2022.07月開催 「身体のワークショップ」あぽろクラス

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A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) あぽろクラス



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私は他人には絶対言わないこと、取らない態度を自分にし続けていました。

「なんで出来ないの?」
「もっと頑張れ」
「こんなんじゃ全然ダメ」
「だからダメなのよ」
「馬鹿じゃないの」

他にもたくさんの言葉を自分へ言っていました。

なので私はミラーワークで自分に謝るのが怖かったです。
私はこんなにひどいことを言ったのに、今更謝るなんて都合が良すぎると思っていました。

けれどミラーワークを続けても、私は誰からも責められなかったです。
もう1人の私は怖いことも、酷いこともしてきませんでした。

私は自分に今までのように酷いことを言わなくても良いのだとわかってきました。


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そもそも私は自分の不快感を取り除くという発想がありませんでした。

私は身体に不調があっても、無視していました。
私にとって肌や胃腸が悪いのはわずらわしいことで、その時動くために最低限の対処しかしませんでした。

私は身体の不調や苦しさの解消方法を、他人のために尽くすこと、食べることだと思ってきました。
その方法は私の親から学んだことでした。


私はとても歪んだ認知のまま生きていて、間違った解決方法をとっていました。
私は自分の不快感を取り除き、自分を優先して良いと自分に刷り込んでいきたいです。




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Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加) あぽろクラス



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私は、私に戻ると安心、落ち着く。
私はこれでいいんだと体験できた。
そのことが、私がこのワークショップで受け取った、最大のこと。

私は、24時間365日、私をいじめていた。
私は、見えないからといって、私に容赦なくひどい言葉をぶつけ、雑に扱っていた。
私はそのことに、さして疑問も持たなかった。
私は、呼吸するくらい自然に、当たり前に自分をいじめていた。


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私はミラーワークで、そのひどさを痛感した。
私は「ごめんなさい」の一言ではとても済まないような、ひどいことを何十年も私にしてきた。
私はこんなことをしていて、生きてて楽しいとか、自分が好きだなんて、思えるはずなかった。

でも私はこのワークショップでミラーワーク、チェアワークをして、「私でいるって心地いい、落ち着く」と感じられた。
私は、驚いた。
私は一体どれだけよそみをして、見当違いのものばかり必死で追いかけていたんだろう。
普段の私のしていることのズレを、まざまざと感じた。

私は、チェアワークを日々の中でやっていても、うまくいかないことが多くて、イライラしていた。
私は、私に対して「さっさとやれよ」「答えを見つけろよ」など、乱暴な態度でやっていた。

私は、体をほぐすことも乱雑に、「うまくやれよ」という姿勢でやっていただけだった。
だから私は、チェアワークをやっても、形だけで、なにもうまくいかなかったんだ。

「チェアワークは、私にもどること」
ワークショップ・クラス中にこのことを聞いて、そうか、と私は思った。
私に欠けていたのは、私へのいたわり、私への信頼、やさしさだった。


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食事、睡眠、運動を、私に十分に与えること。
私にやさしく接すること。
私の感覚に頼ること。
私を大切な存在として、扱うこと。

当たり前すぎて、雑誌の特集にすらあがらないようなこと。
「そんなこと?」とすら、思える。
でも私は、その「そんなこと?」とばかにしていることほど、実際には何ひとつやってなかった。

私は、それを「知らなかった」のも大きい。
私のつまづきは、そこだった。


私はこの、小さくてささいに思えることこそ、きちんとやろう。
「ナチュラルライフ」とか「最新の栄養科学」とかの方向ではなくて、もっと基本で、ごくごく素朴なこと。

それを私は、手帳にもメモして、実際にやろう。
私と、私の身体と、日々対話し、相談しながら、やっていこう。


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私は、このワークショップの前からも教えてもらっている「身体=感情(心)」がどうしてもわからなかった。
でもこのワークショップで、私は「わかった」。

わかってしまった今となっては、私が私の身体をないがしろにしておいて、心が満たされるなんてありえないなと思う。
そして私は、私の身体感覚、その快やペースをつかむことなく、どれだけ必死にワークをしても、私にはあまり意味がないんだとわかった。

