2023.06月開催 「感情ワークショップ」はちみぞやまクラス

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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) はちみぞやまクラス



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わたしへ

「今年は『感情ワークショップ』と『身体のワークショップ』に参加しておいた方が良い気がするよ」
と、私をつついてくれてありがとう。

そして、その小さな声をちゃんと聞いてくれてありがとう、私。
うん、やっぱり参加して良かったよ。


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私は感情について以前より感じることが出来るようになったり、わかるようになってきました。

回復を始めた頃、私は感情を全く感じることが出来なくなっていました(感情があるように振舞うことは出来る)。

唯一の「本当の私」の感情表現と言えば「なんの涙かよくわからないけれど、涙が出る」(自分が安全と感じたり安心できる場所でのみ)くらいでした。
その頃は見るものすべてに色もなかった気がします。


私は長い間「私は嬉しいとか、楽しいとか感じられる時は来るのだろうか? 景色が色鮮やかに見えたりすることはあるのだろうか? まったく想像が出来ない…」と思っていました。

そんな頃を経て、今は比較できないほど色々な感情を感じたり、いろいろなものが色鮮やかに見えるようになり、私は自分の成長を嬉しく感じたり満足したりしていました。


ただ、最近自分のことも含めていろいろなことを勉強したり、考えたりするうちに「私は本当に『感情』について理解しているのだろうか? この理解でいいのだろうか?」と思うようになり、今回ワークショップに参加することにしました。


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結果、やはり参加して良かったです。
私は「感情」というものの理解がまだ全然足りていなかったということがわかりました。

また、私は「感情を感じることが出来るようになること」を目標にしていたのでそこで満足していたこともわかりました。
感情を感じることが出来るようになることも大切だけれど、「どうして感情を感じることが大切なのか?」ということを改めて確認することが出来て良かったです。

また、優月さんに「感情はただそこにあるもの。ふるえるもの」と教えてもらいました。
「自分が嫌だと思っていること」を口にするワークをしたときに、そのことを心と身体で理解できたことは私の中でとても大きかったです。


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そして、やはり何に対しても「対策」が大事なのだと思いました。

「その感情に対して対策をする」
私はこの「対策する」自体が苦手で、自分ではなかなか浮かばなくていつも焦っていました。

今回ワークショップをふり返っていて、今まで私は「立派なことをしないといけない、言わないといけない」と思っていたから余計に浮かばなかったのだと気づきました(本当に私の中からは共依存しか出てこないな…とつくづく思います)。


私が今回のワークで思いついた対策は立派なことでもなんでもなくて小さなことでした。
(疲れ果ててあまり考えられなかったのがかえって良かったのかもしれません)

でも、私はその対策に安心しました。
自分が自分のために出来る対策はどんなに小さくても何かはあること。
それは自分が知っているし、その対策は安心するし満足するもの。

それこそ「立派なこと」「それっぽいこと」を考え出すと結局安心も満足もしないし虚しくなるだけ。
そのことに気づくことが出来て良かったです。


今回学んだことを練習して、少しでも自分が安全な世界で安心して生きていけるようになりたいと思いました。
ありがとうございました。




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) はちみぞやまクラス



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私には、感情がある。
姿勢を意識してととのえてみて、私は、自分の存在をたしかに感じられた。


私は、自分というものが無い。
それでは自分で人生を切り拓けない。
そのための自分の基準や指針がない…。

そのように自覚するとともに、「感情」は自分のニーズを表す、という理解も少しずつ深まってきているとは思う。


それでも私は、その知識と現実のやり方を結び付けられず、ビジョンがなく軸がぶれる自分が悪いのだという結論に、つい陥ってしまっている。
現実に作用する方法を身に着けるために、私にはたくさんの練習が必要である。


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私には、自分の感情があり、自分の身体がある。
私はたしかに存在している。

ととのえた姿勢で自分自身に注意を向けると、私は自分の中に、ずっしりと安定した太い柱のようなものを感じた。

ここに、私がいる。
私が感じることが、たしかにある。

この、自分と感情がつながっているという安定感はとても頼もしく、ちょっとやそっとじゃぐらつかないぞ、という心地がした。
そして、私にはこれを自分で守っていく責任があるのだ、とも感じられた。


