦慄を感じました。
戦慄を感じるということが身体で覚えれたように思います。

詐欺師だって、いつかボロが出ると思う(日本の警察舐めちゃいけないと思う)。
芸当でもない。
わたしが相手にしていたのは、そんなものじゃなかった。

相手も生き残るための仕組みに従って自然にやっていること。それに脅威を感じました。
生命の仕組みじゃ逆らえない、わたしが「生命の仕組みと反対のことをされた」ので、苦しいのと同じこと。
逆らえてたら、苦しくないから。
これは、世界で1番の難題だと思った。


その難題が、こんなにわかりやすく言葉と感情で説明してもらえる場に繋がれて、それだけでも大ラッキーだったんだと、今あらためて感じています。
お仲間さんたちの言葉一つ一つにも共感でした。


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相手を自分の境界線に入れて心の中でごちゃごちゃやってるときは酔ってるときなのに、気づきにくい。
そして、気づいて戻る場所がわたしにもある。
その戻る道や場所が弱かったと思う。自分の仕事場(丸になるための場)になかなか戻れなかったと思う。

そして、以前受けた一般編のときと比べるとやはり自分の輪郭が違うのがわかりました。
そのときは衝撃だらけだったと思う(そして、また忘れていたこともあることにも気づく)。


戻る場所にも遠慮がなくなってきた、戻り方もだんだん上手になってきたと思う。

完璧な丸なんかは目指さない、それだと今までと同じ、月だってほんとはずっと丸だけど満ち欠けしてて変化してる、ずっと満月なら狼男だらけになる(と、これはわたしの中の個人的な比喩)。
形は丸でも柔らかく大きくなる日もあったり(今日いけるー)小さくなる日(ちょっとヘコんでます)もあるような、そういう丸でありたいです。


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なってやろうじゃない、とも思う。わたしは「結婚した女」じゃなくて「契約した女」でありたいです。
以前は、法律だか憲法だかは血の通ってない冷たい統制なのだと思っていたけれど、人が豊かさのために創ったものは、やはり温かったのだと感じています。

いろんな家庭があるから、にも惑わされてきたと思う。
いろんな家庭があるのと、起こってはならないことがある家庭とは、ぜんぜん違うと思う。

社会が豊かさを分け合うのなら、家族という単位だって、豊かさを分け合う関係なのだと思う。
わたしは、まず丸のカケラを集めたい、そして豊かさを分かち合うほうに参加したいです。
自分の生命の仕組みのほうを信じたい。

今回もありがとうございました。




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S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) すだちクラス



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私は長い間思考停止に陥っていて、長い長い間一人で考えては一人で完結している状態だったんだなと感じた。

私に圧倒的に足りない経験は、人と心を交えて付き合っていくこと。
深くじゃなくて、浅く広く。

一発逆転だけを目指して、体裁だけをきれいに整えて、言われたこと「だから」その通りにやる。
その繰り返しだった。

どんなに上手くまとめても、こなしても体験が伴わなければ「あ~、それは知ってるよ」のまま。だからずっと心は乾いていて、寂しくて、むなしくて、現実や自分を見れなくて外のせいにしていた人生。

本当に、立て直していけるわけ? 自分、大丈夫?
できるの? じゃなくて、やるんだ。粛々と。


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不安だけど、立ち止まったらそこまで。だけどどう動けばいいのか、何を体験したらいいのか、自分に問うてはフリーズ。
少し動いてまたフリーズ。
答えが解ってるのに、いつまでも動けないこの鉛のような身体。
自分が嫌になる。

私は、不安になると「思考停止」になる癖がある。とても根深い癖。
不安を解決するために動くのではなく、「忘れたふり」を繰り返して、覚悟なんてしてこなかった。
大ごとだとずっと思いたくなかった。

そして、ここにうだうだ書いて云々うなってる自分に、イライラしてくる。もどかしくなる。
見守れなくなる。自分が自分に罵倒してしまう。


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今の私が出来る小さな1歩をやるしかない。
忘れたふりは、もうおしまいにして、動けないなら勉強する。不安なら、ノートに書き出す。真剣に。

振り返るとそれはもう、やり始めている。
私は私を見捨てたくないし責めてフリーズさせることを辞めたい。
もっともっと、自分のことを見て行こうって思った。


優月さん、ご一緒してくださったみなさん。
いつもありがとうございます。
皆さんの話を聞きながら、共感したり、自分と比較してそうかと思ったり、たくさん学ばせていただきました。

お互い、悔いのない人生を歩みたいですね。
今年もたくさんお世話になりました!




