2022.06月開催 「境界線ワークショップ」こるですクラス

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タイトルはじまり目印

M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) こるですクラス



タイトル下の線


わたしへ

まずはお疲れさまでした。
今回は今までと少し違う感触だったね。


ずっと引っかかって詰まっていたところからやっと抜け出せた感じがしたね。
しかも、あんなに欲しかった境界線が知らないうちに出来てたね。

想像していたものとは違って実際は「ああ、これがそうなんだ…」だったね。

そして、それはきっと今まであなたが何度転んでも立ち上がり続けたから手にしたものなんだと思うよ。
おめでとう。
そして、あきらめないでくれてありがとう。


これからまだまだ何度もひどく転んだり、自分を見失うと思う。
でも、時間がかかっても戻れるから大丈夫。これからも一緒に歩いていきましょう。


文節区切りの線

私は機能不全家族で育ちました。その原家族の影響もあり、私にはずっと境界線がありませんでした。

「境界線ワークショップ」に参加するようになって「境界線を作っていい、引いていい。本来はもともと誰にでもあるもの」と聞いても私はよくわかりませんでした。
また、私は境界線を引くこと自体にものすごく抵抗感や罪悪感、怖さなどを長い間感じていました。


それでも私は境界線がないと私の中を踏み荒らされ続け、ひどく傷つけられるということは痛感していました。
だから私は境界線が欲しくて、引き方が知りたくて、何度もこのワークショップを受け、練習もしました。

でも、やっぱりよくわかりませんでした。
それでも毎回少しずつ何かしらは得ている気がして参加し続けました。


文節区切りの線

そして、今回私はワークショップに参加して自分の変化に気づきました。
私には知らないうちに自分の境界線が出来ていました。


私は今回ワークショップの中で「境界線がない=自分がない」と聞いて、自分の中でなにかがつながった気がしました。

私はずっと「自分がない、自分がわからない状態」でした。
その状態で「境界線が引けるようになりたい。境界線が欲しい。」と一生懸命練習してきました。
そして結局、体感としてはわかったような、わからないような…ということを繰り返していました。

今思えばそれは「自分がない」のだから自分と他人の境界線なんて引きようがない、わからなくて当たり前、私がいくら望んでも作れなかったのは当たり前でした。
私はそのことがわかったとき、なんだか喉のつかえがとれた気がしました。


文節区切りの線

そして、逆にどうして今、自分の知らないうちに境界線が出来ていたのか、ということもわかった気がしました。

ONSA のいろいろなワークショップに参加するたびに「私はどう生きたいか?」ということを問われ続けます。
そして、私も自分自身に問い続けるようになりました。

とても難しくまだまだ練習中ですが「私は何が好きで何が嫌い?」「私は何が良くて何が嫌なの?」「私は何を大事にしたいの?」ということが不器用ながらも少しずつわかるようになってきました。

それは今はまだ本当に小さな事柄ばかりです。
でも、気づけばそれらが「自分」を形作っていました。

そして、私は自分の境界線を感じることが出来るようになっていました。
これが「自分がある=境界線がある」ということなのだと思いました。


文節区切りの線

私は自分が大事なものは大事にしたいし、嫌なものは嫌、それが境界線の始まりなのだと思いました。

そして境界線を含め「自分がどう生きたいか?」がわからなくなると途端にすべてがおかしくなっていく。
このことも実感しているので気を付けようと思います(私にはとても難しいですが)。


私は、あんなに欲しかった、どんなに練習しても作れなかった境界線が出来ていたことにびっくりもしたけれど、しみじみとうれしさも感じました。

クラスでご一緒したみなさん、優月さん、今回もあたたかい空間をありがとうございました。




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) こるですクラス



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私は今回、切実に必要であると感じて、このワークショップに申し込んだ。
私は、自分のその行動に、とても救われていると思う。

基礎は本当に大切であり、何度参加しても、そのときの自分にとっての気づきや学びがある。
私は、この機会を自分に与えた自分自身のことを、とても誇らしく心強く感じている。


文節区切りの線

私は、少しずつ自身の変化を経験しながら、自分の境界線が軟弱で危ない状態であると感じてきていた。
私は、自分を守れずに、外側からの侵害を許すことがある。

境界線は、知識としてもっているだけではなくて、実際に守る必要がある。
私は、自分自身のために行動を起こそうとするとき、境界線は無くてはならないもの、と感じるようになっていた。


