2022.09月開催 「お金と自立のワークショップ」しゃるむクラス

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M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) しゃるむクラス



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ワークショップ・クラス当日、後半から身体の奥の方で感じていた「怖さ」。
それを引き続き感じている今週。

この「怖さ」、数年前にも感じたことを憶えている。
これ以上不健全なものに付き合うことで失うものに対する「怖さ」。
その時点での自分の健全さの身につけてなさに対する「怖さ」。
それを、今再びまた味わうことになるとは…。

自分の見えてなさと甘えで、こうなってることはわかる。
そして、今回は、経験がある分、この「怖さ」をどう使って繋げていけばよいかわかることが救い。
それでも、「これ…確かに、間に合わないぞ…」という「怖さ」も確かに感じている。


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わたしは、今までどこに立っていた? と思う。 間違いなく本来の本位制ではなかった所だったんだ。
立つところをまた間違えていた。

だから、どれほどうんうん考えても眺めてもあれこれやってみても、「なんか違う…なんか変…」があったのだと、今ならわかる。

とても厳しく言ってしまえば(もちろん自分への思いやりを込めて)、違う本位制の上でたとえお金の使い方が上手くなっても、根本的には変わらないんだと気づく。
全粒粉って小麦なの? というのと同じことを今味わってる。


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「お金はただの紙切れに過ぎない」、いろんなところでいろんな言葉で、今までだって、たくさん見聞きしてきた。

いや、そうは言ってもさ、わかるけどさ、スナフキンじゃないからさ。と思っていた(念のため、スナフキンは、あくまで個人的なイメージ)。
これも、立つところを間違えていたから。と今は思う。

「知ってて」「参加する」のと、スナフキンじゃないからさ。と言ってるのと、全然違う。
やっぱり、ワークショップの優月ゼミは、深さの広がり具合が違う。

わたしは、立つところを間違えていた。
それは、甘えも関係してる。

お昼休みに街を歩いた。ほんとに「竜宮城」に見えた。街を歩く人たちは、「そこで遊んでいる人たち」のように見えた。グラッとした。
わたしは、そこにいたんだ。とはっきりわかった。
これは、間に合わないぞ。再びまた思う。


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「お金と自立」、これが自分の前にモニュメントのようにそびえ建ってるように感じている。
わたしは、「わたし個人」でどれだけ立てる? 本来の本位制のところで、どれだけ立てる? これは、ほんとに「怖い」。わたしは何を持ってる? 止めて、聞かないで、とも思う。

また「下がってる」のを感じる。2歩進んで3歩下がる以前の、下がり方。調子乗ってた分の当たり前の下がり方してる。
でも、これは、悪くはないと思う。世情ももはや違う。
そして、世情がなくとも、人として間違えてはいけなかったところだったんだと思う。


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右腕には、あの言葉を。と思う。
わたしには、もう一本腕がある。それなら、
「わたしは、共依存出身。」と刻みたいと思う。

この両腕で完成。「律する、律さなければ、貧乏になる、命がなくなる」に繋がる。

ワークショップ中にあった女優さんのお話のように、これは、認めて受け入れてから、初めて始まると思う。
それなしにスキルだけでは、自分を置いていってしまうんだとまたわかった。

同じ言葉を刻む仲間がいるから、また進もうと思います。
ひと休みして、ね。


今回も実りすぎる、秋開催 ONSA WORKSHOP(対面式)でした。
何が実ったか、「重み」と「甘さ」。

良薬は口に苦し、ちゃんと食べて反省します。
そうしたら、「わたしは何を持ってるか。」に落ち着いて考えられそうです。
スナフキンの名言も違う角度で考えられそうです。
ありがとうございました。




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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) しゃるむクラス



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わたしへ

まずはお疲れさまでした。
正直まだ頭がパンパンですね。
ワークショップを受けるたびに自分のこととして少しずつ深く刺さってくるようになってきました。

だからこそのパンパンなのだと思います。
ゆっくり消化していこう。
そして、自分のこととして「トライ&エラー」していきましょう。


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私は今回の「お金と自立のワークショップ」を受けるのは3回目でした。
それでもまだ私は「自立」に関してどこかで「仕事をしてお金を稼ぐことができれば自立」だと思っていました。