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T. M. さん(40代以上/石川県よりご参加) すだちクラス



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今の私は、人間関係については停滞しているようでした。

一番身近な人間関係がどういうものなのか、搾取されるような関係なのかどうか、「わからない」。
今の私には、うまく判断ができない。

「保留」が結論でした。


そして、ひっかかっているこの身近な人間関係以外は、とても安心できる環境であることも、改めてかみしめることができました。


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ワークショップの前半であった「共依存はまわりの反応をみて、逆算して決めてしまう」という言葉に、とてもハッとしました。
私は、「これぐらいのことはやらなくてはいけない」「将来のことを考えたら、今がんばって○○をやっておかないと」と、自分が思い込んでいる理想像や将来の不安から、逆算して判断していました。

「本当はこれぐらいがいい」という気持ちがあるのに、それを無視して、「冷静に考えれば、これじゃ足りないでしょ」と自分を駆り立てる。

「冷静=自分の理想像・世間一般の普通(と思っているもの)」であって、それは全然、自分の希望でもなければ自分サイズでもない。

こんなものを私に強いているのですから、数週間ごとに体調を崩したりするのは、当然のことだったのですね。
生活から仕事から、時間の使い方はすべて組み直しだな、と思いました。


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優月さんが描いてくださった共依存の状態、「欠けている丸の形」もとても印象的です。

欠けている部分を丸に近い形にしていくとき、それは内側から少しずつ少しずつ膨らませてさせていくことになる。
無理やり引っ張ってはいけないし、無理やり丸の形にこねくり回して丸にするのでもない。

以前なら、「ある日何かが上手くいって、ぽんっと丸に変わってくれないかなぁ」なんて夢もみていましたが、今はもう、そんな夢は感じなくなりました。
今の私の内面、心の声から、形を作り広げていくのだと理解することができました。


少しずつ丸に近づいていく過程のなかで、出会う人たちもいる。
一緒に豊かになれる関係が築けるよう、慎重に、時には勇気をだして、練習していきたいと思います。




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Y. W. さん(30代/愛知県よりご参加) すだちクラス



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私は、どんな人とつきあってもいまいち楽しくなかった。
楽しくしゃべっても、なんだか疲れてしまったりしたし、仲良しと思える人でも、どこか距離があって、親しい関係をつくることができなかった。

私の何がいけないんだろう?
その答えは「私の土台が逆になっている」「搾取される関係、欠けの状態が基本になっている」だった。

その原因について学んで、私は「どんなにうわべのあれこれを工夫しても、うまくいかなかったのは当然だったな」と思った。
私の基本の型が変わらなかったら、そこにくっつく相手も変わらないんだ。


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私は、不健康な人たちにたくさんの資源を盗られた。
それは見えない、透明な形で行われていた。
私はそれを自覚できず、「今回はいいか」といつも流してしまっていた。


でもそれを「お金」「時間」といった形あるものに変換してみたら、私はすさまじい盗難、搾取にあっていたんだ! と気づけた。

友人のあの愛想のいいアプローチも、中身を見てみれば「私の財布から1万円盗む」ようなことだった。
お金に換算すると「何してるのよ! ふざけないで!」と思える。

見えにくい、透明な行為を、こうやって自覚できるようにして、私は私を守れるようになりたい。


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そして今回の会で私が一番衝撃を受けたのが「私が、搾取する人を求めている」ということだった。