そして私は、自分が「境界線さえちゃんとしていればもっと変われる」というようにどこかで思っていたのでは、とも感じている。
いま思えばそれは、「境界線」を役に立つアイテムとか魔法の一つとか、そういったもののようにとらえていた、ということなのかもしれない。

それは完全に、一発逆転を狙うような、現実的ではない発想だった。


文節区切りの線

ワークショップ・クラス当日を経て、その考えは変化してきている。

私はいま、本当に必要なのは「自分」であると感じている。
「私にとって何が大切なのか」ということだと思う。

私は、「自分がない」ために、身に着けたやり方でその空虚さを埋めようとする。
私のやり方とは、TEG のデータが示すように、「人の世話」で存在価値を得ること。
そして「私」ではなく「誰か」の大切なものを守ることに、力を貸すこと…。

そしてそのために私は、もっとがまんとがんばりを積み重ねなくてはいけない、ということになる。


文節区切りの線

いまの私の処世術は、それを教えた人にとって都合の良いものになっているのではないだろうか。

そのやり方をとれば「彼ら」が、助かる。
肝心の「私」は、どこにもいない。

こうして学ぶようになる前の私は、そのことに対しての違和感がなかったと思う。


「空虚さ」や「むなしさ」は感じるものの、「私がおかしい」のだと信じて疑っていなかった。
私は、いつまでも満足できない。私はいつも何か「足りない」感じがする。
私は、自分で人生を切り拓けない感じがする。

でもそれは、私が至らないせい、私のできが悪いせい、努力が足りないせい…。
「自分が悪い」と考えることは、私にとってとても納得がいくものになっていた。


文節区切りの線

私はいま、それは「おかしい」とはっきり感じている。
一見納得がいくようでも、私の心が「それはおかしい」と言っている。


「人の役に立てば存在していいが、役に立たないならば存在してはいけない」
条件を満たさなければ私が存在してはいけないなんて、とんでもないことだと思う。

自分が自分自身の存在や幸せを感じることを認められないなんて、おかしいに決まっている。


私は「私」として生きていきたい。
私は、そのための行動を起こしたい。


文節区切りの線

「私はどうしたい?」という問いは、しばしば自分のなかに感じることがあった。
しかしそれは「枝葉にすぎない」のだと今回のクラスで知り、私は衝撃を受けた。

私は、本当の根っこは「私はどう生きたい?」であるということを、あらためて理解した。
根っこがぐらついていては、「私はどうしたい?」の答えもあちこちへぶれてしまう。


私は、私をもっと知る必要がある。
私は、一つずつ、自分にとっての答えを出せるようになりたい。

私は、それを「自分の軸」で選び、決めていきたい。
私は「自分にとって何が大切なのか」を感じ、それを守る行動をとりたい。

私はそのことが、「境界線を守る」ということに自然とつながっていくように感じている。
私は、大切な自分との対話を重ね、勉強と練習を続けていこうと思う。


優月さん、ご一緒した皆さま、ありがとうございました。




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Y. N. さん(40代以上/福岡県よりご参加) こるですクラス



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私へ

今回初めての ONSA WORKSHOP(対面式)「境界線(バウンダリー)ワークショップ」に参加したね。
お疲れさまでした!

変化のまっただ中にいる私の言葉を、記録に残しておきます。


文節区切りの線

■「NO」の練習について■

藤沢さんが「断るのに、論文書かなきゃいけないぐらいの勢いでしょ?」と言っていたのが、とても印象に残っているね。
私は、断る時には理由を説明するのが、当たり前(親切)だと思っていたから。

でもこれを逆から考えると、私の境界線は、何か理由がないと存在できないことになってしまう。


境界線とは、そういうたぐいのものではないこと。
ただ、そこにあるもの。あっていいもの。

私は何者でもない、「ただの私」で、存在してていいんだ。
この意識が、自分の中にほとんど育っていないことに、私は気づいたね。


三段階で境界線を引く「NO」の言い方の練習は、現場ですぐに使える実践的なものだったね。
職場で急な残業を依頼された時も、今度からは罪悪感なく、今よりも肩の力を抜いて「NO」を言える自信がついたね。(すばらしい!)

