2021.01-04月開催 「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.1(前期日程)」むらさきクラス

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タイトルはじまり目印

S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) むらさきクラス



タイトル下の線


大切な自分へ

この3ヵ月を、もがきながらも真剣に過ごしたこと、本当によくやったと思う。
まだ寒さや雪が身近にあった1月に始まり、あっという間に3月が終わろうとするところ。

このように季節がめぐるあいだ、もし自分を掘り下げることをしていなかったら…と思うと、恐ろしい。
そして、それをやっていく、と決めた自分はとてもとても誇らしい。


文節区切りの線

少しずつ基礎的な知識を取り入れ、問いに答えることを通して、「共依存」、「機能不全家族」の問題が、本当に自分のことなのだ、という感覚が、より確かなものになってきたのを感じる。

自分の育った環境に、問題があったと考えるなんて…。
その気まずさや戸惑いも含めて、自分の感じることに、とにかく正直に真剣に向き合った時間。

知識を得ながら自分を見つめるなかで、とても怖い、恐ろしいと思うこともたくさんあった3ヵ月。
これからの道を思うとさらに怖いと感じることも出てきているけれど、もしこれらを知らずにいたら、と思うと…それはもっともっと怖いのかもしれない。


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日記を振り返ると、この3ヵ月のあいだだけでも、何度も同じようなことに悩まされているのがわかる。
他人の反応に大きく左右されたり、自分がこれを選んでもいいのかと疑ったり…。

新しく気づいたことがあったはずなのに、別の日にはすっかり忘れてまた同じところをぐるぐるしている…。
またこれをやってしまっている、と愕然とすることもしばしば。

だけどこれらは、そもそも言葉にしなければ、意識することがなかったかもしれない。
感じていることを、見て見ぬふりをしたり、無かったことにしていたかもしれない。
自分が自分の存在を無視する、認めないということは、とても怖いことだと思うようになっている。

どの感情も、そのときの自分が感じた、自分にとって大切なこと。
以前よりも、もっとこまめに、真剣に、自分の声を聴くようになっている。


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自分が「生きづらい」と感じている現実のなかで行っている、対処の数々。
たとえば、「自分が悪いのだ」、「至らないせいだ」、「劣っているからだ」、という考えで、自分を納得させようとする。

自らその価値がないと思い込むことや、厳しいことを自分に課しておくことで、自分をどこか安心させている。
このやり方にいたるまでには、どうやらそれなりの環境や理由があったらしい。

自分が生き抜くために、子供なりに考えて、習得してきたことらしい。
自分に起こっていたこと、感じてきたことを「客観的に」見てみるという取り組みをしたことで、これまでになかった視点が生まれている。


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自分にとっての違和感、モヤモヤしそうな怪しい気配に、ずいぶん敏感になってきている。
ある出来事に反応して心が乱れるとき、ぐらぐらしながらも、起こっていることの正体にも目を向けようとする自分を、感じるようになった。

これはひょっとして「症状」の一部では、と疑えるようになったことは、その発想すらなかった頃に比べれば、かなりの進歩ではないだろうか。


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自分に対してひどい恐ろしい言葉を浴びせていた、ということも、改めて気がついた。
「まだあれもこれもできていない」、「これでいいと思っているの?」などという脅迫を自分に向けて、なおさら自分を息苦しくさせていた。

自分にダメ出しをして、追い立てて、限界ぎりぎりまで努力をしないと、自分に価値がないように感じてしまうこと。
まさに「症状」そのものなのに、そうとは知らずにいたことが、今となってはとても怖い。

それは、心地よくないし、自分のためにならない。
自分を緊張させ、委縮させ、呼吸を浅くするだけ。
自分に本来あるはずのエネルギーを奪い、その後の時間を先細りさせるだけ…。


代わりに芽生えてきているのが、「その方が自分にとって気持ちがいいから」というイメージ。

「今日は、もう寝よう」とか、「ちゃんと休もう」という走り書きもちらほら。
過酷な状況に耐えるとか、超人的なスケジュールをこなすことではない、「現実的」なやり方を、身につけようとし始めている。