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自分以外の誰かや何かによってできているものを後からくっつけて「自分がそう感じたことにする」ということは、おかしい。
自分とは本当にはつながっていない現実が重なっていくことは、当然の結果なのだ。

ひょっとして、他人の感情もこうしてしっかりとそれぞれの人に属しているのでは。
それなら本来は、他人の感じることを外側からどうこうできるものではないのだろうな、という発想も浮かんだ。


命として存在すること、多様であるということ。

人によって様々である心や身体は、どれも尊重されなければいけない。
もちろん、自分自身も含めて。

ワークで体感したしっかりと自分とつながった感覚のある感情と、これまで「感情」と思っていたものには、大きな差があった。
私は、いかに自分が自分の感じることを尊重していなかったのかを、改めて思い知らされた。


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「感情はきれいごとだけではない」と聞いて、私はハッとした。

私には、「いやだ」という感情も、ちゃんとある。
腹から自然と声がでる状態の私には、そう感じてもいいのだ、ということが自然と思い浮かんだ。

感情も、声も、身体も、私は丸ごとこの自分とつながっている。
「そんなことを感じてはいけない」と押さえつけるなんて、正気の沙汰ではない、とても不自然なことと感じられた。


私は、感じたことを書くということは、日々の中でやっているつもりだった。
しかし、私はいつの間にか、それすらも「こなす」とか「立派にやる」といったものにしてしまっていたかもしれない。

十分な量であるか、気づきを得られたか、そのために振り返りを「完璧に」できているか…。
私が私へ浴びせる声がけは、この私という存在を尊重しているとは思えない。

これは、やめたほうがいい。
私は、冷静な自分がそう感じているこのやり方を、自分で変えていかなくてはいけない。


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私は私に誠実でありたい。
以前からそう願っていたはずだが、現実を変えるためには、念じるのではなく自分で行動をしていく必要がある。

感情をもみ消したりすりかえたりしてその場をしのぐよりも、受けとめて必要な対処を試みる自分のほうが、私は好きだ。
ずっとずっと信頼できると思う。


私は、「私」として生きていくために、自分と真剣に相談をしていきたい。
そのために私は、感情を自分のサインとして大切に受けとめ、名付けて、対策をとっていく。

私は何を感じているか、それは私のどんなニーズなのか、それをどのような行動につなげたらよいと思うか。
私には、このような現実的なやり方が必要だと思う。

大切な私、練習を続けながら、これからも一緒に歩いていこう。




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A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) はちみぞやまクラス



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やっぱり ONSA WORKSHOP(対面式)はいいなと思う。
「私の子どもとの日常のエピソードなんて、誰も興味ないかなあ」なんて思いながらでも話してみると、そこから優月さんの話が膨らみ、それを聞いたみなさんが、それぞれの何かを思い出して泣いている。

逆に、私もお仲間さんのシェアのやりとりを聞いて、「そういう考え方や対処があったのか!」と刺激を受けることもあった。

そういう、その日そのメンバーで分かち合う共鳴反応みたいなライブ感は、対面式ならではだ。
私のシェアが、何かしらの反応を起こした。そういう感覚はすごく嬉しい。


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私は、私が変えなければいけない現実の大きさを目の前にして、しばしば目を背けたくなる。
「子どもが大きくなって、手がかからなくなったら、私も夫にイライラすることもなくなって、うまくやれるんじゃないか」
「実際、子どもが産まれるまではここまで怒りを覚えることもなかったし」
「子どもがいるというストレスフルな状況が悪かったのであって、夫が悪いわけではないのでは」


現実を変えなくて済むなら、どんなに楽か…どれだけのエネルギーやお金や時間を使わなくて済むだろうか。

この考えがやばいのはわかっている。
書き出せばくっきりとわかる。これはコントロールだ。

「現実を変えない」誘惑に打ち勝つためには、ひとりになってはいけない。
だからワークショップに出る。


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私はワークショップの中で、姿勢を整えて、声に出して、自分の感情を確認した。

彼は、私が最も大変な時に、協力しない人だ。
彼は、私と感情を分かち合えない人だ。
彼は、私の意見よりも、権威の意見を優先する人だ。

きっとそれはこれからも変わらない。
たとえ子どもが大きくなっても、夫婦に降りかかってくる問題はこれからも発生する。
たとえば世の中の状況が悪くなること。あるいは、加齢に伴って私や夫の体調などが悪くなること。