この話は、過去の会で何度も説明してもらっている。
私は、頭では理解しているつもりだった。

でも今回、それが強烈に自覚できた。

アルコール依存の人が「お酒がほしい」と求めてやまない状態。
私は同じことを「搾取する人」に求めているんだ…。
これはとてもショックだった。


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でも、とても深く「そうだな…」と私は納得した。

私は今、これまでの環境から離れて過ごしている。
自分の人生をつくるためのチャンスでもあるけど、同時に「自分の人生をつくることが、私にはこんなにも難しいことなんだ」にも直面している。

そういう状況になって初めて、私は「高刺激」に支えてもらいたい、自分の役割やすべきことを決めてほしいというニーズがあることに気づいた。


搾取されること、不健康な人間関係。
頭では嫌だと思っていても、私はその関係に慣れ切ってしまっている。
慣れているというより、そういう関係でしか私は生きたことがない。


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搾取されることはつらいし嫌だけど、でも「私のすべきこと」を決めてくれる。
私はそれに従ってさえいれば、かりそめにでも達成が得られるし、何かをやったような気持ちにもなれる。

自分を知る、探すという手強い挑戦からも「今、私はこの問題で忙しいから」と言い訳して逃げられる。
そんな「見えない利益」が山のようにある「不健康な関係」。

そこから本当の意味で抜け出せなかったのは、私の弱さ、恐怖だったんだ。
私が見るべきは、他人ではなく、私だった。


とても衝撃的だったけど、私はここでわかってよかったと思う。

今まで「お酒と同じように、人に嗜癖する」と説明されても、いまいち私の中で実感がなかった。
それを実感できるようになったのは、私の積み重ねの成果でもあると私は思う。


文節区切りの線

人間関係だけを見ていると、私はつい「あれが」「これが」とあちこちに目がいく。

でもそうではなくて、私の土台を健康なものにしてゆくこと、私を○(マル)の存在にしていくこと。
徹頭徹尾、私のことに集中することが大事なんだ。


確かに、「私」がいないと、私にとって心地いい関係がつくれない。
私がまず私に満足してないと、他人に過剰な期待をして、依存してしまう。
だからまず、私を○(マル)の存在にしていくことが、人間関係をつくるのにも必須なんだ。


私は私の好きなもの、心地いいと感じるものを引き続き集めていく。
そしてそれに堂々と「私はこれが好き!」と言える私になりたい。


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今までの私は、つい、私の好きなものに対しても「こんなもの…」と否定しがちだった。

でももうそれ、私はやめる。
きっぱり、やめると私は決意するんだ。

だって、私の人生には限りがある。
そんななかでいつまでも私の「好き」を否定していて存分に楽しめないでいたら、私が私の人生を台無しにしてしまう。
そんなの、する必要なんてどこにもない。

私は私を大事にするし、私の好きも大切に肯定し、楽しむ。
そういうことが、私を○(マル)の存在に近づけていくと思う。


文節区切りの線

私の思う「優しさ」は、搾取したい人によって刷り込まれたものだった。
私はそれを「そうしないのはよくない」と思って、必死でやり続けていたけど、でも結局それは、私を犠牲にして他人に尽くすことでしかなかった。

私がそれをやめたら、搾取してくる人は「そんなの冷たい、よくない」と非難してくるだろう。

でももう、偽りの優しさを否定されたって、だからなんだって私は言っていい。
そんな嘘の優しさで、私は私の心も人生もつぶしたくない。

本当の優しさは、「お互いに豊かになろうとする関係」の中にある。

私はそれを、これから実際の経験で学んでいきたい。
私の中に本当の優しさを育てていって、人と豊かになれる関係をつくりたい。


私だって、人との関係の中でたくさん笑いたいし、幸せになりたい。
それはとてもシンプルな願いで、とても大切なもの。

私は難しい人を攻略することにエネルギーを注ぐんじゃなくて、私の中の素朴なニーズをかなえていこう。


文節区切りの線

「誰かの幸せのためには、誰かが不幸にならないといけない」
そんな世界に、私はもういたくない。

もう犠牲になること、誰かを満足させることで私をOKにする世界はいやだ。
そんなことしなくたって、私をOKとして楽しく過ごす選択肢は他にいくらでもある。


私は、私も誰かもともに幸せになれる世界にいく。
この言葉を知ってしまったから、私はきっとそこにたどり着けると思う。
私はそれを、私のために信じる。


優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
ありがとうございました!




