ちょっと、命のことを |”誰か、何とかしてくれないだろうか” には名前がある。それが「共依存(←けっこうな病)」

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「時間」と「心」が活動テーマ、文筆業・藤沢優月です。


標題どおりです。
そうです。


「誰か、何とかしてくれないだろうか」

こうやって、ただ傍観し、受け身で延々、何かを待っている状態。
指摘されないと、自分が「受け身である」「待ちである」「思考停止している」ことにも気づけない……。



この状態には、れっきとした名前があります。

「共依存」と呼ばれています。





自分の人生なのに、自分で主体的に動かない。
考えない。
指示されるのを、無意識に待っている。


「誰か、指示してくれませんか?」
「間違いのない最短コースを、筋道立てて、教えてくれませんか?」

「それに納得できたら、動きます」

「誰かが “これが正しい” と保証してくれたら、動きます」
「”これが安全です” と証明・明言されたら、動きます」


こんなふうに、無意識に、他者のはたらきかけを待っている状態。

待っていることにも、自分の受け身にも、気づけない。
それが、この「共依存」の恐ろしいところ。






もう、前後関係がわかりますよね。


……その「保証」が、悪意だったらどうするの

それが、今回……3年前に起こったことですよね。


要するにですが、仮にでも、本当の正しさが「証明」される頃には、コトは手遅れ。
周回遅れに。

本当は、自分のために何かできたはずの、その「3年」。
受け身で、誰かの証明を待っているうちに、過ぎてしまった。






「共依存」は、本当に、命を失える症状。
だから、そうならないで。


感覚が、すっかり麻痺している「お仲間さん」。
私には、呼びかけることと、主催することしかできない。

できることとすれば、弊社(ONSA)のワークショップ・勉強会をつうじて、感覚を取り戻すサポートをすること。
命がかかっているから、それはもう、全力で。



まずは、今週末にお会いする「お仲間さん」。

時間いっぱい、せいいっぱい、学んでゆこう。
自分の命は、意地でも、自分で守るのです。

自分の命を、他人のあやふやな「保証」などというものに預けたら、絶対にダメなんだよ。



それでは、また。
また、メッセージを書きにきます。