実際はそれだけではなく「精神的自立がなければそれは自立ではない」ということをワークショップを受けて思い出しました(むしろ「精神的自立」の方が大切でした)。


いくらお金を稼いだとしても「自分がどう生きたいか?」がわからなければ、そのお金も時間も他人に使ってしまう。
自分のためには使えない。

自分のこととして当てはめると過去の私は本当にそのものでした。
私は両親と長い間共依存関係にあり、「本当は自分がどう生きたいか?」「本当は自分がどうしたいのか?」ということがわかりませんでした。

私はずっと「自分がどう生きたいのか?」がなかったから、お金を稼いでも本当の意味で「自分のため」に使ったことはほとんどありませんでした。


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そして、それは「時間」についても同じでした。
私が「両親」を含む「他人」のために使った時間は膨大でした。

その「奪われた時間」は本当は「自分のために使えた時間」「自分のために稼げた時間」「自分のために学べた時間」「自分のために経験を積むことが出来た時間」でした。
私は「自分のために投資できたはずの莫大な時間とお金」を奪われたのです。


私は今までこのことについてぼんやりとしか感じることが出来ませんでした。
今回はそれが本当に自分の身に起きたことなのだと感じ、ものすごく衝撃を受けました。

いろいろな過去の出来事が思い浮かび怒り(実際は怒りだけでは表現しきれないもの)が込み上げました。


私は「自分が失ったものの大きさ」をようやく自分のこととして感じることが出来始めたのだと思います。
それでも、まだすべてを感じることは出来ていないと思います。

私は、ワークショップへの参加を続けることでこれからも少しずつでも気づきを深くしていけたらと思います。


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また、「BE(自分のため)の消費」でも衝撃がありました。
私は「自分を大切にするための消費、守るための消費」は「BEの消費」だと思っていました。

でも、実際はそもそも「その消費」をすることになったのは「私がよく考えず最終的に他人重心の考えで取った行動」が招いた結果に対する消費でした。

確かに自分を大切にする、守る消費だけれど、もともと私がその「他人重心の選択」をしていなければその時間もお金も使う必要のなかったものでした。
私は、もっとよく考えていればこの時間もお金も純粋に自分のために使えた…。

私は「自分のために動けているな。成長したな…」などと思っていたので優月さんから指摘されたときは本当にショックでした。
私はおそらくこういうところでも滑りやすいので、やはり ONSA につながりながら気を引き締めていきたいと思いました。


私は今回のワークショップも盛り沢山過ぎてまだ消化しきれていないことも多いですが、新たに気づけたことも多かったのでここからまた自分の時間とお金の使い方について意識して観察していこうと思いました。

ありがとうございました。




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Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加) しゃるむクラス



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私は「自立」の問題がとても重くのしかかっていて、それを解決したくて、このワークショップに参加した。
参加して私は、自分が思っている「自立問題の解決」はまたもや「一発逆転」の発想だったと気づいた。

私がするべきは、正しくて立派で、大きなことではない。
私は、足元の練習をちゃんとやることが何より必要だ。


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時間もお金も、物理的に、はっきりと「見える」。
私の時間とお金の使い方と、その結果(私の人生に及ぼすもの)をごまかさずに見せてくれる。

私はその、感覚でも気のせいでもない、とても具体的で現実的なものをもとにして自分を振り返り、改善していく。
私はそれをもっと頼りにし、活用すればいい。


私は共依存の生き方しか知らなくて、私の時間・お金を他人に注いで終わりにしてきた。
しかもそれが「搾取された、盗られた」だけでも相当の損害で、私は悔しいのに、それが「どうでもいいこと」にじゃぶじゃぶ使われて消えていったこと。
そのことを指摘してもらって、私はますます、自分のしでかしたことの大きさを痛感した。