だってそこに「私」がいないから。
私は「私不在」のままで、人生をなんとか決めようと必死だったけど、そんなのできるわけなかった。

私は、ようやくそのことが腑に落ちた。
私は、本当にうれしい。
私の欲しかったものは、これだった。


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ワークショップ・クラスの後、私は「休息」を充実させたくて、リネンのルームウェアを買った。
私は、それを着たら、私の身体がほっとゆるまるのを感じた。


私の快・ニーズは、こんなにも簡単に感じられるんだ。
それは私の全身と心がダイレクトに教えてくれる。

その感覚に、ごまかしはない。
私は、長い間、他人の感情やニーズを必死で読もうとしてきたけど、そんな難しいことはもうやめて、私の感覚や快をキャッチしていけばいい。

ひとつ見つかった。そうすればまた、そこから次もつながってゆく。
その連続で、私は選択し、私を満たしていけばいい。
それが私の生きる方向なんだ。


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はじめて、私は「私でいることは心地いい、落ち着く」と感じられた。
ようやく私は、「今ここ」に「私」が存在しはじめた。

長い時間がかかったけど、今こうなれたから、私はそれでいい。
私はこの感覚を、これからの日々でも味わっていきたい。


優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
ありがとうございました!




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) あぽろクラス



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私は今回、「感情ワークショップ」と「身体のワークショップ」に初めて参加した。

私は今、自分の身体を、自分自身を、もっと信頼したいと感じている。
私は、自分の身体からのサインを受けとり、それに適した行動を具体的にとっていきたい。


私は、感情と同様に、「身体のサイン」も無視をしたりまともに取り合わなかったり、ということをしていた。
私は、身体という「形」のあるものに対して、「気合い」で何とかしようとしていた。

ワークショップで学んでみると、それはとてもおかしいことなのだ、とよく分かる。
でも私は、無意識のままならば、身体の不調を感じる自分に対して「気合いが足りない」とか「ガマンして」という言葉を浴びせてしまう。


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自分が自分に受けとめられないというのは、とても苦しい。
それでは私は、「自分の味方でありたい」とか「自分を大切にしたい」と口では言いながらも、行動が伴っていないということになる。

私はそのような私のことを信じられなくなる。
身体のサインが適切に受けとめられ、原因が取り除かれるならば、私は「心地よさ」を得て安心できると思う。


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私は、初めて「ミラーワーク」を経験した。
私は「私」と対面した。

ずっとずっと一緒にいて、身近な存在のはずなのに、ずいぶん久しぶりに会ったような心地がした。
私は自分と対話をしているつもりだったが、この「私」のことを、見ていなかったかもしれない。

私は、自分の目を見ることも、名前を呼ぶことも、とても難しくて居心地が悪いと感じた。
それがいまの私の、自分自身との関係なのだと思う。

そのあとに行ったチェアワークも、とても静かで心地よく、私は「私」の存在をたしかに感じることができた。
目に見えないけれどあたたかくてどっしりしているような、とても不思議な感覚だった。


私は「私」に、ごめんなさいとありがとうを、たくさん伝えていく必要がある。
私はこの「私」と、もっともっと一緒にいたい。
私は「私」との関係を取り戻したい。

それは私が本当に生きていくことにつながっていくと思う。
私は、そのための行動を起こしていこうと思う。

優月さん、ご一緒した皆さま、ありがとうございました。




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A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) あぽろクラス



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もう1人の自分に、「私があなたを一生幸せにしていくから」と言うセリフは、まるでプロポーズのようだと感じた。
ああ、認識が違ったんだな、と思う。結婚相手にこれを求めるのではなくて、私が私にこれを言って、現実に実行しなければならなかったんだ。


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優月さんがご自身の病気を自分で調べて適切な行動に移して治したということに驚きました。私の仕事の経験上、そう簡単に治るものではないという認識だったのです。

よく考えれば当たり前ですよね。
私はかつて、治らない人が集まる場所で働いていたのだから、そういう人しか見てこなかったというだけのこと。

賢い人は自分で考えて自分で行動して治している。
そういう人は私のところに来なかったから、知りもしなかった。
また一つ、世界が広がり、膠着した自分の考えや世界から離れられるエピソードでした。