ちなみに「断る」というよりは、「自分の境界線を守る(示す)」とイメージして断る方が、私はよりナチュラルに振る舞えることに気づいたね。
いいよいいよ、その調子でいこう♪


文節区切りの線

■チェアワークについて■

チェアワーク、すごい!!!!!
この一言に尽きる。


自分の体に戻ってくることが、「今ここ」に戻ってくることなんだ!

これを自分の言葉で、発見できたこと。
踊りだしたくなってくるような嬉しさがこみあがってくるね。


ワークショップ・クラス中に藤沢さんが、話しながらよく肩をぐるぐる回していたのを見て、「文筆業っていうのはやっぱり肩凝りがひどいのかなぁ」なんて呑気に思っていたら………ちがった(笑)。
あれは、ボディワークだったんだ。

藤沢さんは自分の体を感じながら、「今ここ」に全身で集中して、私たちにすごい熱量で知識を分け与えてくれていたんだ。
そうする姿を、目の前で見せてくれていたんだ。


それが分かってから、さっそく自分の日常で、お手本にさせてもらうようにしたね。
座れない時でもちょっと肩をうしろに引いたり、足の裏をしっかり着地させるように意識すると、戻ってきやすい感じがすることを発見したね。

行動的なのは、私の美点の一つだよね。
自分の良いところは、なかなか思い出せなかったりするから、定点観測メモにしっかり記録したよ☆


文節区切りの線

■ i – message の練習について■

この練習も、とっても実践的だったね。
そして、今の私には、難易度が高めだと感じるね。
気づけば、「i – message」を忘れ、無意識にしゃべっている自分に気づく。

気づくことができている私、すばらしいよ!
いい感性持ってると思うよ。

焦らない。
着実に、一歩ずついく。


文節区切りの線

■「考える」練習について■

藤沢さんに「あなたは考えてない!」と断言された時は、キョトンだったね(笑)。

「処世術」と「性格」を見分けられないように、「反応」と「考える」もまた見分けがついていないのが、今の私ということなんだと思う。
まだ自信がないけど、現時点での仮の答えが出せたから、これを大切に保留しつつ前に進んでいくね。


それからチェアワークと i – message を使うことによって、半強制的に「反応」(=過去のパターンに支配されている自分)を、切り離すことができることに段々気づいてきてるよね。

「今ここ」(=落ち着いていて囚われのない、大人性を持った自分)を取り戻せるこのワークは、とてもパワフルだよね!
たぶん練習すればするほど、理解が深まっていくと思うよ。


文節区切りの線

■ワークショップ全体を通じて、今感じていること■

・よくここまで一人で生き抜いてきたね…自分に対する心からのねぎらいと、まるごとの肯定感。

・いかに自分の境界線に対して、無自覚に生きてきたのかという衝撃。

・にも関わらず、「自分ごと」としての実感がまだわいてこない、そのことへの寒々とした恐怖。

・私は絶対にここ(過去の支配)から抜け出してやる! 冒険に挑戦するようなワクワクした気持ち。

・頼もしい援助者(藤沢さん)と、回復に真剣に取り組む仲間がいることへの感謝。


以上です(ˆᴗˆ)




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A. Y. さん(40代以上/長野県よりご参加) こるですクラス



タイトル下の線


今日というこの時点で振り返ってみると、わたしの環境はすごく変わったと思う。

いちばん変わったことは世界が広がったということだ。


仕事、友人、回復のつながり。
数年前と今とでそのスケールがすごく大きくなりそして細かくなった。
一つ一つの輪のなかにいる人の数が飛躍的に増えた。

そこには勇気をだしたわたしがいて、支えてくれ背中を押してくれ時に厳しく愛してくれ辛抱強く見守ってくれた人がいて、いつも変わらずそこにいてくれた人がいて、そして視野が広がったわたしがいる。


文節区切りの線

トラウマ反応というのだろうか。
胸に氷のような悪寒が走ることは今もある。

全身がそれで縛られる気がしたり、低調音的にずっと続いてるような気がする時もある。
けどそれは思い過ごしなのかもしれないとも今は思う。

「それはもう手放しても良いものです」
そんな声が聞こえる。
明るくて朗らかな声だ。


自分と向き合う、自分を引き受ける。
そのことを決意することはとても勇気がいること。
何度ハラをくくっても気づくとバレているような気がしてたけど、わたしは確実に強くなってきました。