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) すだちクラス



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わたしへ

目を覚ませわたし。冴えた頭に戻ってこい。
これ以上訳のわからない「なんとか劇場」に巻き込まれて生きるのはうんざりだよ。

わたしは冴えた頭で生きたい。
閉じた物語の中に閉じ込められたままでいるのはもう嫌だよ。


自分がなぜここまで張りつめて生きているのか。なぜ疲れるほどに気を使い、気づいたことを先回りしてやり、人を喜ばせて生きるのか。なぜ自己主張がこれっぽっちもできないのか。自己価値感がこれほどまでに低いのはなぜなのか。

その理由をじっくりと学んできたよね。
自分がない状態で生きて来たこれまでが、いかに大変だったかが見えて来たよね。


わたしは「わたしは〜」のその先に広がる広大なフィールドを目隠しされて奪われて来たんだ。誰かの利益のために。
だから目を覚まそう! 本気で。

冬の清々しい朝の冷えた空気みたいにすっきりとした頭に、わたしはちゃんと戻るぞ。


文節区切りの線

最初の頃のわたしは「回復」を終わらせて早く自分の人生を始めなければ、というように思っていた。
今思えばそれは滑稽だったね。

回復とは自分を生きること。生き始めること。
それは人生そのものだ。本当にそうだね。


終わるとか終わらないとかではない。わたしは一生回復していくんだよ、って今はそう思っている。
そしてできる範囲のことをする。
そのこともわかって来た。とても安心感が増えて来た。よかったね、わたし。


それを受け入れることも仕組みを理解するのにも時間がかかったね。
不安、恐れ、悲しみ、苛立ち、悔しさ。いろんな気持ちの渦。
それから本気で生き始めたら当然出会うであろう生の感情というものがやっぱり怖い。


怖いけど、力も感じてくる。そしてその力を今までやって来たごり押しのアクロバットにではなくて安心と安全を上げていくのに使うという、このなんとも言えない違和感。
ほんとに時間がかかりそうだよね。


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わたしは自分の気持ちや心を尊重して生きてもいいんだ。
相手の気持ちも自分の気持ちも大事にする。そうすることで居心地よくなってもいい。

わたしの家では人と足並みを揃えることはすごく悪いことだと教えられていた。
人への気遣いもしてはいけなかった。
相手を気遣って協調することは悪いことだった。

わたしはそれを鵜呑みにして父の言う通りにしたのでものすごく生きづらかった。
人の気持ちがわかるからこそ、わたしにとってはとても辛いことだったんだと思う。
気づいてあげられなくてごめんね。


わたし自身は空気が読めないと思っていたけれどとんでもない。空気は読みすぎるほど読んでいるのだとわかった。
読めているのに、それを尊重することを教えられてこなかったからちぐはぐになってとても辛かったのだとわかった。
そして周りの空気は読みすぎるのに自分の気持ちを見つけられない。この差異。


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搾取者の論理の中で取り上げられてきたもの。
それはわたしの権利のすべてだった。
わたしの自己主張だった。

自分の心を体を満たすこと。満足すること。
「自分を満たす」は人生のメイン事業なのにそれをしていいと思えていない。

月や星や夕焼け季節の色づき。美しい風景を見たときでさえ、その経験を自分のものと思っていい感じがしない。
まさに命を奪われたような状態で生きていること。
それを思うととてもとても悔しい。
そして広大な悲しみ。わたしは自分を取り戻したい。


文節区切りの線

「わたしって自分でいても、いいのかな?」
この感覚はビンボーと不幸への片道切符。

自分の価値を自分から粗末にする片道切符なんかもういらない。

それとは反対に「わたしはどうしたい?」の答えは自分を満たす最短距離切符。
これからのわたしはわたしを自分の力で満たして生きていく。
それはわたしにできることである以上にわたしの権利だったのだから。