盗られた上に、私にとって何の価値も感じないようなことに使われた。
それで状況が何かしら解決・進歩したならまだよかったものの、そんなことは1ミリもなかった。
私は、本当に何をしてたんだ…。
私が、自分の人生なのに愛着を感じないのは当然だと思った。


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私は、自己否定はすごくするのに、肝心な反省をしてなかった。
時間を他人にあげたことについて、自分を責めまくるのに、「これはこういうことだ」「だからやめよう」といった、建設的な反省を何もしてなかった。

それは「いやなものはもう見たくない」「くさいものにはフタ」「自分の汚点や失敗は認めたくない」という、私の悪いクセ。

でも「見なかった」からって、「なかった」ことにはならない。
現実として、今の私の人生に、しっかりと「負債」として積み重なっている。
しかも改善せず放置した時間の分だけ利子もついて、どんどん重たくなっている。


私は、ただ自分を痛めつけるだけの自己否定を、まず「やめる」。
そして私は、落ち着いて私のこと・行動を観察する。

その結果が失敗やうまくいってないところは、そのまま「認める」。
ただ認めて、「次はどうしたらいいだろう」と考え、試してゆく。
私はそっちの道を選ぶ。


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私は「BEの消費」も、ついメディアが吹聴してくるような娯楽に引っ張られてしまう。
今回の話を聞いて、私はつくづくそう思った。

私は、本質を何も見てないし、見ようともせず、甘い水の方にフラフラと自己放棄して依存してただけ。
私はそれも、自分で決意してやめないといけない。


最近、自分の体調や世の中の変化を体験するなかで、私は、これまでの人生観とのギャップを感じるものが増えた。
最初、それは「私はあれもこれもできなくなってしまった」という、我慢のニュアンスに感じられた。
でも少しずつ、そうじゃないのかもと思うことが増えた。

私はあれやこれが「楽しい」「快」だと思ってたけど、本当にそうなのかな?
そう思い込んでただけで、世の中が「これが楽しいよ」と言ってるだけで、それって私の価値観や好みと何も関係がないのかもしれない。

そう感じることが、私には増えた。
とてもささいなことだけど、こういうところをないがしろにせず、丁寧に掘り下げていくことも、私を知ることになる気がする。


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私が、私の価値観を探っていくこと。
「私はこれがいい」と思ったら、それでいいのだと肯定すること。
私と他人の間に境界線を引くこと、それはあっていいと理解すること(周りと同じ=いいということじゃない)。

娯楽や気晴らしをゼロにする必要はないけど、それよりも「自分を安全に守ること」の重要性について考え、もっと身に染みて理解していくこと。
私には、まだまだやることがたくさんある。


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私は、このワークショップに参加する前、時間もお金もめちゃめちゃな状態になっていた。
仕方ない要素もあったけど、半分以上は、私の「まぁいっか」という悪いクセで、ズルズルさせてしまっていた。

私はそこから立て直すため、小さく目標を立て、小さく、でも確実に練習をしていく。
私は「目標も立てられない」と悲しくなったけど、それも「立派なものを一発で」という発想だったからだと気づいた。

そうじゃなく、目標は「今のベスト」「今の仮説」でもいい。
それでもいいから私はとにかく立てて、やってみる。

立てて、やれば、フィードバックが得られるから、それを次に活かす。
私に必要なのは、そういう地道なことだとわかった。


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私は自分の甘さや経験・スキルの乏しさが本当に悲しいし、情けない。
でも私は、それを「見ないフリ」せず、ちゃんと直視させてもらえるワークショップに参加できて、本当によかったです。


ワークショップ・クラス後の1週間、私はできるだけ、チェアワークを練習しました。
私は、できたら手帳に印をつけ「これだけできた」と自分を認めることもできた。
練習も「目に見える形」にすると、私は私を励ますことができる。


また、私はお金を使う時も、改めて「BEかどうか」を意識するようになった。
BEだと感じながら払うのは、納得があっていいと私は思った。

私は、自己肯定感がしっかりする感覚があった。
引き続きやり続け、私は習慣にしたい。


優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
今回もありがとうございました。




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A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) しゃるむクラス