なにを今更って悔しい気持ちやなぜわたしだけって悲しくなったり、そんなこと今更自分でするなんて絶対嫌だって感じていたり、イライラする気持ち悔しい気持ちも感じながら、ひたむきに歩いてきた自分がいる。


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小学校から中学校に上がる頃、わたしの心の中には親友とも呼べる相手がいた。
どんなことにも公平な意見をくれ、わたしを見放すことは決してなかった。

わたしはその存在といつの間にかはぐれてしまっていた。
自分でも気が付かなかった。

そのことに気がついたのはある出来事がわたしの人生に起きた時、自分が見失っていたものに気がついたわたしはすごくショックだった。

一度ぼろぼろになったけど、その後もなんども絶望したけど、本当に少しずつ少しずつ、いろんな遠回りを繰り返しながら、ちゃんとわたしはその存在に近づいてきたし、そしてその存在は当時そのままの姿で戻ってきたわけじゃないけど、今わたしは前よりもずっと身近にその存在を感じる。


文節区切りの線

あの頃はすごく信頼できる友だちみたいだった。
揺るぎなさが半端なかったのはわたしが幼かったからかな。

今はお母さんのようであり、お父さんのようであり、友だちのようであり、神様のようであり、大地であり、風であり、水の流れだったりする。
そして耳元であれこれ囁く肩にいつも乗ってる小さな妖精のようでもある。

時々イタズラを仕掛けてきてわたしの予定してたことを狂わせたりするが、それでわたしはいつも自分が集中しすぎてたことに気づかされたりして、笑わされてホッとするのだ。
わたしの守り神は本当にイタズラものだと思う。


今わかることはそれは全部わたしなのだということ。
わたしという存在はそのぐらい多様で奥深くて表情が豊かでいろんな面を持っている。

だからその資質は他者を愛することができる。
わたしは誰かのお母さんのようにもお父さんのようにも、友だちのようにもイタズラな妖精のようにもなれる。

いろんな顔を持って愛することができるし、そうしたいと思った時にはそうしていいのだ。


文節区切りの線

大切なことはそれをわたしが選べる、ということ。

そうしたいと思ったら、という枕詞がつく。
そうしたくなかったらわたしはそこを立ち去ってもいい。
ひとりになりたいときにはひとりで過ごすこともいい。
誰かと遊びたかったら遊んだっていい。

自分で解決するのか誰かの助け舟を打診するのか、それをわたしが選んでいいんだっていうこと。


世界には相当な数の人が生きている。
全員と出会うことは到底できないぐらい。
わたしもそのなかのひとり。

だからわたしはわたしのことをするので精一杯。
それが自然なあり方なのだからそれでよい。
他者を引き受ける責任はわたしにはないし、そもそも不可能なことなのだ。


文節区切りの線

そしてわたしにそんなたくさんの表情を教えてくれたのは、これまで出会ってきたたくさんの人すべて。
お父さん、お母さん、妹、弟、友だち、先生。
自分が新しく作った家族。

大人になってから頼ったセラピスト、心理学の先生。
旅先で出会った親切にしてくれた人。
仕事や生活の中で出会うひとびと。
飼っていたワンコもうさぎも猫も鳥や亀やお魚たちも。

わたしは自分が人と対峙するときになにが起こるのかがわかったと思う。


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今わたしは友だちに甘えられる。
困ったら助けてと言える。
寂しい時は一緒にいてと言える。
モヤモヤしたら話を聞いてと言える。

本を読んで落ち着いたり、文字を書いて吐き出したり、仲間とつながったり、時にはひとりごとで不満をこぼしたり、よくわからないエネルギーには歩いてみたり、揺すったり揺らしたり寝転がったり、いろいろな方法で自分を癒すことができると知っている。


文節区切りの線

初めてこの WORKSHOP に出た時、バウンダリーの感覚を人から教えてもらうことはできないという言葉に、知ってわかってる気がしてたけど戸惑った。
ええ〜そんなのすぐに教えて欲しいのに、すぐにできるようになりたいのにと思って戸惑った。