今はまだとんでもないものを植え付けられている。
しかもダメな自分に酔うようになってしまっている。そんなことをされてきて、黙ってるわけにはいかないよね。


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わたしは気持ちをわかってもらえないことに対してあまりにも鈍感で無防備だった。このことが引き寄せてきた人間関係が見えてきて、あれも、これもそうか! となった。

本当は嫌って言っていい。頭でわかってても仲良くしてくれる人にさえ嫌ということは難しいと感じる。
「わたしは嫌です」ということにあまりにも慣れていない。原家族の中ではわたしの気持ちなんてなくて当然だったんだと言うことがこのことからわかる。

そうやって我慢や無理を押しつけられてしまう。
だって言えないのだから。そのことに慣れっこになっている自分が見えた。自己主張ができないことの大きな大きな弊害。


認めて欲しくて無償で捧げて来たものの大きさ。
かけがえのない幼い心に許されていたとても大事な探索と創造の時間。
試行錯誤の時間。
そしてそれだけにとどまらず、多額のお金。持っていたらわたしを守れたはずのお金。

そして植え付けられた、ためにならない生きグセ。
食い潰されただけでは済まされていない。大きな損害がある。


それでもわたしは気づいたから、学ぶ場所と繋がれたから、先をゆく人々の知恵と知識を大事にまとめて分けてくれる人から、わたしも豊かさを出しあって学ぼう、変わっていこうとする勇気を持ててきたから、ここからの未来は違うものになるってわたしは思うよ。

まだよろよろとでも豊かさを出し合う生き方をわたしは始めようとしている。
それはとてもすごいこと。決して小さなことではないよね。
小さな勇気ではなかった。そのことは自分が一番よく知っているよね。


文節区切りの線

一緒に豊かになる。豊かさを出しあって仲良く楽しく共に生きていく。気持ちを大切にする。そういう視点がごっそりと持って行かれてしまっていたと思うと非常に悔しい。

部屋の片付けをしていてふと手に取ったフランスの子ども向けの百科事典の社会について書かれたところを読んでこれかーと思った。
この考え方は万国共通。そして問題が起こることも当たり前。

社会は今の所は多数決で決まっている。では少数派はどうするのか。
一人ではなく集まって、異議を唱える。
抗議することも権利なのだ。

それぞれ異なる価値観を持つ人間がみんなで仲良く暮らしていくこと。そこに生じる葛藤。
でも黙っていなくてもいい。声を出していい。
お互いに尊重する道をともに探っていく。
そんな基本的なことをわたしは体感として知らなかった。厳密にはその権利を隠されてきた。

見えているものが違う。この視点をちゃんと自分のものにして世界を見ると全然違って見えてくる。ハッとする。
だから目を覚ませわたしって思う。


文節区切りの線

わたしは世の中を知ることからも遠ざけられていた。なぜ自分が家で気持ち悪がられたのかが分かる気がした。
たぶんわたしが先を読むからだったんだと思う。
彼らが思ってもいなかったことを言い当てたりしたからだとおもう。

生命の不思議や世の中に対する興味や関心も彼らにとっては気持ち悪くて恐ろしいものに映ったんだろうなとおもう。
例えば「死」とか自分が知るのも怖いようなことに子が興味を持ったら怖いっておもうんだろうな。

でもわたしがされた禁止は花火は火で熱くて危ないから直接手で触ってはダメ、というのとは違う。明らかに違うとわたしはおもう。
知られたら、まずいこと。知られたら離れていかれるからまずい。
自分たちのわからない場所へ行かれるのは困る。だから知らせないようにする。そういうことだったとおもう。


自分の考えを持ち、論理的であること。
そして本を読み色々な考えを知ること。社会の仕組みについて知ること。

口では理想論を説きながらそれらをダメなこととして巧みに退けられていた。
それは仮にも親が子どもにすることではない。
知る権利、教育を取り上げたと言うこと。自分の頭で考え、選び取る力を与えなかった。
海に放り込むのに泳ぎを教えなかったのと同じだ。

義務の放棄と権利の侵害。あまりのことに声も出ない。
褒められたくてそれに従順に従ったのはわたしだと思うととても悲しくなるけど、子どもという立場で他にどうできた? わたしのことを責める人がいたらどう思う? わたしにはとてもできない。