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自分にとっての問題の大きさを自覚するにつれ、絶望的に感じたり、途方に暮れそうになる。
いま、新たに怖くなっているのが、古い習慣には簡単に手が届いてしまうということ。
とても身近にあり、「慣れている」ので、そのほうが「ラク」と思ってしまうかもしれない。

けれど、この3ヵ月を通して、とても大切なことを学んでいる。
生まれてからこれまで、長年かけて身につけた習慣をひっくり返すなんて、そんなに簡単なことではない。

知識を得て「わかる」ことと、そのように「できる」ということは、別のこと。
今すぐにできないからといって、がっかりしたり、自分を責めたり、怖がったりする必要はない。


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これからもたびたび、途方に暮れることもあるかもしれない。
そのときは何度でも、この3ヵ月の足跡を振り返ろう。

「怖い」「恐ろしい」と感じたことを、これからの歩みにつなげよう。
「このままこの時間を続けたくはない」と決意したことを、思い出そう。


自分がありのままの自分を大切にできるよう、自分を知ることを、勉強を、練習を、続けていこう。
必要な時間やエネルギーを、自分のために使っていこう。

3ヵ月、本当におつかれさま。
正直に表した言葉に、その勇気に、誰よりも自分が励まされている。
ありがとう。
これからも、一緒に歩いていこうね。




タイトルはじまり目印

A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) むらさきクラス



タイトル下の線


わたしは自分が何かに「巻き込まれている」という感覚が育ってきたと思う。
そしてその現状は非常に危険なレベルである、ということも理解できて、だから今とても怖いと感じている。

このままでは本当にまずい。
わたしは今全身で恐怖を感じている。


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わたしが巻き込まれたものはなんだったのか、少しずつ勉強を重ねることでゆっくりと理解が深まってきていると思う。

今はニュースも前よりもずっと冷静に見れる。
世界や世の中に対する見方が変わったと思う。

どう変わったか。
全体の中の自分の立ち位置の捉え方が変わった。

今までは「自分の位置」すら意識したことがなかった。
冷静さがなかった。
わたしは自分自身を「被害者」だとは全く思えなかった。
今もそこは体感としては正直ピンとこない。


わたしが巻き込まれていることは、非常に深刻なことだった。
わたしは虐待されていたのに、まるで何事もなかったかのように、むしろ裕福な家庭で幸せだったかのように育った。

そのことが本当に深刻なことなのだった。
そのことにより深く現実的に気づけた3ヶ月となった。


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自分のことはそっちのけで、他人のお世話がやめられない。
そのことが言葉以上に自分の実際として見えてきた。

それは心底恐ろしいことだった。なぜならほぼ全自動だから。
無意識の行動というぐらに馴染んでしまっているから。それをすごく怖いことだと思うようになった。


他人のお世話をして笑っている時の安堵感は、錯覚なのだ。
今の自分の姿から遠い昔の子どもの自分を想像するときあまりのことに気を失いそうになる。


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小さなこどもが必死に親に気を使い親の世話をしているその姿はあまりにも胸が痛む。
そして今のわたしはまだそれしか知らない。
それを続けている痛々しい子どものままなのだ。
他のやり方はやったことがない。別の道を選んだら結果としてどうなるか全くわからないから、ものすごく怖い。

だから前のやり方に安住してしまう。そのせいでとても辛いのにそれがやめられない。
人の価値観が自分を外側から規定する。その手が外側から自分を縛っていくのを自分で食い止めることができない。


「否定」されるべきではないものを公然と「否定」される時わたしは言葉を発せられなくなる。そこで「肯定」されることが必須だ。と感じて我慢したり頑張ってしまう。
そうやって相手の価値観に「依存」することがデフォルトだからまるで見えない糸で縛られているみたいになって、逃げられなくなってしまう。

それがわたしに刷り込まれた細胞レベルでの「反応」なのだった。
自分を守ることができない本当に危険な状態だと思う。
さらに怖いことは、わたしが望んでそうなったのではないと言うことだと思う。


それがニーズがいっぱいの親の元で育つ、と言うことなのだと思う。
それがわたしのルーツなのだ。

依存されられたことは「被害」なのだ。わたしの落ち度でも欠陥でもない。
他人に自分の中心をいとも簡単に明け渡してしまう。そうせざるを得なかったからなんだ。
わたしは今もそうするしかない子どものままなのだ。