自助グループでなら自分なりに理解した神という表現が出てくる。
自分なりに理解する、それが自分を掴むということなのだ。


バウンダリーとは自分のことなのだ。
だから自分でしか見つけられないし、それはとても神聖な仕事でもある。
そして1日で終わることでも完成することとも違う。


文節区切りの線

今のわたしにとっては「感じる=生きる」になること。

だから迷ったり落ち込んだりくよくよしたりすることも含まれてる。
それでいいんだと思う。

まだ自信があるわけじゃない。
全然ない。
揺るぎない自分があるわけでもない。
けど転げ落ちるなら落ちてゆく自分とずっと一緒にいようと思っている。

どこまででも一緒に行こうと思っている。

今できることを、しようと思っている。




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T. M. さん(40代以上/石川県よりご参加) こるですクラス



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ワークショップ・クラスが終わった次の日から、私は本当の「考える」を何度も実践しました。

「考える」ってなんて体力のいることだろう、と驚いています。
実際に体力を使うことなのか、それとも、私が今までの人生で、本当に「考えた」ことがなくて不慣れなだけなのか…。とにかく「考える」と、どっと疲れます。


文節区切りの線

この1週間、何度も「考える」を通じて自分と対話していくうち、私はあることを感じるようになりました。
今、対話している「本当の私」は、なんと力強さのある人なのだろう。

どっしりとした落ち着きがあって、激しくはないけど、情熱に満ちている。
そして、何をしたいのか、何に重心をおきたいのか、これからどうしたいのか、とてもよくわかっている。


普段の私、それを「上っ面の私」と表現すると、上っ面の私はとても好奇心旺盛で、いろんなことに手を出したがります。
上っ面の私は、「○○をやる」と一度口にすると、それを撤回するのがとても苦手です。

後になって「あまりやりたくなかったのかも…」と気づいても、「今さら、やりたくないとか言いづらいし…」とか「こうすれば楽しくなるかも」と考えを巡らせ、何とか頑張って実行しようとします。


でも、自分と対話して「考える」と、そんな思いは一蹴されます。

「それには重心をおかなくていい」
「最初にやってみたいと思ったこと、それを先にやろう。調べるうちにでてきた派生的なことは後回しでOK」
「無理をしてまで、頑張るのはやめなさい」
何の迷いもなく、上っ面の私にずばっと言ってきます。

きちんと考えれば、自分はどうしたいのか、私はきちんとわかっているのです。


文節区切りの線

私は、今回のワークショップを受ける前に、目標をたてていました。
それは、「私自身が、私との約束事を破ること」について原因を知り、それをなくしていくことでした。
私自身が、自分の境界線を破ることが頻発していたのです。


私は、それには「方法がある」と思っていました。
でも、ワークショップを受けてわかったことは、「方法がある」という考え自体が違っていたということです。


「境界線がない=自分がない」

「境界線ワークショップ」で何度もこの言葉を教えていただきましたが、今回はこの言葉に衝撃を覚えました。


文節区切りの線

最近の私はおぼろげながら、私の夢、行きたい先のようなものが見えつつありました。ただそれはまだ、とてもぼんやりとしていて、よく見えてはいない。だから、ひとつひとつの判断が、私の本当の夢や希望に沿わないのです。

そして、何かを決めるときに、おぼろげながら感じる夢や希望ではなく、そのときの自分の感情や状況に合わせて決めてしまうことも原因です。
これは私の悪い習慣です。


私が私を知り、その想いに忠実に動けば、私自身が私の境界線を破ることなど起こりえないのです。
私ができることは「破らない方法」ではなく、ぼんやりと見えつつある境界線を、これからも積み上げていくことでした。


文節区切りの線

回復をはじめて数年たちますが、点と点がつながる瞬間が増えてきました。
点と点がつながると、不思議と安心を感じるようになりました。

目の前のモヤモヤと原因が一致すれば、あとはそれをつぶしていけばよい、とわかるようになったからです。


今の私が練習するのは、
「自己対話を続けて、私という人と夢を、くっきりとさせていくこと」
「判断するときは、感情や状況で決めるのではなく、『私』と『私の夢』を基準に決めること」
の2つです。


私は今回のワークショップを通じて、「考える」ことを、その方法と一緒に学びました。

「考える」ことで知った本来の私は、落ち着きと力強さを持っていました。
私はそのことに、大きな安心と喜びを感じています。

また、新たな一歩を踏み出すことができました。
優月さん、当日ご一緒したお仲間の皆さま、今回もありがとうございました。




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S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) こるですクラス