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ワークショップ・クラス中は皆さんがいて、孤独感がなかったので私は大きく感情が揺れずに受講していることができました。
しかしその後、現実とのギャップ、周囲との意識の落差、リアルの世界でこの話題を共有できる人がいない孤独感、事の重大さに押し潰されそうになり、当日は眠れぬ夜を過ごしました。

私はあまり後悔をする方ではないのですが、今回初めて、「人生回復のタイミングがもっと早ければ」とくよくよしてしまいました。ノックのタイミングは、思い返せばたくさんあった。

この3連休は、夫が子どもを連れ出してくれたので、5年ぶりに1人で家で過ごし、1人だとこんなに自由にできることがたくさんあったのかと驚きました。
だからこそ、たとえば学生時代、あるいは独身時代、せめて妊娠する前に始めていたら、人生回復にも、勉強にも、夢にも、たくさんの時間が使えたのに、と悔しい気持ちでいっぱいです。


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はっきりと、今、私は、勉強が追いついていない。
Web. WORKSHOP で「自分のライフスキルが、現実に背負っている状況に追いつかなくなる」と読んだときに、最初はピンと来なかった。

だって、そこまで経済的に困窮しているわけではないし、稼ごうと思えば稼げるだろうし、生活は営めている。

いや違った。自立ってそこじゃない。
自立とは、「平和で守られてるっぽい日本」の中で表面上の生活をやりくりできることではない。

だってそれは、「この日本に自分が依存していること」を前提としてるじゃない。
それだけでは、有事の時にはあっという間に日常は崩れ去る。


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「自分のライフスキルが、現実に背負っている状況に追いつかなくなる」…今ははっきりと、そうなっている自分がよくわかります。
自分1人ですら、守り切れるだけのライフスキルを持ち合わせていなかった。

本意でない誘いや依頼を断り時間を守ること、自分がどう生きたいかを考える時間を持つこと、自分を守るための勉強をする時間を捻出すること、どういう優先順位で勉強を進めていくかを決めていくこと、実際に行動に移すこと。

これらがここまで重要なスキルだと、思ってこなかったのだ。
その時その時の、なんとなく良さそうな選択肢を選んできてしまった。


脆弱なライフスキルのままで、見栄えのする外側の現実だけは進めてしまった。
仕事、結婚、2回の出産…。
結婚までは、まだ引き返せる。大人同士の契約だから、もちろん簡単ではないけど、数年単位でおそらく別の道を選ぶことができる。

子どもに対する責任となると、一気に別次元で、ここに100倍くらいの開きを感じる。
なにしろ命に対する責任だ。
私はこの責任を、今後20年近く負うことになる。

自分1人守れない人間が、2人の子どもを守っていくということ。
この重さを今回改めて感じ、潰されそうな気持ちになっています。


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ここで、「だから、投げる」「だから、諦める」「だから、楽になりたい、思考停止状態に戻りたい」とは、私はしたくない。それはまた0か100だから。
多分、100は無理だけど、まずは40くらいならいけるかもしれない。

とにかく手帳のまいにちリストに時間を確保する。
「書いてみたけどできなかった」という失敗を恐れない。

「書かない空白」に幻想を抱かない。
できなかったら、また書く。それでいい。試行錯誤を自分に許したい。


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お金の見直しをワークショップ中にして、まだ私は「自分のための出資」というものに混乱があるなと感じた。
いったいどれがそれに当たるのか、わからなくなってしまった。

自分を楽しくしてくれるもの、娯楽、「興味がある分野で、読んだら仕事の役にも立ちそうだな」という教科書(買ってから読んでない)。
これらも含めていたが、それは私の人生を守るものなのか? と問われると、なんだか違う気もしてきた。


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お話を聞いていて、英語の勉強に興味が湧いてきた。
私の英語は大学受験がピークで、それ以来は何もしていないに等しい。