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わたしには「家」と呼べるもの、わたしの「居場所」と呼べるものがなかった。

見た目は普通の家庭に生まれて普通に育ったように見える。衣食住も足りていた。けれどそういうことではなかったんだと学ぶことで知った。

わたしは「家族」がないまま、たった一人で生きてきたのだった。
家族がない、ということは「安全地帯を持っていない」ということ。


わたしは文字通り「誰の力も借りずに、たった一人で」ここまでを生きてきたのだった。気持ちもやり方も孤立したまま、それが表面には見えないまま、ここまできたのだった。
だから今のわたしには「家」と呼べるもの「居場所」となるものが必要なのだと思う。形ではなくて、機能としてそういう本来の役割を果たしてくれる場所がどうしても必要なのだと思う。

今までもそれが必要だった。
そしてわたしは必要に手を伸ばすことさえ、知らなかった。できなかった。

「手を伸ばせば助けてくれる人がいる。安全な場所がある。
人間にとって安全な支え合いの仕方がある」ということを全く知らなかった。
孤立させられて生きる。それがまさにわたしの受けた被害、ということなんだと思う。


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わたしが変わったこと

<わたしは自分をもう悪いものだと思わない>

わたしには自分に必要なものを手にいれる価値があるし、またその力があるんだと思う。わたしは悪いものではない。このこともじわじわと理解が深まってきた。

特にこの3ヶ月の間に掴んだもので大きかったのは、自分を否定するようなセルフトークに耳を貸す義理はない、ということだった。励まされ、温かくなるような言葉。厳しくともそこに愛を感じる言葉とそうではない言葉がある。
わたしはそれを聞き分けることができる。

気持ちを萎えさせるような言葉や態度はそもそも他人にぶつけたりしない。それなのにそれが常態化している家だったと言うこと。
反対に見た目甘くて柔らかくても中身のない言葉、無責任な言葉。それにもわたしは傷ついている。


自分を大切にしなかったら、本気で怒られるのだ。
わたしが自分の育った家で本気で怒られた時それは親の心を不安で居心地悪くさせたからなのだった。わたしのことはまるで関係がなかった。怒られても「わたしを動揺させるようなそんなお前はダメだ!」と言われているだけなのだった。

そして今はそれもわたしは感じ分けることができる。完璧にではなくても、違和感に立ち止まることができる。
これはあの時本当はどう感じていたのか? を繰り返し掘り返した収穫なのだと思う。

甘やかされると傷つき、怒られても傷ついた。
それも当然のことだったと学んでわかった。
わたしがおかしかったのではない。傷ついて当然のことをされただけだったのだ。


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<わたしには力がない、それは本当なのか? 疑えるようになった>

わたしは誰かがいなくなったら困ると思っていたし今も不安があるけれど、そんなことはないのではないか。
わたしは充分に一人でやって行けるのではないか。

わたしはいろんな意味で腰を折られてしまってるんだと思う。繰り返し傷つけられたこと、そして自分を奪われて依存させられてきたことで自分は見放されたらやってゆけない、と感じている。

自分が信頼したい場所で認めてもらえない、ということは本当に傷つくことなんだ。
わたしは本当に一人でやっていけないのだろうか。否定されて怯んでしまって動揺しているわたしがいるけど、それはひどいことを言われたからであってわたしは一人で充分やってゆく力があるのではないだろうか。

状況やコントロールでそう「思わされて」しまっているだけなのではないか。
本当は力があるのに、そうあることを奪われてきただけなのではないか。

そして何よりも、親は子を一人でもやってゆけるように育てるのではないか。
結果として今わたしがそうではないと言うことの意味は桁外れに大きいと思う。


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<否認、合理化、コントロールでは自分を本当の意味では守れない>

わたしの現実はあまりにも厳しかったから、わたしは小さい時からずっと「夢の中」に生きてきたと思う。
わたしにはずっと長いこと逃げ込んでいた世界がある。

想像の世界、架空の世界に生きる。それで身を守ってきたと思うし今も折々それをやっている自分がいる。
そしてそれを否認って言うんだ。
それはわたしがやってたと言うよりも家族から受け継いだものらしい。