タイトル下の線


今回の WORKSHOP で強く心に残ったことは、処世術と性格は別物であるという言葉。今まで何度も聞いていたはずだけど、今回は密かに強く衝撃を受けていた。
そして私は、今でも私の元々の性格について、まるで解ってあげられていないのだと、茫然となった。

なんてこと…。
生まれた時から植え付けられた、私の役割や、自分のことを知らないが故の行動だけで、私はこうだと判断してた。そして徐々に苦しくなるパターンを繰り返していた。私は、私のことなんかちっとも理解出来ていなかった。自分のことなのに。


文節区切りの線

私は、本来の私を知りたいと思った。その上で、私を生きてみたい。いけるのだろうか。
私は私と、もっとつながりたい。

元々の私は、一体何を考えて、どんな人生を歩みたいと思っていたのだろう? いるのだろう?
何が好きで、何をやってみたいのだろう?
今、私は自分にしてることは好きなこと? 合ってること?


考え出すと、止まらないし、健康な人たちはこんなことを生まれた時からずっと考え、与えられて生きていたのかと改めて思うと、言葉には出来ない気持ちになる。
本当に、胸のあたりをわしずかみにされたような、足元をすくわれてフリーズしてしまうようなそんな感覚になる。

それでもそんな人たちと同じ世界で生きていかないと、いけない現実。
どこまで頑張れば、いいのだろう。何なの、この不条理。そんなことを考えてしまう。


文節区切りの線

そして、そんな時のチェアワークなんだとも思った。
最近の私は、チェアワークしながら、ぼろぼろぼろぼろ泣いている。

これから何度となくこんな気持ちが襲ってくるのかな。それは嫌だな。でも見なかった、感じなかったことにするのは、もっと嫌だな。
そんなことを思った。

ご一緒してくださった皆様
今回もありがとうございました。
また、どこかでお会い出来たら嬉しいです!




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C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) こるですクラス



タイトル下の線


私へ

今回もお疲れさま。
毎回毎回、よくしがみついているね。
私はワークを離れると自分へのストロークを忘れがちだから、今ここで伝えておくね。


「境界線」

書いてしまえばたった1つの言葉を理解し出来るようになるために、私はどれだけの時間とエネルギーをかけてきただろう?
その度に何かが分かって出来たつもりになるけれど、毎回違う角度から話を聞くと、そうじゃないってことが分かる。


文節区切りの線

境界線は、本当に難しい。
基礎の基礎ほどごまかしがきかないって本当だ。

「自分がない」=「境界線がない」⇒「だから、今目の前の人に認められようとする」(過去の処世術で)って、痛かった。
私は前より自分が分かって来たと思っていたし、自分で何か考え行動していると思い込んでしまいがちだけれど、「反応」ばかりだったかもしれない。


今まで TEG は何度もやったけれど、不思議なことに結果は毎回微妙に違う。

そして、今回の結果が、もしかしたら「私」に1番近かったのかもしれない。
私は、大体いつも突出している項目はないから、そんなに大変じゃなかったのかもしれないと思う所があったけれど、色々な役割をまんべんなくこなしてきたということかもしれない。
何となく思い出したけれど、私は変化していくニーズに必死に応え続けてきた気がする。


文節区切りの線

今回1番高かったA(うそっこ大人)には、私は今もしばられている?

私は「大人ならこうすべき」と考えることが多い気がするけれど(そして、正直な欲求を押さえつけているかもしれない)、その「大人」は、もしかしたら過去に思い込んだ「大人像=想像上の理想の大人」なのかもしれない。
そして、理想の大人じゃないから、自分を認められないってなっていないだろうか?


こんなこと書くつもりじゃなかったのに、書いていたら出てきてしまった。
他にも感じたこと・学んだことは沢山あるけれど、必要な時間をかけてまとめていこうね。


1つ確かなのは、境界線を持つためには、実際の練習と行動が必要だということ。
私は、過去の焼き直し(私は、ワークでも日常でも、過去のポジションになっていた)ではなく、「今ここ」「今の意見」で決めていけるようになりたいから、「分かったつもり」ではなく「出来るまで」練習していこう。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

「その状況も気持ちも、"体験して" "知っている"」
詳しい略歴は、私たちの想い | 運営者情報からもお読みいただけます。