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ワークショップ・クラスの前の週あたりから、私は少し便秘気味だった。
当日も、身体の悩みとしてそのことを書き出してチェアワークも行った。

便秘は食事(サプリも含む)と生活リズムと運動がメインの治療だと思っていたので、身体のサインの項目にある便秘の内容も、ちょっと懐疑的に聞いていた。

しかし、ワークショップ・クラスの翌朝、今まで溜まっていたものがすっきりと出たのである。
本当に関係あったのか! と驚いた。


チェアワークを通して、自分の必要なことは自分が一番与えることができるということを知り、だからこそ必要でないものは手放してもいいとわかり、私は安心したのかもしれない。

ワークショップ・クラス後1週間、忙しく過ごしてチェアワークを怠りがちだった。
自分にも声をかけていない。

するとまた便秘になってきた。身体はちゃんとメッセージを放っているようだ。
声をかけよう。認めよう。仲良くなろう。声を聞こう。チェアワーク!


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今週のある日、朝食を食べずに朝の子どもの送りをしたら、イライラしやすく、私の方の感情のセーブができなくなって泣いて怒ってしまった。
身体と感情は直結しているとダイレクトに感じる経験だった。自分の身体を整えることが何より重要だと感じた。空腹は、よくない。


今週はヨガの先生に断食について教わる機会も設けていた。
「メインで断食を行う日については、運動はせず、外出もしないように」と言われ、そうか! と納得した。

修行や治療の一環として行われる断食は、「食を断つこと」それ自体に集中してこそ効果が得られるものなのだ。

逆に言えば、運動したり働いたりしながら食べないというのは無理なことだし、断食をするならそれだけに集中しなければいけないくらいの負担を生じうるということなのだ。
しかも、それですら固形物の食事を断つことがメインで、流動で刺激がなく酵素の入ったもの(白湯やスムージー)は摂取して良い。

だから、「仕事で忙しいから朝食抜き、飲水もできない」は断食ではなくただの自傷行為だということ。
「朝食抜きで時短と断食が兼ねられる」などと軽く考えていた私は恥ずかしくなった。
(夫がまさにこう考えていたわけだが…)
身体のためにまた知識を積極的に仕入れた自分を讃えたい。


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Yahoo 天気の熱中症アラートの通知がきていた。
日中の外出は控えるようにとのことだった。

しかし、私は、今日はそこまで酷暑だとは思わなかった。湿度も低く、風もある。14時台に普通に散歩ができた。アラートが来ていない日で、今日よりよほど過ごしにくい日もあったはずなのだが。

私の感じた体感温度が、私にとって正しい。そういう風に方法を選びたい。
そうできたこと(アラートの言うとおりにしなかったこと)がすごく嬉しい。


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今週、子どもを皮膚科に受診させるときに、散歩を兼ねて徒歩で行った。
薬の調剤を待っている間に、姉の家に用があったので、それも歩いて行った。

そうしたら、子どもが途中で疲れてしまって動けなくなった。むりやり引っ張って帰って、親子ともどもくたびれきってしまった。
「姉の家はちょっと行き過ぎじゃない? 大人でもちょっと疲れる距離だよ」と賢い自分が片隅で言っていたような気がしたのだが、「いやいける」で押し通した結果だ。

大人の「なんとかいける」は、一人でもやらないほうがいいが、子どもといるときはなおさら! やってはいけないなと身にしみた。

そのためにも、一人でいるときから「いけるをやめる」を練習しないといけない。
どうやるか? 
チェアワークだ。

子どもといるときにチェアワークはかなり難しい。
だから、「灯台の時間」で今日の予定を書き出して、チェアワークしてこれでいいと決めたら、それ以上の予定は入れない、というのが理想。これがなかなかできていない。
やりたい。やろう。


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今週は何回かアーシングを取り入れてみた。確かにすっきりする!
静電気が放出されるという理屈もあるのかもしれないし、そうでなくても自然の中で足をつけるって純粋に五感が満たされる感じがする。