そういった時に、今までの彼の行動パターンで対処されたら、どうだろうか?
事態はますます悪くなるだろう。


絶望的だけれども、このことは、何度も何度も確認しなければいけない。

1%の確率もない、甘い夢を見てはいけない。
それは私の感情が、おそらく一番知っていることだから。


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「今の、本来の自分にとって好ましくない環境の中で、普段からまともに感情を感じていたら、そのあまりの負のエネルギーに、とても日常生活が回せなくなる。だから、普段は “ちょっと酔ってる” 状態になっているはず」

そんな話をワークショップ中に聞いた。
私は、以前に比べたら相当、自分の感情にストップをかけなくなってきていると思っていた。


ワークショップ・クラスが終わり、原家族が長女を預かってくれていたので、家に送りにきた。
夫と息子も帰ってくる。

そこに集う、今の私を囲んでいるキーパーソンたちを見て、私は「なんという壮々たるメンツだ…」と愕然とした。
子どものことは大好きだが、大人たちに関して言えば、さまざまな情はあれど、心から「大好き」などと言える人はいないのだ。

そんな人たちが一番近しい「家族」ということになっている。
このギャップ。
これが、解離によって感情を麻痺させ…「酔ってる」状態で作り上げてしまった現実なのだと思い知らされる。


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家族帰宅後の私は、ワークショップの時とはスイッチが切り替わり、自動操縦モードになった。
これは、おそらく、大人として、子どものいる家庭を崩壊させないよう、現状維持のためにはある程度いたしかたないのだろう。

少なくとも、「今は、“感じられてない” 時間なのだな」と、頭でわかるようになっただけ進歩だと思う。
それがわかっていれば、「重要な決断や返事は、自動操縦モードの時間にはしない」という切り替えが自分の中でできるようになる。


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私は、カッとなって子どもを怒ってしまうことがあり、その内容が後から思い返しても理不尽なものであることに罪悪感を覚えていた。

まるで自分の母親が子どもたちにそうしていたような怒り方。
私は残念ながら、自身の体験としてそんなやり方しか知らないがゆえに、とっさに出てくる方法がそうなってしまっていた。

今回のワークショップで、新しい感情への対処の方法を練習した。
すぐできるかは置いておいて、少なくとも、「対処の方法が存在するのだ」ということを知っただけでも安心だ。

災害時の対策を揃えておくように、扱いが難しい感情への対処も、知っておくだけで「この方法があるから、大丈夫」と思えるようになる。

これも今回得た私の財産。
できるだけ、自分でも練習してものにしたい。


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「感情ワークショップ」の翌日は「身体のワークショップ」を受講した。

この日、なぜか私はおしゃれがしたくなり、クローゼットから3年ぶりくらいのおしゃれ服を手にとった。
いつも、子どもがいて汚れるとか、動きにくいとか重ね着できないとかいう理由でなかなか着ていなかった。

特に人目を意識したわけではない。
ワークショップにはいつもラフな服装で参加するし、朝、夫と過ごしていた時にはまだボサボサでパジャマを着ていた。


純粋に、今日は自分がそうしたかったからそうした。
着てみると、「あら、いいじゃない」と少し笑顔になった。
調子に乗ってイヤリングやら小物類まで引っ張り出して、ちょっとしたおめかしになった。

もしかしたら、こんなことも「感情ワークショップ」で感情を出したことが影響しているのかな、などと思う。
いつもの自動操縦で「この気温だから動きやすいこの服」とか決めている既定路線から、脱しているのかな。


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最近、私は密かに好きな人がいる。
もちろん、私は法に触れるつもりも、自分の家庭をぶち壊すつもりもないので、このまま密かに好きでい続けるだけだ。

今週はその人に会う機会があり、やっぱり好きだなあと思って、うっかり涙が出そうになった。
ああ、これは、好きな人がいてもそれを伝えられる立場ではなくなってしまったという「悲しみ」だな。

これは、ただ1人で泣ける場所を用意してあげればいいのだ。
この気持ちを無視したり、なかったことにしなくていいと思えると、とても安心できる。


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お気に入りのはちみつ屋さんから届いた荷物の中に、ちょっとした手書きのメッセージカードが入っていて、「はちみつの品質が良いだけじゃなくて、こういうところも好き」と心から嬉しかった。