「とりあえずやっといた方がいいんだろうな」くらいの気持ちで、学生時代に英会話サークルに足を運んだこともあったが、周りの英語堪能な同級生たちに全くついていけず、1回でやめた。

働き始めてから、学会発表や論文作成にあたり、英語論文を読むことはあった。
読むのは遅いけれども調べながらやればできる。ただそれも、やらなければいけないからやっているという形だった。


ただもし、私が生きたい人生であるところの「安全安心を感じながら、リラックスして生きたい」にそれが必要であるならば…と考えると、俄然やる気が変わってくる。

自分を守るための武器として役に立つならば、やってみてもいいかもしれない。
海外の情報に直接自分で当たることができたり、どこに行っても生きていけたりする力があれば、心強く、より安全を保つことができそうだ。

と、これはあくまで長期目標。「やってみたいかも」とふんわり浮かんだだけでも今は良しとする。
現実を見ると、今の私は、日本語の情報すら追いついていない。
となると、優先順位としては、まずは、速く読める日本語で、信頼できると感じる人の情報を得ていくことだ。
これが私の今ここの一歩目。


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日常に戻ってみて…。
本当に本当に、無意識のレベルで、私は他人のために時間を垂れ流していたのだと気づいた。

今週末に夫の誕生日がある。どう祝おうか、色々アイデアが出てくる。例年は高いプレゼントを渡していたが、今年は、私の収入に見合った、ささやかなものを贈ることにした。

夫は最近、睡眠を重視し始めて、ラベンダーのアロマを就寝前に嗅ぐという習慣を始めた。
私もアロマが好きなので、ちょっと嬉しい。ラベンダーと相性が良くて、リラックス効果のあるオレンジ・スイートを贈ることにした。これならブレンドできる。

夫が喜ぶかどうかはわからないけど、私はこれが贈りたいなと思った。けど、本当に「私が」思っているのか自信がなくて、チェアワークもした。
うん、これは贈りたい。大丈夫だった。

一つの決定に、これだけ時間がかかる。
決定していくのが、本当に大変。
でも、こうしないと、すぐに垂れ流してしまう。


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3連休の間に夫の実家からいただいたたくさんのお土産。食べきれないので、姉の家に渡しに行くことにした。これは、チェアワークする時間がなく急いで決めてしまった。

ぱぱっと渡しにいける予定が、長女も連れて行って居座ってしまったり、姉の話が長くなったり、長女がぐずったりして30分くらいかかってしまった。そしてイライラした。

なぜ、人にものを渡すのに、私が自分の時間を費やしているのだろう、と、気づいた。
これ、私の資源をただただ消費しているだけだ。

「いつもお世話になっているから」と何かと姉に渡すのが私の中で習慣になっていた。
でも、長女の面倒を見てもらった時の謝礼金は、時給換算して別途支払っているし、本来はそれだけでも十分だ。

食べきれないものを誰かに渡したいだけなら、家に来てもらっている他の人に渡したっていいはずだ。
それなら、私が移動して渡しに行くというタイムロスがなくなる。


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職場にお弁当を持っていくことが習慣になったので、ついに、ずっと欲しかったけど高いからと迷っていた曲げわっぱ弁当箱を購入した。
まず、昼休みに弁当を取り出すときのワクワク感。フォルムの美しさ。木の香り。
もう本当、好き。嬉しい。
今日はイワシの蒲焼き丼にしてみた。大好きな山椒もたくさん振りかけて、すごく美味しい。

また、電子レンジを使わずに温かい汁物が飲みたかったので、ステンレス魔法瓶の保温容器も購入。
豚汁を入れて、心も体も温まる。嬉しい。

ありがとう! と自分に声をかける。
そうそう、こういうことに、私はお金を使いたい。


自分の畑で採れたさつまいもを洗っているおじいちゃんを道端で見つけて、今までだったらただの風景として見ていただろうが、今はその「大地本位な生き方」がすごくいいな、羨ましいなと思った。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

「その状況も気持ちも、"体験して" "知っている"」
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