否認、合理化。コントロール。
見てみないふりをすること。
夢や想像の中から出ないでそこで暮らすこと。

そこは現実の世界ではない。
そしてわたしは現実に幸せになっていいし、本当はそうなりたいと思っているんだと思う。


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<わたしは自分を普通に優しいと思う>

わたしはとても優しく思いやりがあるまともな人でもう充分素敵だ。そう感じる時の方がずっと落ち着くし「まとも」な感じがする。

最初から完璧にできなくてもいいよ、失敗してもいいよ、間違えてもいいんだよ。そう自分に言えた時とても居心地よくなった。

わたしは自分をかなりの圧力で縛っていたらしい。
間違えてもいい。失敗してもいい。それって本当にとても優しくて温かい。居心地がいい。
そのことにさえずっと気づかなかった。


文節区切りの線

<わたしには弱さがある、そしてそれは悪ではない>

わたしは感情をぶつけられると怯んでしまう。「暗に」縛られる。
外堀から埋められると気づかずに従ってしまう。

それは繰り返し「ありえない」扱い方をされてきた心の傷が深いから。そしてわたしが優しいから。

縛られるのはわたしが「依存」と言うあり方しか許されてこなかったから。

今は違う。感情をぶつけられても、冷静になれる。
一呼吸置ける。外堀から埋められてもあれ、なんか変じゃない? と違和感を感じられる。


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<世の中の見方について>

わたしはこの社会の中で、本当に自分の足で立って生きていかなければならないんだと感じる。
そしてそれはできることなんだと感じられてきた。

そのためにわたしは「必要なケアーにつながる、繋がり続ける」と言うことが必要だと思う。
そしてわたしにはその価値があって、それを得る力もある、と感じてきている。

本当に人は一人一人違う。
だからこそわたしが自分のことを知らなかったら、一生わたしは発見されないまま埋もれてしまうんだと思う。

いろんな価値観がある中で、ここら辺からここら辺まで、と言う自分なりの「安全ゾーン」についてよく考えるようになったし観察するようになった。
自分自身も自分が関わりを持つ人ともこの安全ゾーンがとても大事なものだと言う認識が今はある。これがずれているのではないか? と思われる関係や自分の行動には気付ければ注意をするようになってきた。
前に比べたらかなり注意深くなったと思う。

そう言う視点で改めて見る自分の周りには違和感がいくつもある。
その違和感を投げ捨てないで、ちゃんと観察を続けていこうと思う。
あれ? おかしいな。と感じる自分の行動も徐々にではあるけれどやめられるようになってきたと思う。


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<これから長い道のりを歩こうとしているわたしへ>

わたしは自分のケアーに関して完全にやる気を失ったうつ状態の人みたいなんだと思う。
例えば出がらしのお茶を飲み続ける。
怪我をしても手当てをしないで我慢して乗り切ってしまう。
そしてそうやってネグレクトされ続けたわたしは今瀕死状態だ。

いつもは放っておく打ち身をすぐに冷やしたら、あざにさえならなかった! これこそまさにわたしに起こっていることなんだ、と理解した。
わたしはとことん自分のお世話に対してやる気がない。

それほどまでに気持ちが萎えてしまっていたんだよね。
瀕死になって当然だよね。


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わたしはたとえどんなわたしであっても、いてはいけないなんてことはないんだと思う。
わたしは歳をとってシワシワのおばあちゃんになってもずっとずーっとかわいいんだ。

親にとって子は本来そう言う存在。わたしは大切にされ、大事にされていいはずの存在だよね? 
本当はとても大切でかわいいのに、そうしてもらえなかった。
わたしをこれ以上一人ぼっちにしたら可哀想だよね。

あなたはとても大切。そのまま、今のままでとても大切。本当はそう言うことだったんだよね。
そうじゃなかったことの方がおかしかったんだよね。


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閉鎖的な人間関係から一歩ずつ離れて大勢の輪の中へ戻ろうとしているわたしへ。
今までわたしを大切に守り通してくれてありがとう。怖かったね、辛かったね。心細かったし苦しかったよね。何回間違えてもいいし、何回失敗してもいいよ。すぐに完璧にできなくてもいいんだよ。何度でもやってみていいんだよ。