この店員さんのことが好き。
嬉しい、快いから、また直接お店にも顔を出そう、と思った。
これが、自然な感情への対処法。


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うまく眠れなかった日の朝、息子がお気に入りの野菜ジュースをもう1本飲みたいと言う。
私は、1日1本にしてほしいと思っている。
「もう1本飲んだから、また明日ね」と伝えた。

2歳の息子にはまだうまく伝わらないことが多い。
かんしゃくを起こしてジュースの缶を投げ始めた。

私はプツンとキレてしまい、「いいよ! じゃあ飲めよ! 開ければいいんだろ!!」と乱暴にもう1本を開けて渡した。
その勢いが怖かったのか、また息子は泣いてしまった。

そのタイミングで朝のシッターさんが家に来る時間になった。
息子は、玄関に来たシッターさんのところに走って慰めてもらいに行った。
私は、信頼できる大人がもう1人来てくれたことでホッとして、怒りが収まった。


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子どもたちがいなくなってから、さっきの私の感情について掘り下げた。
本当はキレる前に落ち着けるといいのだが、疲れている時はまだ難しいようだ。

私は、息子に、ジュースは1本までとわかってほしかった。
私は、私が困っているときや疲れているときに助けてほしかった。
ジュースは1本までという境界線が破られそうになって、私は怒ってしまったのだ。

対処は、
・安定した睡眠がとれるような対策を進めていく。前日のスケジューリングに注意する。
・ジュースを2本飲んだら息子は落ち着いたし、その後の朝ごはんも食べられた。2本までは許容とするか。
・息子の目につくところに置く野菜ジュースは1本にして、残りは隠す。目に入る情報として「そもそも1本しかない」と認識させる。


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今回の PAY FORWARD 期間中に、姉の誕生日があった。
毎年何かしらプレゼントを用意していたのだが、今年は私のやりたいことが多すぎて、姉へのプレゼントの優先順位はとても低くなってしまった。
特にプレゼントは用意せず、家に招き、私が食べたくて買った無農薬スイカを分け合って食べる会にとどめた。

原家族のメールで、姉を祝うメールがやりとりされた。この中で姉は、このように返信をした。
(姉は ECC ジュニアの先生をしていたので、英語で返信してよ! という他の家族のリクエストから。)

I don’t like birthday things.
My birthday isn’t happy at all.
It’s like I’m holding my breath.
I wish my life was much better.

これを読んで、なぜか私は罪悪感を感じた。
姉の誕生日が幸せでないのは、私がプレゼントを用意しなかったからでは、と思った。

そして冷静になって考える。
私が誕生日プレゼントをあげるかどうか、という判断は、私の境界線の範囲内だ。
姉の誕生日が幸せでないのは、姉の境界線の範囲内の問題だ。

お互いに無意識かもしれないけれども、もしかしたら、暗に境界線を踏み越えられているのかもしれない。
(後日、「娘のお弁当に入れるから、余ったスイカちょうだい」と電話がきた。やはり私の姉の間は境界線が曖昧だ。)

これからも感情に注意して、徐々に距離を置いて行こうと思っている。


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日曜日、夫に、粗大ゴミに出す布団を紐で縛ることをお願いした。
しかし、その日は疲れてしまっていたようだ。

布団の前で呆然と座っている夫の姿を見つける。
夫に任せたのだから見ないふりをすればよかったのに、私はそういうことはできない。

やはりここで感じたのは「罪悪感」だった。
「大丈夫? 疲れてるの? 一緒にやろうか?」と言って、手伝った。というか、ほとんど私が縛った。


逆もある。
例えばそうやって夫が疲れていて動けなくなっている時や、スマホに熱中している時などに、私1人で家事をしなければならなくなる。そうすると私は不機嫌になって子どもを怒る。そうすると夫が動き出す。
直接言うのではなく、夫の「罪悪感(?)」を利用して、夫を動かす。

そういう、お互いの境界線を侵入し合うような不健全な非言語コミュニケーションが、私と夫の間にあるのだなと、反省している。


| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ

ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
実際に回復(リカバー)した者が主催であるため、現実的・実践的な内容が特徴です。

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