足裏の刺激も、ツボ押しを兼ねている感じがあり、終わると足もすっきりしていた。
習慣にしたい。今年はワクワクリストに海に行くことも書いている。


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「『心』と『身体』の勉強会」を含め、自分でもコツコツ勉強・実践してきたおかげで、今年はあまり末端の冷えを感じない。
毎年、冷房の冷えが辛いと感じていたのだ。

外食をかなり減らし、食材の質にこだわってみたというだけでもこれだけ効果があるのかな。
サプリやエプソムソルトなど様々な取り組みの効果もあるかもしれない。

逆に、冷房が冷えるな、と感じる時は少し注意するようになった。
やや風邪気味だったりする。

冷え症は慢性症状で付き合っていくしかないものと思っていたけど、これも本当は身体のメッセージだったんだろうなと思う。
少しでも仲良くなれてよかった。




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/長野県よりご参加) あぽろクラス



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まだ小学生の頃の体格で、母の命を守ろうとわたしが身体中の勇気をふりしぼったとき、わたしの心はどこにも届かず、わたしの心は根元から折れた。

それは大きくて深い心の傷となってわたしの心に深く沈んでいった。
ショックで口をつぐんだままで。


今わたしは勇気を出して人を愛すると、温かいものが返ってくることを体験している。

何をどう取り戻していくのかさえわからない旅の中で、かき分けるようにして進んできて、今も上下左右がわからないけれど、それでも胸の冷ややかなところが温もりと入れ替わっていっている。
そんな気がする。


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あのとき何も言えなくなって沈んだわたしのことも、やっと見つけられるのかもしれない。
もし見つけられたら「あなたは間違っていなかったよ」と言える。
あなたがそうしたのは当然だったし、そして勇敢で愛に満ちていたよと。

足が熱くなるときわたしは自分が応援してくれているんだと思う。
太ももの太さは ONSA に初めてきた頃から半分ぐらいになった。
身体中に特に背中にあった痛みも随分と消えてきている。


わたしは労わることを覚えてきていて、よく自分の体をさするようになった。
鏡を見て優しく声をかけるようになった。

おはよう、今日はどんな気分? 疲れてるね?
何が食べたい? どんな休日にしたい?
聞いてもらったことのない質問をたくさんたくさん自分に投げかけている。


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ONSA にきた当初「わかってるつもり」だったわたしが今は「なんにもわかんないよどうしよう」を認められるようになってる。

わたしは今「わたしが知らないこと」をやろうとしている。
だから毎日が不安で、だから毎日ドキドキしているんだよね。


小さなわたしは、いろんなことをまだ知らなかった。

ひとはみんな自分と同じように感じ考えるのだと思っていた。
母や父の行動に、発する言葉に、自分なりの論理をあてはめて「自分で」それを「翻訳」して受け取った。

「わたしはいつかいなくならなくてはならない」
「わたしが生きているのは良くないこと」
「わたしは重荷」
「わたしはいないほうがいい」
「間違えるなら最初からやっちゃダメ」
「ちゃんとできないならここにいたらダメ」


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親はただ、「生きていた」。
わたしのことを、気まぐれに「強く気にかけていた」。

それは彼らにとっては「愛する」という行為だった?
そんなことってある?


わたしは全部誤った翻訳をして、わたしの中にインストールした。
そうでなければ「安全ではない」と判断したのだ。
毎回不意打ちの痛みを感じるぐらいなら、ずっとクサビを刺したままでいよう。
いつもいつも痛かったら、叩かれても大したことないから。

それは自分を守りたかったからだし、わたしはわたしを大好きだったから。
だから守りたかったんだよ。


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たとえそうだとしても…。

そんなひとと共に生きる時間は、どんなにどんなに怖かっただろうか?
二言目には
「あんたなんかいちゃいけないのよ!」
「早くいなくなりなさいよ!」
「間違ってんじゃないわよ!」
「消えて無くなれよ!」
そんな言葉を投げつけてくる人と一緒に生きることは、どんなにどんなに心細いことだっただろうか。