誰のことも責める必要はないんだよ。それでいいんだよ。
やり方はまだわからなくとも、自分を大切にして生きよう。

一人ぼっちで生きるのはもうやめにしよう。そう、誰かから離れるんじゃなくて、大勢の中に戻るんだよ。
そう捉えたらあったかいよね。不安が減るよね。
そしてその方がずっとずっと生きやすいんだよ。だから大丈夫。


文節区切りの線

やったことのないことは、とても怖いね。どうなるかわからないもんね。
今はとても怖いかもしれない。そしてわたしはきっとできるようになるよ。

いつもいつもわたしが進めるだけの分量を進んでいこうね。ゆっくりで大丈夫。
とても勇敢で尊い時間を生きている今のわたしをわたしはとても誇りに思うし、とてもかわいいと思っています。

子どもっていうのは、何はなくともかわいいものなんだ。
大切なわたしへ。生まれてきてくれてありがとう。
毎日の中のわたしの分の幸せをどうか投げ出さないで。
遠慮せずじっくりと味わってください。


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<ほんとは、やりたいことが、いっぱい!>

今のわたしは実はやりたいことがいっぱい、いっぱいある。部屋と家のお掃除、模様替え。シーツとパジャマの新調。新しい靴を買う。どんな靴があるのか、どこで買うのか調べたり見に行ったりしたい。
お部屋で最大級の居心地を作るためにどんな風にしたらいいのか作戦を立てたい。


わたしは自分に集中することは許されないことだと感じている。今も自分に集中すると周りの人に悪いことをしているような気持ちになる。
本当にいいのか不安になる。
人のことをほっぽっておいて自分のことをするのか? と。言葉でも態度でもそういう圧力をかけられて生きていたから。

そしてそれは心底恐ろしいことなんだと今は学んだから知っている。
知っていても、次に行くことはまだとても怖い。
これまでいた場所の怖さと、これから行く場所の怖さは、でも違うと思う。未来のない恐怖と未知への不安。


文節区切りの線

本当はやりたいこと、集中したいことがたくさんある。時間をかけたいことがいっぱいある。自分のことだけで本当にたくさんあるのに、なのに他人のお世話がやめられない。
とても不自然だし不思議でさえある。おかしなことになっている。そう思う。

けどそりゃそうだよね。調教されてきたも同然。だから怒りだって半端ない。けどこの怒りは、わたしが大事にとっておいたわたしのための原動力だと思う。

一人前でなかったら何もスタートしてはいけない。そんな理不尽な子育っててある? 
ふざけるな! わたしは怒っているんだ。


ほっておくと本当に全自動で人のお世話に明け暮れる自分。気づいて変えて行けるのはわたしだけ。そのことに気づけるのも、わたしだけ。
この人生を、わたしは歩いていこうと思う。


文節区切りの線

まずは、体調を整えること。自分の身体を本気で労わること。誰がなんと言おうと、後ろ指さされようと、わたしが大事したいのは今はわたしなんだ!!! なんか文句ある??? って言えないけどほんとはそう言いたいんだ。
大きな声で叫びたいんだ。ぼーっとして気づかないままケアをすっぽかす癖を徐々にとってゆくんだ。


そしてワークにだってのめり込んでしまうほど、わたしは自分を追い立てて追い込んできた。
今もかなり、本当にかなり、無理している。
詰め込んで追い立てて、まだダメだ。もっとだ、と駆り立てて追い詰めて生きてきた。

ワークにしがみついて、体調を整えるだけでも他のことなんか絶対できないほど今のわたしは疲れ果てている。
人のお世話なんか特に無理だし、無茶なんだよね。

しっかり休むこととワーク。今年はもうこれだけ。それだけができたらもう十分だからね。


文節区切りの線

3ヶ月一緒に歩んでくださったお仲間さん。
書き込みを読んで、そうだそうだ。って思うことがなんどもありました。
より鮮明に気づきをいただくこともありました。

ひとりじゃないよができて、本当にありがたかったです。
ありがとうございました。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

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