文節区切りの線

他人事だったら黙っておけない。なのに自分ごととなると感覚が麻痺してくる。今までやってきた貼りつけた笑顔が出てきてしまう。
ものすごく悔しくなる。

そしてわたしはもうそこから抜け出そうとしているよ。とってもとっても勇気がある。
ここまでの人生だって、わたしはずっとブレずに自分を守ろうとして生きて来たのだとわたしは思うよ。

いつか脱出できたときのために大事にシールしておいた。
それがわたしのしたこと。とても賢いことだっておもうよ。


人を搾取する仕組みに飲み込まれると人間がどうなってしまうのか。洗脳による自己価値の喪失。そこからは逃げることができなかった。
本当に恐ろしいことだし、決して許してはいけないことだと思う。
そして学ぶことで、学び続けることでわたしはそこから自分を救い出すことができると思っている。


文節区切りの線

良かったこともまた、見えてきた。

わたしは自分が好きだな、と思う素敵なお店で優月さんの本を見つけられた。
ONSA も好きだな、と思えるから続けてこられた。(ここにいていいのかどうかは、ずっと不安だったけど)好きだな、と思えることを選ぶことは自分にとってすごく大切なことなんだと思う。

結婚したことも海外へ行ったこともそして離婚したことも良かった。
その度に両親から徐々に、でも確実に離れることができた。
それは本当に良かったと思える。わたしは今、我慢や無理を強いる人から確実に距離を置きつつある。


わたしにとって子育ては「べき」をおしつけた辛い思い出もあるが、失った子ども時代を一緒にたどり直すような貴重な時間でもあった。
そして今自分にとって本当に温かな意味で家族と呼べる息子たち。彼らにはまた自分の人生を生きる自由があるから将来どうなるかはわからない。お互いにお互い自身を守る権利があるから。

血の繋がりだけが大切なのではない。だからみんな自由にしていい。わたしも、息子たちも、本当にそれでいいんだと思える。
その上で大切にし合うことができるのなら、素晴らしいことだとおもう。
わたしは自分自身も家族の思いも尊重して生きたいと思う。


文節区切りの線

わたしは自己主張をしない(できない)からこそ人の気持ちが見えない(読めない)人と繋がってしまう。それは従順なわたしが反論もやな顔もしないので相手にとって居心地よく、自分にとっては苦手で一番怖い自己主張をしなくてもすむから楽なんだなとわかって来た。

やったことなくて怖いことをやらなくて済むから、そこに居てしまうんだ。
だから自分を取り戻すんだよ。
i – message を取り戻すこと。

怖くても、わたしは、を繰り返し練習すること。実際にやってみること。
それは本当は生まれた当初からの本当のわたしの仕事だった。


文節区切りの線

仕組みをわかって来て、やることもわかって来たら、計画も立てられるかな、と思えるようになった。

わたしは普通よりもずっと長く寝たり休んだりしたほうがいいのだということもよくわかって来た。
それだけ普段緊張しているし夜もぐっすり眠れないのだから当然だったね。

自分の安心と安全のために必要なことが徐々に具体的にわかって来たよね。

自分で決めてゆくんだ、ということもわかって来た。それには失敗が伴う。失敗に対する価値観を変える必要があった。それもやりながら身体で覚えるんだよね。体験ってそういうことだよね。


これからもますます学んで安全度をあげてゆきたい。自分にとって安全な速度で、自分が望む方向へ、毎日自分ができる分だけ。そして生きている間に到達できるところまでいけたらいいんだよ。

目指して進んでいることの方がずっと大事。そのことが理解できて来た。


一人では心もとないときには、手を繋げばいい。わたしにとっては信じて良いのかとてもドキドキする言葉。
手をつなぐって、今までのわたしの知ってるのとはちょっと違う。
まだ言葉にできないけど、わたしはもう体験して知ってるんだと思う。
みんなで生きる、みたいなこと。