わたしはとてもじゃないけど、わたしに向ける顔がないのだ。
だから他人に逃げてしまう。

他人になら大好きと言える。
他人にならうんと優しくできる。
自分には?
素直になれっこないね。
これだけのことを平気でしてきて、今更好きだなんてとても言えない。


ごめんね。
本当にごめんね。
わたし知らなかった。
わたしわからなかった。
一番あなたを苦しめているということ。
守りたかった。
本当は守りたかった。
大好きだから。

なのにごめんね。


文節区切りの線

この世界では自分を助けられるのは自分だけ。
教えてもらえなかった、大切なルール。

わたしがからだで感じてることを他の人には絶対に知らせることができないから。
だから「どうしたの?」って聞くんだよ。


眠いとき、疲れてるとき、お腹が空いたとき、わたしは機嫌が悪くなるのだ。
それはわたしが「悪いもの」だからではない。
だけどわたしが機嫌が悪くなったとき、親はわたしを叩いたり無視したり暴言を吐いた。
わたしは自分の子どもを育てる時には「どうしたの?」と聞いて、温めたり、食べさせたり、抱っこしたり、寝かせたりしたのだ。


文節区切りの線

今わたしが自分自身に一番してあげなければならないことは、衣食住を心地よく満たすこと。
そして遊ぶこと。
それから愛することを許可すること。

食べ物だって注意深く選ぶ。
なぜなら食べたものに振り回されて機嫌を悪くするなんて、すごくもったいないから。


自分が相手にしたことがそのまま自分に返ってくる。
許せない自分を見せられたらわたしはそれを叩いてしまう。

そうすれば同じことが相手から返ってくる。
いたってシンプルなエネルギーの流れがあると思う。


わたしが自分を一番怖かったら、わたしは誰のことも信用できない。
それでも誰かを愛せたときわたしは、わたしのことを大切だと思えていたんじゃないかな。


誰かの胸に思い切り飛び込んで、命をかけて愛したとき、わたしはそのとき自分のことも命がけで愛したのじゃないかな。

あの人が返してくれたあのあったかい気持ちは、あのとき胸がとけるような気持ちがして、暖かくてじんとしてたまらなくなったときの感じは、それは受け取っていいものではないのか。
わたしがここにいてもいいと言う、そのことそのものだったのではないの?


文節区切りの線

不器用で上手く伝えれられない上に、自分がしてきたことの前でもっともっと素直になれなくなって、それでもわたしは、なんとかしてどうにかしてわたしに愛を伝えたかったの?
わたしにいてほしいよって言ってくれるの?

自分は思いが強すぎるから、わがままで攻撃的だから、妹を傷つけたように大切なものを傷つけてしまうから、父のように束縛するから支配するから、破壊してしまうから
「愛してはいけない」
「ここにいてはいけない」
「だからもうやめなくては、いなくならなくては」
そう思い込んでいるわたしに、そうやって自分を閉じ込めているわたしに、またここからいなくならなくてはいけないと自分をふうじこめようとするわたしに、あなたは言ったのだ。


文節区切りの線

もう一度してほしい。
あなたはここにいてほしい。
また優しくしてほしい。
何を考えているのかわからかったけど、たまらなく好きだったと。
それがあなたにとってとても軽いことだったとしても、わたしが何か思い切って与えることができたから、お返しにあなたがくれたんだね。

「自分のことを自分が好きになってはいけない」

みんな嘘だったらどうするの?
いつかその言葉はわたしを守ったように見えたかもしれない。
けどそれが思い過ごしでそんなこと本当になかったとしたら?

わたしは愛してもいいのだとしたら?
ここにいていいのだとしたら?
いつかいなくならなくてはいけないことなんかなかったら?

わたしがわたしのことを大好きでいることが、はしたないことでも恥ずかしいことでもなかったら?

愛すること、労わること、優しくすることが、強すぎて束縛になるから禁止しなくてもいいとしたら?

そのときわたしは、どう生きたいですか?

根気強く聞くから教えてください。


文節区切りの線

いろんな人がいろんなことを言うこの世界の中で、優しすぎるわたしの声はわたしがちゃんと聞くからね。

悩みも不安もまずは身体から。
無理はしなくていいし。
人に甘えてもいいし。

なによりもわたしは愛してもいいんだよ。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

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