優月さんとスタッフチームの皆さん、そしてお仲間さん。
今回もありがとうございました。

わたしへ。またここから一年じっくりと学んで行こうね。




タイトルはじまり目印

A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) すだちクラス



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今回も発見の連続で、本当に受講を決めてよかったと思っている。
主軸の内容ももちろんのことだが、毎回発見が大きいのは、意外なことにお仲間さんと優月さんの間の質疑応答だ。

これは、今回、この会にこのメンバーで参加していたならではの収穫なので、本当にそのチャンスに感謝をしている。


「私は人に頼るのが苦手なので、どうすれば頼れるかを知りたい」
というお仲間さんの問いに対して、
「私は頼らない。頼らないというのは全て自分で抱え込むという意味ではなくて、そもそも自分のキャパシティーを超えて人に頼まなければいけなくなるほどの量の仕事を抱え込まないということ。自分のキャパシティーを超えたものは、『他の人がやること』だ」
と優月さんの答え。

人生の基盤の考え方が逆転している、とはこのことかと痛感したやりとりだった。


キャパシティーの感覚が、まず私にはわからない。
わからないから、「このくらいなら、できて当然だよね」みたいな空気感に、弱い。

そしてまさに、今まで私がやってきたことは、キャパシティーを超えて引き受け決定し続けることの連続だったと思う。


文節区切りの線

「結婚とは」という内容については、聞いている間は「そうだよね」と思ってあまり気持ちの上には引っかからなかった。
少なくとも、私の両親が、「自立した男女がより豊かになるために」という形の結婚をしていなかったということには大きくうなづけた。
とても納得していた。

この話を後から思い出してみると、ところで、私と夫の関係は、どうなんだろう…共依存的でないと言い切れるだろうか、と心の中に暗雲が立ち込めてきた。


ワークショップで母のことについては散々書いてきたし話してきた。私は母を選んで産まれたわけではない。それに母は、現在は私と生活を共にしていないし、長くてもあと20年程度で亡くなる。
そういう意味では、母のことについては(育ててくれたという申し訳なさはありつつも)文句や違和感を言葉にしやすい。
この家庭環境で育ったことは、自分の責任ではないからだ。


夫のこととなると、それなりに思うことがある時もあるが、なんとなく、書くことが憚られる気持ちが自分の中にある。
それは、「その人を選んだのは自分」という責任が伴うからだ。
夫を否定することは、それを選んだ自分を否定するような気分になる。
また、今の生活の基盤を成す存在であるので、否定して全てが覆ってしまうのはとても恐ろしい気持ちになる。


今後の関係をどうこうというのはさておいて、今までの夫との関係で疑問に思ったことは正直に書いてみることにする。
ここに書くだけなら、関係が壊れることも生活が激変することもないから、とりあえず書いてみることにする。

下に書くことだけ読むと「大丈夫か?」と思われそうだが、大前提として、「基本的には仲がいい」「私に非がある場合もある」ということを注釈しておく。


文節区切りの線

・夫の正論に対して、言い返せない。それに対して、その時は怒りを感じられず、後から怒りの感情が湧いてくる、ということはたまにある。こういうことは夫だけではない。上司であったりもする。

・付き合う前や付き合いたての頃の愛情表現が「ちょっと過剰だな」「私は同じ気持ちになれないな」「重いな」と感じることがあったが、「私を愛してくれているからだ」「私は大切にされているのだ」と解釈した。これらは、時間とともに適度になっていったので、あまり気にしていなかった。

・夫だけでなく今まで付き合った人全般、基本的に誘いを断らない自分がいた。
 (そして自分の時間がなくなってやや疲れていた)

・誕生日プレゼントに高価で質の良いものをくれるのだが、「あのプレゼント分の値段のものを数年かけて返して」と言われる。

・夫が「その服ダサい。何かいい服を買いに行こう(もう少し婉曲表現をしているが、内容的にはこんな感じ)」と言って、高い服を一緒に買いに行く(私の服なので、私がお金を出す)。もちろん良い服が選べて、着れば素敵に見えるし、今も大事に着ているので満足している側面もある。ただ、私の意志で「服を買いたい」と行動に移したわけではないということに疑問を感じる。

・夫のアメリカ留学の夢についてきてほしいと言われる。

・今は夫は仕事で忙しいのでほとんど家にいないが、たとえば老後長く一緒に過ごすことになったとして、私はこの人と何をするのかな、したいのかな、と思う。


文節区切りの線

10代までの大量にあったはずの自分の時間が家族問題に削られてしまった分、これからの僅かな自分の時間を少しずつかけて人生の土台づくりをしなければいけない、という図。
「とんでもないことをしてくれたな」と憤慨するお仲間さん。

もし本当にそうなのだとしたら、確かに恐ろしい。とんでもないことだ。
だが、それがまだ私のことであるという実感が湧かない。
そんなに奪われてしまったのか? 私はそれなりに自分に時間を割いてきたつもりだったのだが。


「みんな一人一人が自分で自分の城を作っていく」。
そう。「自分で」。
それが大事だとすごく思う。私は「私は」を取り戻したい。


文節区切りの線

「被虐は、脊髄反射的な2択の判断しかさせてもらえないような人生だった。本来の『選択』とは、無限の中から自分に合うものを能動的に選び出すということだ」

お仲間さんも話していた通り、本当に難しいことだと思う。
無限ということがあまりに果てしなく怖いものに感じられて、深く考えなくて済む2択の世界に戻ってしまいたいと思う気持ちはすごく良くわかる。


文節区切りの線

優月さんは人生回復当初、「ある程度回復するまで就職はしない、交際もしない。なぜなら、回復していない私に近づいてくる人間は、有害な関係になりうる人だから」と決めて、人生回復に集中していたという話を聞いた。
それでは私はどうなのだろうかと、不安な気持ちになってくる。

ONSA WORKSHOP には、実のところ、かなりライトな気持ちで飛び込んだ。(もちろん、参加条件が細かく記してあるので、自分がやって良いのかなという気持ちはあった)

『夢かな手帳』のように、1年くらいかけて、自分のやりたいことや方向性が見つけられるといいな、くらいの気持ちで当初は参加した。
話を聞いていると、どうやら1年やそこらでどうにかなる規模の問題ではないようだ。

今の自分の決断にも自信が持てなくなってくる。
だって、今の自分は、人生回復途上の人間だし…と。

「結論はいつも仮定でいい」
「失敗は織り込み済みで計画を立てる」
「実体験として、経験して、合う合わないを、自分の肌で体験する」
…人生回復のゴールがどこなのか、そんなものが果たしてあるのか、よくわからないので、こういった優月さんの言葉を信じて、仮でもいいから、失敗してもいいから、かといって投げやりにならず慎重に、決断をしていきたいと思っている。


文節区切りの線

基礎編に続いての2日間連続参加。慣れなかったためか、期間中の睡眠が浅かったためか、一般編の受講中に頭痛に見舞われていた。
なんとか当日は我慢して全て聴くことができたが、その後も3日間程度体調がすぐれなかった。

後になってから、「我慢しなくてよかったんじゃない?」と気づいた。
「生理的欲求を我慢しない」というルールのワークショップで、トイレも自由に行っていいくらいだったのだから、「横になりながら聴講してもいいですか?」と聞いて、楽にできるようにすればよかったなと思う。

今までも、ワークショップではない場面で、こういうことが何度となくあった。
なんとか時間内、たとえば仕事の終業時間まで、耐えてしのぐ、みたいな。頭が痛いとか具合が悪いとか伝えるのはすごく苦手だったし、割と元気なふりができてしまうので、相手にも伝わりづらかった。

そういうことを気楽に表現できたらどんなに楽だろうと思っていた。
それも含めて、今後のワークショップでは練習していきたい。


1人でいる時は、「生理的欲求を我慢しない」をできるだけ意識していて、「我慢しないと、精神的にもこんなに変わるものなのか」ということは実感してきた。
我慢している時は、そんなことは関係ないと(たとえば尿意と、今やっている仕事上の判断は関係ないと)思っていたけど、我慢をやめると、すごく落ち着いた気持ちで判断ができる。

それを、人に囲まれてもできるようになること。
それが私の課題だ。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

「その状況も気持ちも、"体験して" "知っている"」
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